エラーの前兆。
昼休み、リクは食堂に来ていた。
しかし、すぐに皿を取ることはなかった。
真っ先にカウンターの前まで歩みを進める。
何かを言いたげに歩いてくる様子に気がついたのはニールだった。
彼は作業の手を止める。
柔らかい笑みを浮かべて、カウンターの内側から向き合った。
「……どうしたの?」
相変わらずの間延びした口調で訊いてきたニールに、リクは明るく笑い返す。
「っす!なんか食べる前にエニと話したくて!今忙しいっすか?」
「うーん……手が離せないことはないと思うよ。……呼んでこようか?」
「お願いします!」
リクは間髪入れずに頷いた。
「はーい」
そう言った後、ニールはカウンターの奥へと消えた。
少しして、ニールが戻ってくる。
その後ろにはエニ。
「……はい、お待たせー」
「……じゃ、僕は戻るから。……気にせず話してね」
ニールは軽く手を振り、そのまま作業場へ戻っていく。
エニは慌てて口を開いた。
「…は、はい……!」
リクの元へ歩み寄る。
「……リク、ごめん。……待たせたかな?」
エニは視線を揺らしながら尋ねた。
「いやいや!むしろ早すぎてビックリしたって!いきなり呼んだの自分だしさ!」
リクはいつもの調子で続ける。
「んで、ここの仕事慣れたかー?」
エニは少し考える素振りを見せたあと、ほんの少し表情を緩めた。
「……うん。……まだ緊張はするけど。意外と……大丈夫かも」
「おお!そりゃよかったー!」
その時だった。
金属が床を打つ鋭い音が、食堂に響いた。
食堂の空気が、示し合わせたように不自然なほど静まり返った。
誰かが「……動くな」と低く言う。
誰かが椅子を引こうとして、途中で止める。
視線だけが、一方向へ集まっていた。
「……ッ!」
音がした瞬間、エニがビクッと体を揺らし、尻尾が強張る。
細く絞られていた瞳孔が、ほんの少し開く。
視線の先には、トレーを落とした女性。
(俺も……落ち着かないと……)
エニは息を整えようとする。
その時、ニールが視界に入ってくる。
静かに、
「……エニくん、大丈夫。……あっちはいいから」
と言った。
ニールは、それ以上何も聞かなかった。
呼吸を荒くしたその女性を見つめながら、リクが静かに口を開く。
「……エニ」
「自分、行ってくる」
「見てるだけなんて、できない」
エニが何かを言おうとした時には既に、小さい声では届かない距離にいた。
慎重に近づこうとするリク。
周囲の人にも緊張が走った。
だが、下手に動けばどう反応するかがわからない。
その時、赤い手が伸びてきた。
「バカ野郎……!不用意に近づくな」
低く、静かな声。
セクトンだった。
「っでも……!」
「……新人だってのに無駄に張り切りすぎなんだよ、お前は」
「じゃあどうするんすか……!」
セクトンは女性に目を向け、しばらく黙る。
そして、リクを見下ろして再び口を開く。
「なら、これを噛ませてこい」
その手に持っていたのは、白い固形物だった。
「今ならまだ理性が残ってる。近づくのがお前みたいなチビなら刺激も少ねえだろ」
言い終わると同時に、彼はそれを強引に握らせてくる。
リクは迷いなく、かつ慎重に足を進めた。
「……聞こえるっすか?」
落ち着いた声で続ける。
「これ、噛めるっすか──」
そう言いかけたとき、女性が突然跳ねるように急接近した。
「ッ!」
リクは反射的に肩を跳ねさせた。
それでも、動かない。
まっすぐに彼女を見つめる。
このまま飛びつくかと思われた彼女は、リクの目の前で止まった。
荒い息を吐きながら、リクの手に乗っているものを乱雑に取る。
「ハァッ……ありが、とう」
そう言って受け取ったそれを口に含んだ。
途端に、食堂内の止まっていた空気が、ゆっくり流れ始める。
リクは落ち着きを取り戻した彼女に笑顔を向ける。
「どういたしましてっす…!」
そこへセクトンが不機嫌そうに歩いてくる。
「ジャネット。このまま医療棟に行く。ついて来れるか」
女性──ジャネットは乱れた呼吸のまま顔を上げる。
「はい!……急に発症しちゃって、ごめんなさい……」
彼女はおどけたような苦笑いを浮かべた。
「ならいい。このままついてこい」
セクトンは返事を待たずに食堂の出口へと足を進めた。
ジャネットはリクに向き合い、明るい声で、
「キミ!改めて、さっきはありがとう!…じゃ、次はちゃんと話そうね!」
と言う。
そのまま慌ただしくセクトンを追って行った。
「おう!また今度っす!」
リクは彼女に手を振って、元気よく見届けた。
──セクトンとジャネットが食堂の出口を通る際、その扉の側にはティモンの姿があった。
ジャネットが横を通った瞬間、無意識のうちに息を詰まらせ、わずかに肩を強張らせる。
「落ち着いてよかったな……」
リクは呟いた。
そして、エニを置いてきたカウンターの方に目を向ける。
そこでは、エニがぐったりとカウンターに手をついていた。
ニールはそんなエニの肩に手を添えている。
「……ああぁ……よかった……っ」
張り詰めていたものが切れたような声だった。
「エニ?どうしたんだ?」
リクが近づく。
「……どうしたって……!だってあの人、エラー起こして……!あ……怪我してない……?!」
「してないしてない!全っ然平気だから!」
「……エニくんが一番落ち着いてー」
横からニールがのんびり割って入る。
「っ……す、すみません……」
エニは目を伏せ、尻尾で床を掃くように揺らす。
「相変わらず心配性だなあ……。でも、ありがとな!」
リクは気にせず満面の笑みを浮かべる。
「……うん。……無事で、よかったよ」
エニは髪を耳にかける。
その目ははっきりとリクの顔を見ていたが、黒目が細かく左右に揺れ動いていた。
その時、ニールが口を開いた。
「……とりあえず、リクくんは早く食べた方がいいんじゃない?」
「ここに来るの遅かったし……昼休み、終わっちゃうよ?」
柔らかい笑みを浮かべながら、食堂にある時計を軽く指差す。
リクは時計を振り返り、「うわっ!」と声を漏らした。
「やべえ!飯食わなかったら午後の現場死んじまう!」
「エニ、お前も抜くなよ!じゃあな!」
エニも何かを言おうとした。
だが、リクはもう向こう側で、ソースの味が混ざることも気にせずに豪快に飯を盛り付け始めている。
エニはふっと息を漏らし、浮かびかけた笑みを誤魔化すように口元を引き締めた。
「……わかったよ……」
彼に聞こえるわけではないが、小さく呟く。
ニールがエニの背中を柔らかく叩いた。
「……さて、エニくんも休憩入っちゃって」
「え……いいんですか?」
おずおずと見上げるエニ。
「……うーん、人も減ってきたしね」
「それに、確か……服用時間だったかな?」
エニは「あっ」と声を漏らした。
「……わ、忘れるところでした。……えと、お先に、休憩いただきます」
「はーい。行ってらっしゃい」
軽く手を振るニール。
エニはぎこちなく頭を下げる。
カウンターの奥へ向かう途中、食堂の向こう側からリクの騒がしい声が聞こえてきた。
「うわっ、盛りすぎた!?」
そんな声に、エニは思わず小さく笑う。
──さっきまでの緊張が、少しだけ遠くなった気がした。




