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庖丁梅譜  作者: 鏑木恵梨
7/7

其の七

 国境の峠の花暦は城下より少し遅いのだろう。まだ梅は白色の色を芽吹かせていた。

 笠をかむり旅のうを背負った武者修行の牢人は、坂の頂点に背を向けていた。坂を越えると隣国である。微かな芳香のなか、秋津夫婦と主税はその牢人と暫く黙って向き合っていた。

 やがて牢人が穏やかな様子で、

「世話になりました」

 と云った。奈津も労るように答えた。

「ご健固でありますように」

 どこからか鶯がひと声啼いた。

「滝口氏」梶原は静かに笠を上げて云った、「あの書き付けが燃えてしまった以上、私は細かい数字までは把握していないのです。恐らく貴藩の城割や堀の深さ、公儀御届と相違はなかったと思いますがね」

 主税は訝しげに牢人を見た。

「……梶原氏、貴公……」

「またお会いすることがあれば、秋津奈津どのの梅干、またいただきたいものですね」

 奈津は少し得意そうに笑った。

「では」

 梶原は背を向け、坂を上り峠を越えた。

 しばらく三人は人影の見えなくなった峠に立っていた。

 もう鶯は飛び去ったのだろうか……もう一声はないのだろうか。三人は待った。

 もう声はないのだ。

 梅の香りに我に返った主税は、世間話でもするように告げた。

「半四郎。近習番にとの御内意があった。受けるか」

 半四郎は惚けていた。

「近習番、ですか」

「殿のお身の回りに詰め御身をお守りする。石高も二百、倍増以上。殿の思し召す新しき藩政の血肉となって、御家を支えていくお役目だ」

 半四郎は困惑したように首をひねり、次に奈津を見た。奈津はとけるような笑みを浮かべながらも、力を籠めて頷いた。

 ───貴方のお好きになさいませ。

 半四郎の目がわかったとものを云う。

 奈津は温かな視線を返しながら、少しだけ良人に寄り添った。

「城に戻りましたら殿にお伺いください」半四郎は目を上げた、「本日の飯蛸はいかがでしたかと」

 主税はふふと声をあげ、寂しげに笑った。

「殿に申し上げておこう」



 その後のこと。

 梶井の退国後はようとして知れぬ。とりあえず公儀からは何の動きもない。梶井はまた何処かで武者修行を重ねながら、またあの仕事をしているのだろうか。

 栗栖典膳は御加増の沙汰があったが辞退、職を辞し今は隠居の身。隠居ながらも剣豪翁として尊秀を受けている。

 滝口主税は側用人筆頭として、日々多忙のようす。伊予守の寵を受け将来を嘱望されるも、旧勢力からは当然疎んじられ、敵は多い。時折半四郎に愚痴をこぼしにくる。

 そして、半四郎はというと。

 ほとんど変わりはなかった。賄方組頭となり、手当が多少増えたくらいである。それも付合いが増えて実質減っている。若年寄の娘のくせに、奈津はやりくりの難しい家計に頭を抱える日々だった。

 頭を抱えるといえば。

「塩、入れすぎじゃないのか」

「何をおっしゃいます。私の味には実績がありますでしょう」

 奈津はさらに大胆に塩をつかんで、青梅を敷き詰めた壺に押し込めた。

「まあ見ていて下さい。今年も天下無双の庖丁人の舌をうならす梅干を漬けてご覧にいれますわ」

「……梅のへたを取ったのは俺だぞ」

 長雨降らす群雲が峠の向こうに去った、梅夏の午後のこと。

 季節はもう夏である。

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