16話 王城の兎
──────ギルド学園、A寮。
寮生活、初めて一人の夜。
ミリアは自室の簡素なベッドに腰掛け、新しい制服を脱ぎ捨ててパジャマ姿で窓の外を眺めていた。
王都の北側、庶民的な住宅街に連なる灯りが、まるで地上に落ちた星空のようにきらめいている。
「ふぅ……」
一つ、小さくため息をついた。
それは城育ちの自分にとって、A寮の個室は驚くほどに“普通”で、そして不便だった。
豪華絢爛な装飾も、自動で温度調整をしてくれる魔法結界もない。ベッドのスプリングは少し硬いし、窓ガラスの結露を拭くのも自分の仕事だ。
けれど、ミリアはその「不便」さえも愛おしく感じていた。
王城での生活は、全てが完璧に計算され、魔導具と使用人に管理されていたから。
ミリアは入学前から学園に慣れるまで、護衛付きで寮生活をしていた。
しかし数日前に至るまで、コップを割る、ローブを汚す、食堂で食器をひっくり返す、という失態を立て続けに演じていたのだ。
「ドジっ子の極みだったわね……」
兎が垂れた耳を起こすように、立ち直りの早いミリアは、すぐにクスクスと笑い出す。
ドジはしたけれど、不思議と胸が温かいのは、周りの反応が優しかったからだ。今日新しくできた友人たちは嫌な顔ひとつせず片付けを手伝ってくれたし、ルルちゃんは呆れながらも「かわいいっすね」と笑ってくれた。
ミリアは窓に額をつけた。ガラスの冷たさが心地良い。
「これが……新しい常識。私が知らなかった、王都の最先端なのね」
シオンから話では、王都北部には今、新しい錬金術を利用したスイーツ店がオープンして行列ができているらしい。
中央大通りとは違う、秘密の路地裏にある小さなカフェや秘密のお寿司屋さんの話も聞いた。
「全然知らないことばっかりじゃん!」
ミリアは枕を抱いて目を輝かせた。
彼女の心には、どこか悪戯か好奇心旺盛な子供の部分が眠っている。
安全な王城という「鳥籠」から放たれた今、それは爆発寸前だった。
「シオンさんたちと、いや…………あの人とも、もっと話したいな」
──────それは、レイド・クラウン。
あの食えない変人。
彼がS寮生であることを知った衝撃はまだ冷めない。あのサインは、ミリアと彼だけの秘密。
もしかしてレイドさんは私のことが好きなんじゃ……….
「それはないかー」
自分で言うのも難だが、
私は意外にも人から好意を持たれやすい。
下級貴族みたいな姿に話かけられやすい雰囲気でもあるのだろう。
ただ、彼の隣には自分とは比較にならないほど、美しい女性がいた。
「存在するんだなーあんなに綺麗な人…………」
彼と話すことに緊張している。
仲良くなれれぼ、《ギルド学園》での生活がもっと面白くなる気がする。
そんな虚脱な現実逃避を繰り返しながら、ミリアは深く呼吸をした。
───よし。
明日、何か聞いてみよう。
「……ふふ、ちょっと悪いことしてるみたいで、ワクワクするかも」
ミリアはベッドから飛び降り、また明日着る制服を愛おしそうに撫でた。
変わりたい。これまでの常識を捨て、彼らと同じ舞台に立って、この新しい世界を思い切り楽しみたい。
──────けれど。
制服に触れた指先が、ふと止まる。
窓ガラスに映る自分の顔から、笑みが消えた。
脳裏に蘇るのは、出発の朝、謁見の間で父――皇帝陛下から下された、氷のように冷たい言葉。
『――ミリア』
父の声は、愛情深かった。けれど、それは「皇帝」としての絶対的な命令を含んでいた。
『学園へ行くことは許可する。
だが、忘れるな。
お前は王族の血だ。
ただ漫然と彷徨の時期を謳歌することは許されぬ』
父の瞳が、ミリアの心臓を射抜くように見つめていた。
『入学後。
お前に最初の「試練」を与える。
私の理解に値する圧倒的な実力を示せ』
『え……?』
『もし示せなければ
――即刻退学とし、城へ連れ戻す。
二度と外の世界へは出さぬと思え』
『で、でも────』
『ならん。
全ての意思決定権は私にある』
顔は思い出せない。
あのときの、
若々しくも重低な父上の声が脳裏に共鳴する。
───即時退学。
それはつまり、このキラキラとした自由の終わり。
シオンとのスイーツも、
レイドとの秘密も、
A寮の皆んなとの賑やかな日常も、すべてが幻として消え失せるということ。
「……最初の、試練」
ミリアは無意識に、自分の胸元を強く握りしめた。
試練、それは───《学園外学習》と呼ばれた。
失敗すれば「即、強制送還」という断頭台の刃が、常に首元にぶら下がっているという事実だけ。
「怖い……」
空元気で隠していた、本音が漏れる。
王城へ戻れば、またあの完璧で、退屈で、息が詰まるような「お人形」の日々が待っている。
「……でも」
ミリアは顔を上げた。
窓の外の灯りが、彼女の瞳の中で強く瞬く。
「──────絶対に、帰りたくない!」
この楽しさを、このドキドキを、手放してたまるものか。
父上の期待も、不安も、全部超えてみせる。
そのために私はここに来たのだから。
「……負けないわよ、お父様」
ミリアは震える手で、しかし力強く拳を握った。
私はマリオネット?
───違う。
この学園には、レイドという「規格外」がいる。シオンという「天才」がいる。彼らと一緒なら、きっとどんな試練だって乗り越えられるはず。
「おやすみなさい、新しい私」
ミリアは不安と期待がないまぜになった複雑な感情を抱きしめ、硬いベッドに潜り込んだ。
彼女の学園生活は、自由への希望と、断崖絶壁の緊張感と共に幕を開けたのだった。




