第6話 紡がれた奇跡
「アランの願いをなかったことにして」
わたしの言葉に、父神さまは大麦粥を吹き出した。もじゃもじゃの長い髭に、お粥の粒が付いている父神さまは、あまり威厳があるとは言えない。
「願いごとを無効にするとな? 如何なる理由じゃ?」
わたしは、熱に浮かされるアランの姿を思い出していた。
「……今夜アランが亡くなるとしても、後悔したままでいてほしくないから」
「後悔とは?」
「わたしのために願いごとを使った代償で、アランが何か失ったのなら、それを取り戻してから旅立ってほしい」
父神さまは、髭を撫でながら天を仰いだ。
「それは、お前さんの自己満足じゃないかね? 夫が後悔していると言い切れるか? それに死ぬ直前に代償を取り戻したとて、何ができるわけでもなかろうに」
自己満足——わたしがかつてガレスに向けた言葉が、今そのまま自分に返ってくる。
黙り込んだわたしに、父神さまは粥の椀と小さな匙を差し出した。父神さまは、わたしが黙って大麦粥をすすり終わるのを待ってくれた。
「願いを叶えることはできる。だが、お前さんの代償はいただくぞ。声はどうだ?」
「声?」
「そうだ、お前さんが元の世界に戻ったら、二度と話せないし、娘に歌も歌ってやれん。それでも願いごとを使うか?」
わたしは迷わず頷いた。これがアランのためにわたしができる唯一のことだったから。
わたしが声を失って、この先エイラのために歌えなくても、あの子は淋しがらないかしら? アランがそのことを悲しまない?
間違っていないなんてとても言えない。
それでも、アランに——わたしの大事な人に、悔いなく生きてほしい。なけなしの正しさで、胸が痛むほどわたしは願った。
「お前さんの願いごと、たしかに聞き届けよう。どうせ忘れてしまうんじゃ。夫の代償は気にならんか?」
ハッと顔を上げたわたしに、父神さまはニヤリと笑って教えてくれた。
「笑顔じゃよ。お前さんを流行り病から守るためなら、二度と笑えなくてもいいと、あやつは言ったのじゃ」
え? アランがずっと笑わなかったのは、わたしとの生活に幸せを感じられなかったからじゃなかったの——?
「不思議なものよ。幼なじみが命を懸けてお前さんを救い、夫が笑顔を代償にお前さんを病から守り、今こうしてお前さんが自分の声と引きかえに、図らずも夫の笑顔を取り戻しにきおった。自己満足が三つ繋がるとどうなるか、自分の目で確かめに帰るとよい」
父神さまの豪快な笑い声が響くと、急に森の木々がザワザワと震え出し、わたしはつむじ風にさらわれた。
夜明け前、アランの寝台の脇に突っ伏していたわたしは、肩に掛けていた毛布がすべり落ちたのに気づき、目を覚ました。
ぼんやりとした視界よりも、握っていたアランの手の温度がわたしを現実に引き戻した。
高熱に苦しんでいた真夜中からは信じられないくらい、アランは静かな呼吸で眠っていた。
熱が下がった! アラン、あなた助かったのよ! そう言いたいのに、言葉が声にならない。
そのとき、わたしは異変を感じていた。
アランの手を包んでいたはずのわたしの手が、みるみるうちに赤子のように小さくなっていく。
ふいにアランのまぶたが細かく震え、ゆっくりと黒い瞳が見開かれていく。
まだ夢うつつのアランが、ふわりと微笑んでつぶやいた。
「フィオナ、これは夢……? また小人の君に会えるなんて」
* * *
秋も深まり始めた夜、親子三人の寝床に、つたない子守歌が響く。
アランの子守歌は、旋律も歌詞もいつもどこか頼りない。
「お父さま、また間違えたー!」
「ごめんごめん、エイラ、続きを教えて?」
「しょーがないなー!」
エイラが歌うと、周りで妖精たちがクルクルと踊る。本当にこの子は、妖精に愛されている。
いつの間にか眠ってしまった自分より大きな身体の愛娘。その髪をわたしはそっと撫でた。
おやすみなさい、エイラ。
そう心の中でつぶやくと、まるで聞こえているかのようにアランがわたしに顔を寄せる。
「おやすみ、フィオナ」
子どもの頃から変わらない大好きな笑顔で、アランはわたしの額にやさしく口づけた。
それが三つの願いごとを紡いで訪れた奇跡の瞬間なのだと、わたしが思い出すのは、次に父神さまと会う旅立ちのとき。あと何十年か先のお話。




