迷うエラー。
──昼間の待機室。
リクはソファに座り、出動待機の時間を使って書類を作成していた。
しかし、その顔は険しく、ペンを持つ手が動かずに苦戦を強いられている。
「こういう時間って好きっすけど、書類作ってるとレポート課題やってる気分になるっす〜……」
ドッとため息をついて、ソファからズルズルと落ちていくリク。
その言葉を聞いて、同じくバインダーを片手に隣に座っていたヴォルトが顔を上げた。
「ハハッ。そうだろうな。俺からしても、現場よりも書類のほうが厄介だったりするぜ」
リクが「あはは……」と苦笑いを浮かべながらソファに這い上がる。
ヴォルトがその頭にバインダーをトンと当てた。
「だがまあ、いつ通報が入るか分かんねえからよ。時間があるうちにやっとけ。先輩からのありがたいアドバイスだ」
「はーい……」
リクが再びペンを持つ。
待機室には紙をめくる音だけが静かに響いていた。
リクは眉を寄せながら書類と睨めっこを続ける。
時折「うーん……」と唸っては、ペンをくるくる回していた。
ヴォルトはそんな様子を横目に、自分のバインダーへ視線を落とす。
「おいおい、ペン回してる暇あんなら手ぇ動かせ〜」
「考えてるんすよ〜!」
そんなやり取りが交わされた、その時。
待機室に短い電子音が響いた。
ヴォルトはバインダーを片手でパタンと閉じて立ち上がる。
「通報だ。……行くぞ、リク」
「了解っす!」
リクは書類をデスクに置き、ペンを文鎮代わりに乗せた。
ヴォルトは別の現場部隊員に向かって声をかける。
「ジオン、車回してくれるか」
「すぐに」
リクたちは出口の近くに停められていた業務車両へ乗り込んだ。
業務車両が道路を走る。
助手席で端末を見ていたヴォルトが、眉を動かした。
「……通報者は近隣住民。発症者は二十代男性だ」
リクが後部座席から顔を上げる。
「誰も怪我してないといいんすけど」
「今んとこ負傷者なしだ。部屋ん中で暴れてるんだと」
「なら、早く落ち着かせてあげないとっすね」
そう言うと、リクは沈静化の錠剤を確認するためにポーチを漁った。
ヴォルトは端末を閉じ、背もたれに軽く寄りかかった。
「……ただ」
「通報内容が妙だな」
運転席のジオンがチラッとヴォルトの方を見る。
「妙?」
ヴォルトはジオンに顔を向けた。
「暴れてる割には、一瞬だけ音が止むってよ」
リクは再び後部座席から顔を上げる。
「そんなにおかしいことなんすか?」
ヴォルトは顎に手を当てた。
「まあな。……普通、エラーが出ると止まんねえもんだけどな。」
その時、ヴォルトが窓から外を覗く。
「見えてきたぞ。リク、準備しろ」
リクはヴォルトの視線を追い、座り直した。
「ッス!もう出来てるっす!」
ジオンが車を現場の建物の前に停める。
「ジオンはここで待機してくれ。リクは俺とだ」
ヴォルトが指示を出した。
「「了解です(っす)」」
──現場。
ヴォルトとリクは通報があった部屋の前で足を止める。
「ここか」
他の住人が離れた位置から覗き込んだ。
「まだ中にいます……」
「分かった。……他の住人は避難してくれ」
ヴォルトが促すと、リクが続ける。
「イージスに任せてください!」
2人の言葉を聞いて、住人たちは移動を始めた。
ヴォルトが扉の前まで歩み寄る。
「イージス機関だ。聞こえるか」
「入る前に確認する。返事はできるか」
問いかけた途端に、聞こえていた微かな物音さえも止んだ。
リクは薬の準備をしながらヴォルトを見上げる。
「落ち着いたんすかね……?」
「それなら返事くらいするだろ。まだ確定じゃねえ」
ヴォルトは住人から預かった鍵を取り出す。
「入る。刺激すんなよ」
「はいっす」
リクは錠剤を手に持って身構えた。
鍵を回すかすかな音がすると、ヴォルトがゆっくりとノブを回し、扉を開けた。
リクもそれに続いて、足音を殺して部屋へ踏み入った。
ヴォルトは薄暗い室内を素早く見渡す。
「……静かだな」
部屋の中は荒れていた。
椅子が倒され、グラスの破片が散乱している。
そして、部屋の隅。
「……ハァッ……ハァッ……」
荒い呼吸音だけが響く。
そこに男性が座り込んでいた。
その瞳孔は限界まで見開かれ、二人を明確に睨みつけている。
「イージスだ。助けに来たぞ」
ヴォルトが、低く静かな声をかけた。
男性の肩がビクッと跳ねる。
「ヴヴヴ……」
リクは緩慢に足を進めた。
「……苦しいっすよね。今、楽にするっすから」
男性は威嚇音を止めない。
しかし、リクが近づくと、怯えたようにズルッと壁伝いに後ずさる。
「えっ……」
リクは軽く瞬きをした。
男性は開いている別の部屋の扉には目もくれず、ただその場で体を強張らせている。
唸っているのに、後ずさる。後ずさるのに、逃げない。
リクは姿勢を低く落とした。
両手を開き、手のひらをゆっくりと男性に見せる。
「大丈夫っす。……何もしないっすよ」
そう言って、手の中の鎮静剤をそっと差し出した。
「これ、飲めるっすか」
男性の不安定な視線が、リクの手元に向けられた。
「……ヴヴ、ヴ……」
男性が、震える手をゆっくりと伸ばす。
錠剤に触れる、その瞬間だった。
「──ッ」
男性の重心が、グタッと沈む。
指先を鉤爪のように曲げ、リクへ向けた。
ヴォルトが無言で、腰の鎮静射出器に手をかける。
リクが表情を引きつらせ、声量を抑えながら声を上げた。
「うわ、マズ……!」
しかし。
振り上げられかけた腕は、リクの目の前でピタッと停止した。
男性は弾かれたように腕を引き戻す。
そして、リクの手からひったくるように錠剤を奪い取った。
「うおっ、と……」
男性はそれを口の中に放り込み、自ら噛み砕く。
数秒後、荒かった呼吸が徐々に落ち着き、男性はその場にへたり込んだ。
「はぁっ……ッ。すみません……ご迷惑を……」
静寂が戻ると、リクはホッと息を吐き出して、立ち上がる。
「び、びっくりしたっす……けど、落ち着いた、みたいっすね。気にしないでいいっすよ!ね、先輩!」
「ああ、このためのイージス機関だからな」
ヴォルトは短く返し、床に座り込む男性を見下ろした。
「んで、先輩……今のは……」
リクが問いかけると、ヴォルトは顎に手を当てて低く唸るみたいに言った。
「……そうだな。普通なら、エラーがそこまで迷うことはねえんだよ。もっと単一してる」
ヴォルトの視線が、男性の腕からリクへ移る。
「……なにか変だな。最近の現場は」
リクは黙って、男性を見つめていた。
「エラーが、迷う……?」
リクはまだ、その言葉の意味が分からなかった。
ヴォルトは男性の前でしゃがみ込み、視線を合わせてから尋ねる。
「……立てるか」
男性はゆっくり顔を上げ、息を細く吐いた。
「……え、ええ。多分……」
ヴォルトは立ち上がり、ポケットに手を入れた。
「ならいい。……んで、念のため、イージスで検査を受けたほうがいい」
男性が不安そうに、自分の足元へ視線を落とす。
「検査……」
「ああ。外にウチの車が待機してる。良けりゃこのまま連れて行けるぞ。どうする」
男性は自分の部屋を見渡したあと、静かに頷いた。
「……お願いします」
それを聞いたリクが、すかさず男性の横にしゃがみ込む。
「じゃあ、肩貸すっすよ!ゆっくりでいいっすからね」
「……ありがとうございます」
男性がリクの支えで立ち上がるのを見届け、ヴォルトは扉の方へ顎をしゃくる。
「よし、ジオンに連絡して車回させる。支部に戻るぞ」
「了解っす!」
リクの元気な声が、少しだけ散らかった部屋に響いた。




