15話 研究塔
石造りの冷ややかな螺旋階段を、ふたつの靴音がゆるやかに上っていく。
ひとかけらの緊張も感じさせない、他愛のない会話。心地よい足音の重なりとともに、オレたちは黄昏に沈む《十角塔》の最上階へと辿り着いた。
「さあ、こちらが私の部屋です。レイドさん、“ご案内”しますよ?」
シオンの声は穏やかで、鼓膜を甘く撫でる。
振り返った彼女の透き通った海のような瞳には、ステンドグラス越しに射し込む夕陽が、濡れたように揺らめいていた。
その吸い込まれるような美しさは、この傲慢にそびえ立つ塔すらも、
彼女という存在を囲うための豪奢な鳥籠にすぎないのではないかと───そう錯覚させるほどだった。
最上階の最奥にひっそりと鎮座する、彼女専用の秘密の研究室。
繊細な指先が真新しいIDカードをかざすと、重厚な扉が低い電子音を鳴らしてロックを解く。しかし、冷たい金属のドアノブに添えられたシオンの指は、ふとそこで動きを止めた。
舞い降りた蝶を捕まえたかのように。
そう言えば、と。
彼女は不思議そうに小首を傾げ、互いの吐息が届くほどの距離で、オレを真っ直ぐに見つめ返した。
「レイドさんは…………
夕闇に溶けゆく空気を、艶やかな唇が密やかに震わせる。
──なぜ、『笑面夜叉』と呼ばれているんですか?」
探りを入れるような、それでいて無防備な問いかけ。
オレはいつものように、仮面のような笑みを張り付けようとして
───ふと、息を呑んだ。
澄み切った氷の瞳に映る自分の顔が、ひどく歪んで見えたからかもしれない。
胸の奥底で、とうに蓋をしたはずの記憶が静かに追走される。
「さぁね」
吐き出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
いつもの余裕を装って肩をすくめたものの、伏せた視線はどうしても彼女と合わせることができない。
「誰かさんが昔、オレのことをそう呼んだんだよ」
逆光に表情を隠しながら紡いだその言葉は、ひどく遠くを見るような、酷薄な二つ名とは裏腹の静かな寂しさを帯びていたかもしれない。
「え……?」
シオンの完璧な顔立ちに、予期せぬものに触れたような戸惑いの波紋が広がる。
彼女のその痛ましいほどの沈黙を置き去りにするように、オレは静かに扉を引き、口を閉ざしたまま仄暗い部屋の奥へと足を踏み入れた。
──────その瞬間
「わーっ、待って待って!」
息を切らして駆け上がってきたのは、ピンク髪を乱れさせたフレアだった。
制服の襟が少し乱れ、豊満な胸が激しく上下している。彼女の明るい瞳は、好奇心と焦りでキラキラと輝き、まるでおてんばな少女のように飛び込んでくる。
驚き半分でオレはその人物の登場に口元を緩めた。
「あーっと! ごめんなさーい! お洒落な場所見つけちゃったから〜ついつい入っちゃったなー!!」
わざとらしい棒読みの謝罪。フレアのその無邪気で大袈裟な演技が、なんだか愛おしい。
フレアがオレの右腕をとった。
「私の“婚約者”に何かようかなシオンちゃん───?」
「こ、…………婚約者ッ!?」
「あ〜悪いね。シオンなら知ってるかなって思ってさ、言い忘れてたよ」
「で。レイドくーん、シオンちゃんとはどんな“関係”なのかな?」
「え?…………オレ?」
「…………手を繋ぐような仲なのかな??羨ましいなー???」
「うーん、いやぁ実は特別な内緒の関係なんだよね、気づいちゃったかフレア」
「ッ!?」
「フレアさんこそ、彼と私の“秘密のお仕事関係”に口出ししないで貰えますか?まったくもう」
「………マジ?」
「冗談。
半分は嘘だよ、初対面。
…………でも向こうは、そうって訳でもなさそうだけど?」
「コホン。
改めまして、私は公爵家の娘であるシオン・ラインハルト、レイドさんの“パトロン”………になる予定です。
だから、
私とーってもお金持ちなんですよ、フレアさん」
「そ、そうなんだぁ。レイドくんも言ってくれればいいのにねー」
「言ったらつまんないじゃん」
「!?」
シオンは静かに微笑んだまま、オレの左腕を優雅に引き寄せた。肩まである水色の艶髪の毛先と、彼女の柔らかな胸元に腕が軽く密着する。その仕草は完璧に洗練されていて、まるで舞踏会のダンスパートナーを紹介でもするかのようだった。
「……これは、私とレイドさんの……個人的な時間です」
シオンの静謐で知的な妖艶さと、フレアの明るく爆発的な豪華さが衝突する。
「レイドさんと二人きりで……邪魔されない場所で、ゆっくりお話の続きをしましょう?
見て欲しいものがあるんですよね」
「それ……もちろん、研究的な意味だよね?」
「はい、そうですけど……?」
シオンの微かな挑発。
シオンの視線がフレアの胸に向く。
「可愛らしいお洋服が似合いそうですねフレアさん。その………豊満で、羨ましいです」
「あら、シオンちゃんだって足長いし、華奢でスタイルもいいからなんでも似合っちゃいそうだけど?」
「ええ、似合いますよ?……….ね、レイドさんフフ」
「…………私だって似合うしッ!!」
確かに、こう見ると二人のルックスは美しさを二分化したようだった。
「レイドくんは! 渡さない!!」
フレアの声が弾ける。
「離してください、この往生際の悪い!」
「シオンちゃんこそ、生意気!!」
シオンはオレの腕を軽く引き寄せ、優雅に微笑む。
「レイドさん、秘匿の研究成果は見たくないんですか!?」
「シオンちゃんの泥棒猫ぉぉぉ!!」
「きゃっ!」
「え、ちょ、シオンちゃん!?」
フレアの力強さに負け、驚いたシオンが転びかける。瞬時にオレはシオンの体を持って支えた。
「………ッ」
髪が重なるほどの距離感にシオンが息を呑む。
◇◆◇
フレアが腕を組んでぷいっとそっぽを向いた。
しかたなく声をかける。
「ほら、帰るよフレア」
何やら愚痴を言ってくるフレアの腕に手を回す。
シオンに向き直る
「お嬢様も内心ドキドキじゃん。さっきからずっと慣れないことして無理しすぎだよ」
「…………」
「じゃあまたね」
あーそうそう、と言う。
「仕事の話なら
今後は依頼すれば乗ってあげるよ、お嬢さん」
「!!」
シオンは静かにオレを見つめ返し
「いいんですか、?」と一言告げる。
オレは糸目を崩して小洒落たウインクを返し、笑う。
彼女の翠の瞳には、嬉しさと、しかし確かな期待が静かに灯っていた。
水色の髪が塔の微かな風に揺れ、彼女の優雅な佇まいが、研究塔の古びた石壁に溶け込むように美しかった。
──────ハァ、ハァ。
その少し離れた場所で、息を切らしてやっとのことで追いついたルルが、膝に手をついて呟いた。
「……もう、全員バカなんすか……」
ルルは運動不足で震える足を叱咤し、プルプル震える指で、なんとかカメラを構え、シャッターを切った。
この「入学早々の事件」を見事に全て記録として残した瞬間だった。
「………うちもう、何撮っていいかわかんなくなってきたっすよ………」
ルルはカメラを構えながらぽつりと呟く。
この日、最後のシャッター音が鳴った。
外では夕焼け空に白い月の輪郭が薄く浮かぶ姿が見え始めていたのだった。
◇◆◇
夜。
静謐な空気が流れる。
そこは《十角塔》の最上階。
暗い空、外は雨が降りはじめていた。
無骨な十角形の部屋の窓ガラスを叩く雨音が響き、ルルの速い鼓動と重なる。
今、ルルはシオンと向かい合って、窓辺の席で突っ伏すように座って…………いや、座らされていた。
今後も住み込みで研究するつもりなのか、最上階はシオンの私的な空間としてかつてなく充実している。
いや、あの男を連れ込むことを想像して、張り切って準備したのかもしれない。
「楽しい一日でした!
でも、やっぱりちょっと緊張しましたね。」
シオンは優雅に紅茶を啜る。その 表情には、昼間の弾けるような雰囲気は微塵もない。
ただ、冷徹な知性だけが瞳に宿っている。
「疲れたっすぅ……」
ルルは部屋の中央に置かれた丸いテーブルに突っ伏しながら、目の前に今日の成果を差し出した。
糸目の男と、水色頭の美少女が学園内をデートしているだけの写真ばかり。
ルルはそれらを投げ出すように広げた。
今回の一件、ルルはシオンの片棒を担いでいた。
つまりルルは、シオンとグルだったのだ。
「ふふ、素晴らしい データが取れましたね!ルルちゃん、いい仕事でした!」
「撮れたのはデートの写真ばかりですけどね。」
ルルは皮肉を言う。
「……。まぁ いいじゃないですか。そうだ、コラージュにして壁に掛けましょう!」
シオンは写真を手に取り、嬉しそうにクルクルと回る。その姿は恋する乙女のようで、やっていることはストーカー紛いの収集癖だ。
「……絶対 そっちが本当の目的っすよね、マジみっともないっす。」
言い終わってすぐに後悔した。シオンの足がピタリと止まり、パッとこちらへ振り返る。
「うるさいですルルちゃん。何ですか?戯言ですか?」
口元は優しく笑っているが、目がちっとも笑っていない。絶対零度の瞳だ。
「ちち 違うっすけど……?うちは別に研究手伝って貰ったお返しに、、ちょっと協力しただけなんで、ああ 悪意とかはぜんぜんないっす。ほんとっす!」
二人のデートの邪魔をしかねないフレアを引き留めるために、わざわざ 共に尾行させるようルルへ誘導させたのも、全部この女が計画して指示したことだ。
「そうですね、裏切ったりしないって口約束しましたし?ルルちゃんが私を裏切るはずはないですよね?」と呟きながら鼻歌を歌ってシオンは例の写真を無骨な壁に飾り付け始める。
「これで悪意がないというのが何より恐ろしいっす……ね」
目の前のシオンは真顔でじーっとルルの顔を覗き込んだ 後、嬉しそうにニコニコと笑って釘を刺した。
その時、雷鳴が遠くで轟き、部屋の明かりが一瞬、激しく揺れた。
「よかったぁ。危うく研究塔のてっぺんからルルちゃんを突き落とすところでした!」
光が窓の外を白く輝かせ、闇の中からシオンの作り笑顔を照らし出す。
「ピェ‥」
──────怖い。
この学園で一番敵に回してはいけないのは、狂った好奇心に身を焦がすシオンかもしれない。
窓の外では、小雨がもっと強く降り始める。
遠雷が不穏な未来を告げるように鳴り響いていた。




