8話 酒蔵見学
資料館の入口に戻ると、すでに何人かが集まり始めていた。
年配の夫婦や観光客らしいグループに混じって、私たちも受付の前へ並ぶ。
朝来たときよりも、多くの人で賑わっている。これから実際の蔵に入るからなのか、どこか自然と静謐な空気だ。
「思ったより人が多いな」
遥花が周囲を見回しながら、小声で呟く。
ざっと見たところ、20人くらいはいるだろうか。こんなにも日本酒が人気だとは思わなかった。
しばらくすると、青い作務衣姿の男性がこちらへ歩いてくる。
少し日に焼けた肌に、シワの深い落ち着いた目元。年齢は60前後だろうか。
ゆっくりと頭を下げた男性は徳本と名乗った。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
低く穏やかな声が、空気を静かに整えていく。
「それでは、こちらへどうぞ」
徳本さんに促され、私たちは列になって奥へ進んでいく。足元の板張りが、歩くたびに小さく軋んだ。進みながら、徳本さんが見学ルートについて簡単に説明をしてくれる。
ここはもともと実際に使われていた酒蔵で、現在は別の場所に、より大きな仕込み蔵を構えているらしい。
ただ資料館となった今も、少量だけ、昔ながらの製法で酒を造り続けているのだという。
資料館はもちろん、ツアーでしか入れない場所も見れるとのことだった。
「最後には試飲もありますから、ぜひ楽しみにしていてください」
徳本さんがそう締めくくると、周囲から小さく期待したような声が上がった。これで無料というのは、気前が良すぎる。
そんな盛り上がりをよそに、私たちはほとんど同時に顔を見合わせる。
今日は車で来ている。当然、唯一運転ができる遥花が飲めなくなってしまう。
「……あー」
遥花が小さく声を漏らした。
せっかく酒蔵まで来たのに、試飲を諦めさせてしまうのは、申し訳ない。
すると遥花が、「いや、大丈夫だ」とあっさり言った。
そのままスマホを取り出して、何やら操作を始める。凛も横から画面を覗き込み、小声で相談をし始めた。
「どうしたの?」
私が聞くと、遥花は顔も上げずに答える。
「この近くでビジネスホテルを予約する」
「え?」
「どうせ試飲の後にショップでお酒を買うでしょ。だったら泊まった方が楽だし、駐車場も1日停めていても、安いところだったし」
操作を終えると、遥花はスマホを軽く振って見せた。
「私も飲むよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず口元が緩む。
「……そっか、良かった」
口に出してから、自分でも少し笑ってしまった。
この旅ならではの、行き当たりばったりな雰囲気に、私もだんだんと呑まれてきた。
そうして資料館の奥にあった蔵の中に辿り着いた。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
外のざわめきは、分厚い壁の向こうへ置き去りにされる。
中は静かで、ひんやりとしていて、音が吸い込まれるようだった。
太い梁に、黒ずんだ柱。長い年月を経ているはずなのに、どこも丁寧に磨かれていて、不思議と古びた感じはしない。
木の表面には、人の手が何度も触れてきた跡や傷が静かに残っていた。
「滝鷺酒造は、江戸時代から続いています。代々の当主が、同じやり方を守り続けてきました」
先頭を歩く徳本さんが、穏やかな口調でそう説明する。
守り続けてきた。柱に染みついた色や壁の傷たちが、その言葉を裏付けている。
「兵庫、特に神戸や灘は、昔から酒造りの盛んな土地でしてね。良い水と米、それに流通にもに恵まれていたこともあって、多くの酒蔵が集まったんです」
何百年も同じ場所で、同じように酒を造り続ける。
その途方もなさに浸りながら、私たちは酒蔵を進む。
最初に案内されたのは、米を扱う工程だった。
ガラスケースの中には、酒米の実物や精米後の比較サンプルが並べられている。
白く磨かれた米は、普段見慣れているものよりずっと小さく見えた。
「米は精米すると正直になります」
徳本さんが、静かな口調でそう言う。
徳本さんは、削られていく米の写真を順に指し示しながら、丁寧に説明を続けていく。
9割、7割、5割。数字だけ聞けば単純なのに、並べられた写真を見ると、その違いはじっくり見る必要があるほど繊細だった。
「精米歩合によって、種類が変わります。9割ほど残す場合は純米または本醸造。7割ほど削れば吟醸。5割以下になれば大吟醸となります」
「へぇ、そうだったんですね」
凛が感心したように頷く。
「なんか大吟醸って、単純に一番すごくて高級なやつだと思ってた」
遥花が率直な感想を漏らす。
私は思わず「それは私も思ってた」と頷いてしまった。
すると徳本さんが、くすりと小さく笑う。
「たしかに大吟醸は技術的にも難しく、値段も高くなりやすいですね」
穏やかな口調のまま、徳本さんは続けた。
「ただ、削れば削るほど良い、というわけでもありません。米本来の旨みを好む方もいますから。結局は、どんな味を目指すかそして、飲む人の好みですね」
「へぇ……」
遥花が、展示された酒瓶を見上げながら唸る。
ランクみたいに単純な話ではないらしい。
親父がこだわっていた理由が少しだけわかった気がする。
気付けば、私たちは食い付くように展示物を眺めていた。学校の授業なんかではこうはならない。教わるというのは、なんだか久しぶりの感覚で、妙に楽しかった。
徳本さんがふと顔を上げ、にこりと笑う。
「ところで純米と吟醸の違い、知っていますか?」
ツアーの参加者たちは、小さく首を振る。
親父の店で見たことはあるし、メニューにも書いてあったから存在は知っているけれど、違いについては説明はできない。
彼は写真の列を指でなぞりながら、まず純米の話を始めた。
「吟醸系は醸造アルコールを加えるのが大きな違いになります。発酵も低温でゆっくり進めることで、酵母がフルーティーな香りや味になるものが多いです」
参加者たちから、感嘆の息が漏れ出る。
「へぇ、アルコール入れるんだ」
遥花が少し意外そうに眉を上げた。
「ええ。ただ、度数を強くするためではありません」
徳本さんは穏やかに首を振る。
「香りを引き立てたり、味を軽く整えたりするためですね。すっきりした飲み口になりやすい」
私は親父の店に並んでいた瓶を思い出す。
同じ日本酒でも、思っていた以上に考え方や個性が違うらしい。
「純米は米と米麹と水だけで造る酒です。醸造アルコールを加えない分、仕込んだ味がそのまま前に出やすい」
徳本さんが指を止めたのは「七割」と書かれた写真の前だった。
「滝鷺酒造の主力商品である『滝霞』は、精米歩合七割で仕込んでいます。米本来の旨みがしっかり残るようにしているんです」
写真を見比べると、数字の差が味の差に直結していることが、なんとなく実感できた。
徳本さんの説明は専門用語を噛み砕いていて、聞いているだけで味の輪郭が頭の中にふわりと浮かんでくるようだった。
次に案内されたのは、米を洗い、蒸す工程だった。
視界の先に、大きな蒸し器が現れる。金属製の重たい機械からは、白い蒸気がゆっくりと立ちのぼっている。近づくと、炊きたての米にも似た、ほんのり甘い匂いが鼻をくすぐった。
「ここでは、時間管理が非常に重要になります」
徳本さんが、蒸し器へ視線を向けたまま説明を続ける。
米を洗う時間。水に浸す時間。蒸し上げる時間。そのどれもが分単位で管理されていて、わずかなズレでも酒の出来に影響するのだという。
「機械でも管理していますが、最終的には音と蒸気で判断します」
徳本さんはそう言って、脇にある計器を軽く指さした。けれど本当に見ているのは数字だけではないらしい。
遥花が「職人って感じだな……」と小さく漏らした。
その言葉が聞こえたのか、徳本さんは少しだけ笑った。
「機械化は進みましたが、最後はやはり人の感覚ですね」
次に案内されたのは、蔵の奥にある麹室だった。
年季の入った大きな木の扉の前で徳本さんが一度足を止めると、空気すんと変わった。緊張感というか、厳格な雰囲気が、何も言わずとも感じ取れた。
「ここは温度と湿度を厳密に管理しています。入れるのはここまでです」
彼の声は低く、どこか畏まって聞こえた。
そこから廊下を進み、小さな窓越しにその部屋の中を見させてもらう。
見えるのは、白い布に包まれた蒸米の山と、静かに並ぶ木箱。麹は生き物だから、温度はだいたい30度くらい、湿度は60パーセント前後に保つ必要があると、徳本さんが説明してくれる。
廊下に飾られた写真には、ひたすらに作業を続ける職人たちの姿が写っている。白黒であることから、かなり昔のものだろう。機械も写っていない。
ヘラのような道具で米をほぐし、箱を積み替え、余分な熱を逃がす仕事を繰り返す様子だ。これを一日中やるには骨が折れそうだ。
最後に待っていたのは、仕込みのタンクが並ぶ広い空間だった。
天井が高く、ステンレス製で銀色の巨大タンクが整然と列をなしている。ここだけ見たら、いったいなにを作っているのか分からない。タンクの側面にはたくさんの配管が走り、物々しい音を立てている。
徳本さんは足を止め、ゆっくりと説明を始めた。
「ここでは麹が糖を作り、酵母がその糖をアルコールに変えます。並行複発酵というものです」
「なんかカッコいいな」
遥花が妙なところに反応する。
「いよいよこの段階で日本酒が形作られていきます」
タンクに近づくと、低い轟音とプツプツと泡が弾けるような音が聞こえる。
「生き物みたいですね」
凛がつぶやくと、徳本さんは笑って「実際、生き物ですよ」と返した。
「お米も酵母も麹も、温度や湿度で反応が変わる。ちょっとした差で香りも味も変わるんです。滝鷺酒造に求められている味を造り続けるのは大変です」
徳本さんは本当に大変そうに、それでいて楽しそうに、そう言った。




