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13話 道化と令嬢

探偵がオレにそっと手を差し出した。

その指先は、甘い誘惑という形をした精緻極まる、 わかりやすく危険な手錠のようだった。


───その手を取ることは、まるで彼女が思い描く無機質でいて愛情深い『捕縛』への、片道切符。

互いにその不確定な運命を承諾することであったが、オレは迷わずに…………その手をとった。



 

◇◆◇

 


 

「さぁ、次はあちらへ行きましょう。レイドさん」


触れた指先は、しなやかで滑らかで、ひんやりと冷たかった。

だが、オレが軽く握り返した瞬間、その華奢な手は「絶対に逃がさない」とばかりに、きゅっと強い熱を帯びてオレの指に絡みついてくる。


ライオネル公爵――オレの最大の後ろ盾であり、腹の底が見えない男。その愛娘が、こうも無防備にオレの懐に踏み込んでくるとは思いも寄らなかった。

 

本来なら、お互い裏に何かあると最も警戒すべき相手だ。だが、今は彼女が振るう「甘い毒」を味わうのも悪くない……と思うことにした。

オレは野心とは裏腹に微かに口角を上げ、彼女に引かれるまま石畳を歩き出す。


「あちらが訓練場です。そして、向こうに見えるのが《ガラス館》……」

 

シオンは穏やかな声で、しかし自分の領土を誇示する女王のように説明を始めた。


「旧王城跡に隣接した温室型の研究施設です。周辺国家の環境や生態系の特徴を、空気中の微粒子レベルで高度に再現したバイオーム実験場でもあります。


新入生にはまだ立ち入り許可が下りない場所ですが……私は入学前から自分の庭のように使っていましたから、案内は慣れていますよ」


「さすが、シオンは努力家だね。この学園のあるじみたいな顔してる」


彼女の歩調は優雅で、一切の隙がない。

春の陽光が、水色のボブカットをプリズムのようにきらきらと透かしている。冷徹な知性を思わせる彼女の美しさは、精密に組み上げられた氷の芸術品のようだ。

だが今、こちらを見上げるその横顔だけは、自分の誇りを“特別な相手”に認めてもらいたいという、年相応の無邪気な熱に浮かされていた。


「光魔法で温度と湿度を完璧に管理しているんです。エルフの森の区画は私のお気に入りで……珍しい魔導植物や、未知の古代遺物に囲まれながら読書をするのに、ちょうどいいんですよ」


「へぇ。案外、落ち着いた趣味だね」


「案外、ですか?」


シオンは立ち止まり、くすっと笑ってオレの顔を覗き込んだ。

自然に髪を耳にかける仕草。

覗き込む藍玉の瞳が、いたずらっぽく細められる。

オレの腹の中を探ろうとする怜悧な観察眼と、ただ純粋に目の前の男を揶揄う快感に酔う少女の顔が、危ういバランスで同居していた。


「レイドさんは、私のこと、どんな風に見てるんですか?」


彼女に魅入られ、思わず吸い込まれそうになる。


「頭が良くて、努力家で……少し、独占欲が強くて意地悪な子、かな」


「意地悪だなんて、ひどい」


シオンはわざとらしく頬を膨らませたが、すぐに目を細めて妖艶に笑った。


「でも、レイドさんって揶揄うと意外な反応をしてくれるから、一緒にいて楽しいですね」


「普段は揶揄う側だから、こういうのも新鮮で悪くない…………君見てるとハラハラするし、ジェットコースターに乗ってる気分だよ」


オレが肩をすくめて返すと、彼女はふわりと嬉しそうに微笑み、繋いだ手にさらに力を込めた。氷の令嬢が見せた、とろけるような笑顔。それは、彼女の知性が狂った好奇心あるいは「小さな恋慕」によってバグを起こし始めている証拠だった。


 

◇◆◇



「次は《十角塔》を見せたいんですけど……どうです?」

 

「あれ、十角塔か。シオンの研究塔だよね?」

 

「ええ。学園の端にある、元は古い防衛塔を改装した場所です。私はほとんど最上階に住み込んで研究していて、……恥ずかしながら、ベッドの横に実験台があるくらいで」

 

「アハハ住み込みか。いかにも錬金術師らしいね」

 

歩きながら、シオンはふっと声を落とし、甘い吐息を交えるように囁いた。

 

「バルコニーからの景色も悪くないんです。夜になると、星が降るように綺麗で……いつか、レイドさんにも二人きりで見せてあげたいな、って」

 

シオンが普段から日常を過ごしてきた絶対的な聖域への、直接的な招待。

単に夜景を見せたいというよりも、自分の研究塔に、この不可解な男を閉じ込めて観察したいという独白に近い。彼女の危険な知的好奇心が際立つ。

 

「夜景か、遠慮しておくよ。夜に二人きりで招待とは、ラインハルト嬢は随分と冒険家なようだね」

 

オレが皮肉って軽口で躱すと、彼女は獲物を追い詰めるような目を向けてきた。

 

「あら、逃げちゃうんですか?

 危ないのはレイドさんの方ですもんね。

 ほら、こうして私に捕まっちゃうんですから

 …………フフ」


か細い指先が深く絡まる。

そこにあるのは絶対に離さないという想い。


オレを捕まえる、か。

もしこの学園のルールがオレを縛ろうとするなら、ルールそのものをオレが書き換えるだけだ。

それはまるで法という概念そのものを冷笑し、優雅に旅する“或る人物”のように。

 

「じゃあシオンより先に、別の人に捕まっちゃおうかな」


「えッ⁉︎…………それは、、困りましたね」


オレは内心の冷たい嘲笑を隠す。

そのあとは二人で困ったような笑みを浮かべて微笑んだ。



 

◇◆◇



 

「……もう、だめ」


並木道の物陰。フレアは力なく膝から崩れ落ちた。


「がんばって……信じて……待ってたのに……っ」


涙目で鼻をすするその顔は、酷く間が抜けていて、思わず笑ってしまいそうになる。

燃えるような桜色の髪、太陽の化身と謳われるほどの豊満で圧倒的な美貌。


「うわーんッ」


普段であれば、彼女がそこに立つだけで周囲の空気が華やぐほどの派手で明るいオーラを放つフレアだが、今の彼女からは完全に覇気が抜け落ちていた。


「…………っす」

 

シオンの美しさが「計算され尽くした冷たい宝石」なら、フレアの美しさは「本能を揺さぶる熱を帯びた太陽」だ。

だが、その太陽が今、ヤキモチという感情に塗れて、地面に木の枝で「の」の字を書いては情けない姿を晒している。


「……何やってんすか、フレアさん」


隣でルルは、死んだ魚のような目で冷めたパックジュースを啜っていた。道中の魔導自販機で購入した物だが、もう味がしなかった。


ルルは今、二重の苦行に耐えている。一つは、体力皆無の自分には辛すぎる尾行という名の重労働。もう一つは、尊敬すべき知性派錬金術師であるシオンの、目を覆いたくなるような醜態の観察だ。

 

「……あんな顔で他人の男に媚びてるの、クラスメイトとして悲しくなるっす。普段は冷徹な狼を気取ってるくせに、今じゃ完全に、マタタビを嗅いだ蕩けた猫っすよ」


尻尾振ってるっす…………というルルの言葉に呼応するように、ピンク髪の少女が口を尖らせる。


「またよシオンちゃん!シオンちゃんが悪いの!レイドくんは浮気なんかしないもん、絶対!!」


突然、わーん、と泣き出す。

 

「……フレアさん、落ち着くっす。ウチが貸した双眼鏡、粉々に握りつぶしてるっすよ……ヒェッ、七銀聖のバカ力、恐ろしいっす」

 

ルルは無表情のまま、パラパラと落ちるガラス片からそっと距離を取る。

そちらにも、あちらにも魔導カメラのシャッターを切っては今日の出来事を記録に残していく。

 

「証拠もバッチリ撮れたっす。……シオン・ラインハルト。頭はいいのに、意外と欲張り。子供っすね」


「レイドくん、なんだか楽しそう……。でも、まだ、大丈夫だよね?」


「……まだ、っす。でも、あの女がレイドさんを『研究塔』に連れ込んだら、その時はマジのチェックメイトっすよ。焦るには早いですが、安心できる状況でもないっす」


「ちょっと! フレアさん、待つっす!!」

 

ルルが急に後ろからフレアのスカートを強く引っ張った。

 

「んぇっ!? す、スカート引っ張ったらパンツ見えちゃうよ!」

 

柔らかな布地が腰の辺りでぎゅっと寄せられ、ひんやりとした春の風が太ももをくすぐる。フレアは慌てて両手でスカートを押さえ、頰を赤く染めた。

 

「研究塔へ急ぐっす!!」

 

スパッツでも履けっす!とルルは短く叫び、すでに小走りになっている。フレアは追いかけついて行く。

 

「忘れてたっす!!レイドさんが研究塔の最上階に入ったらマズイっす!今から先回りしないと間に合わないかもっす!」

 

「んえ!?」

 

フレアが大きな目をさらに丸く見開く。ルルからすれば羨ましいほど美しい長い睫毛が驚きに震えた。

 

「とにかく、研究塔の最上階はシオン・ラインハルトの私室もある……生物学上は、紛れもない乙女の聖域っす」

 

ルルは淡々とした口調で言いながらも、その瞳には普段にない深刻な光が宿っていた。彼女の視線は、前方を遠ざかっていく二つの背中を鋭く捉えている。

フレアは一瞬きょとんとした後、ぽんっと両手を打ち合わせた。

 

「え、ええっ!? それってつまり……!」

 

「そうっす。 少なくとも今すぐあの女を取り押さえないと、レイドさんがあの女の寝室にまで招き入れられる可能性が高いっすよ。 ……まぁ、ご想像にお任せするっすけど」


…………ゴクリ、と二人して唾を飲み込む。

顔を見合わせ、息をぴったりと合わせる。

次の瞬間、並木道に軽やかな靴音が響き渡った。

 

学園の桜並木を抜ける風はまだ少し冷たく、甘い花の香りを運んでくる。

短いスカートや外套、長いネクタイが風に揺れ、木々の隙間から差し込む午後の陽光が二人の髪を金色に輝かせながら、遠ざかっていくレイドとシオンの背中を照らしていた。

 

「ねえルルちゃん、…………研究塔って、何かあるの?」

 

ルルがふと足を止めた。

尖塔の屋根は、まるで古い魔女のとんがり帽子のように空を突き刺している。彼女は目を細め、その先端をじっと見つめた。数秒の沈黙の後、小さく息を吐く。吐息が白くかすかに揺れた。

 

「……隠してるんすよ。

 

 あの狂った女が作ってる超巨大な──────」

 

ルルはそこで言葉を切り、首を軽く振った。

 

「……いや、何でもないっす」

 

フレアは小首を傾げ、疑問符を浮かべたままルルの横顔を見つめた。

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