7話 神戸
目的地に近づくにつれて道幅が狭くなり、車は自然と速度を落とした。
頭上には入り組んだ高速道路の高架が重なり、やがて工場のような無骨な建物が視界に入ってきた。
目的地近くのコインパーキングに車を停め、エンジンを切ると急に静けさが耳に残った。遠くから波の音が低く聞こえてくる。
神戸だけあって海が近いらしい。
「ここかあ」
遥花がドアを開けると、潮の香りがふわりと流れ込んだ。私もシートベルトを外して外に出る。
体を伸ばし、肩の力を抜きながら空を見上げる。
空は広く、薄い雲が流れている。冷たい風が頬を撫で、潮の匂いが鼻の奥に残った。
「それじゃあ、さっそく資料館の方へ行きましょうか」
凛は周囲をきょろりと見回して、どこか楽しげに微笑んだ。
私たちは凛を先頭にして歩き出す。私と遥花は方向音痴だから、こういうときはいつも凛が先頭だ。
周囲は工業地帯と住宅街が混ざった風景で、あまり神戸という感じはしない。
少し進むと、ひときわ大きな昔ながらの日本家屋が現れた。
大きな門の両脇には太い木の柱が立ち、その横の塀に掛かった木製の看板には、黒く彫られた字で「滝鷺酒造資料館」の文字が刻まれていた。
看板の文字は年月で少し色あせているのが、歴史を感じさせる。
そして門の隙間からは庭先の木々が覗いている。
「時間がゆっくり流れてる感じするな」
遥花がぽつりと言った。屋根瓦は薄く色あせ、軒下には杉玉が揺れている。足を踏み入れると、神聖な森に入ったときのように、空気がピンと張っていた。
「……美味しい日本酒がありそう」
私がつい漏らした言葉に、遥花は即座に頷いた。
「『拍』がここにあるかどうかはわかりませんが、期待はできますね」
私たちの足取りが、自然と軽くなる。門までの石畳を踏む音が、少しだけ弾んで聞こえた。
資料館よりも先に、私たちは先に併設のミュージアムショップを覗くことにした。
引き戸を引くと、外の雑踏がふっと遠ざかり、冷んやりとした空気が体にまとわりつく。
店内は明るく、床はフローリングになっていた。外観はそのままで、中だけリノベーションしたようだ。木の棚に並んだ瓶が柔らかな光を受けて並んでいた。
新しい雰囲気でも、歴史を感じさせるものがあちこちにあった。古い写真が小さな額に収められ、当時の暖簾やラベルが額縁にいれられて飾られている。
棚には、日本酒がずらりと並んでいた。一升瓶、四合瓶、限定品らしい化粧箱入りのもの。
ラベルも色とりどりで、筆文字のもの、抽象的な図案のもの、土地の名前を大きく掲げたものまである。
私は思わず棚に置かれたひとつの日本酒瓶に手を伸ばす。ずっしりと重く、中の液体が、柔らかに揺れる。
「壮観だな……」
遥花が低く息を吐く。
しょっちゅう親父の居酒屋で見ている光景だが、それでもここのレイアウトは圧巻だった。居酒屋ならば酒を飲むためにざっと置かれているのが普通だ。
だがここは違う。棚に並んだ瓶がまるで展示品のように整然と並び、照明がそれぞれの光を丁寧に拾っている。
思わず手を伸ばしてしまいそうになるほど、静かな美しさがあった。
息を呑んで一つ一つ、棚の端から端まで、丁寧に目を走らせていく。
滝鷺酒造で作られたお酒たち。見かけたことがあるラベルもある。
でも『拍』は、どこにもない。
しばらく3人とも黙ったまま、それぞれ棚の前を行き来した。
しかし歓喜の声を上げる人は、いなかった。
「……なさそうだね」
私が言うと、「やっぱ、普通の流通じゃない気がするな」と遥花が顎に手を当てる。
諦めきれずに、カウンターの奥にいた店員に声をかけた。
ラベルは一文字で、漢字で、『拍』。そんな日本酒は扱っていないか。写真を見せるが、店員は一瞬考えるように視線を上げ、それから首を横に振った。
「すみません、聞いたことないですね」
丁寧だが、迷いのない返答だった。
「そうですか……」
私が礼を言って下がると、3人の間に、少し間の抜けた沈黙が落ちた。
期待していた手応えが、すとんと抜け落ちた感じ。
空振りのあと特有の、行き場のない空気。私は小さく嘆息する。候補は残り2つか。本当にどちらかに『拍』はあるのだろうか。
「まあ、最初から当たるほど甘くはないか」
「とりあえず資料館を見にいきましょうか」
凛も小さく頷いたが、その表情はどこか考え込んでいる。
「……ん?」
ふいに遥花が足を止めた。
売店のレジ脇に貼られた案内を、指先で示している。
「資料館のツアーがあるってさ」
覗き込むと、レジ横の小さな看板に開始時間と簡単な説明が書かれていた。
予約不要、参加自由。
実際に働いている杜氏が案内してくれるらしい。
「へえ……」
「せっかくだし、参加する?」
遥花が振り返って言った。
「ただ見るだけより、面白そうじゃん」
その言葉に、私は隣の凛へ視線を向ける。
凛も案内板を見上げたまま、小さく頷いた。
「……そうですね。話を聞ける機会って、あまりありませんし」
2人に背中を押されるようにして、私はその場で店員さんに申込をする。
「では、13時になりましたら、資料館の前までお願いします」
そう言って人数分のパンフレットを手渡された。
「……暇になったな」
ミュージアムショップから出てすぐ遥花が苦笑混じりに呟く。
資料館の入口では、観光客らしい人たちが増え始めていた。
時計を見るとまだ11時過ぎ。見学開始までは、1時間以上ある。
「さて、どうやって時間潰す?」
「お昼ご飯とか?」
「いいね。腹が減っていたら頭も回らないし」
朝から何も食べていない。せっかく時間も空いたことだ。
「この辺りだと海鮮が多いですが、遥花さんは大丈夫ですか?」
すぐに調べてくれた凛が少し気遣うように聞く。そういえば遥花は生魚がダメだった。
そういうことを覚えているなんて、さすが凛だ。
「気にしなくていいよ」
遥花は手をひらひらさせた。
「天丼とかあるでしょ、そういうところ」
近くには神戸駅があるはずなのに、あまり飲食店はないらしい。
凛がスマホで店を調べながら、先を歩いていく。
画面を確認しては周囲を見回し、迷いなく足を向ける 。
通りから少し外れた場所に、その店はあった。木の看板とのれんだけの、隠れ家のような外観だ。
凛がそっと引き戸を開ける。
からり、と乾いた音が静かに響いた。
店の中は、落ち着いた照明に包まれていて、外よりもわずかに暗い。
昼間の明るさに慣れた目には、その薄暗さが妙に心地よく感じられた。
カウンターとテーブルがあり、出汁の匂いがふわっと鼻をくすぐる。
お寿司屋さんのような雰囲気だ。開店したばかりだからか、お客さんはまだ居ない。
小柄なおばあさんの店員さんに案内され、私たちは窓際のテーブル席へ腰を下ろした。
カウンターの向こうには厨房があり、白髪のお爺さんが黙々と手を動かしていた。
おそらく、先ほど案内してくれたおばあちゃんと二人で、この店を切り盛りしているのだろう。
歩き方もゆっくりしているのに、不思議と動きに無駄がない。
木目の残るテーブルにメニューを広げる。
やはりというべきか、並んでいるのは海鮮料理が中心だった。どれも地元の魚を使っているらしい。
「天丼あるじゃん」
遥花がメニューの端を指でなぞりながら声を上げた。
「私、これで」
「私は海鮮丼にします」
凛からメニューを手渡される。
「じゃあ、私も海鮮丼にしようかな」
注文を済ませると、不思議なくらい肩の力が抜けた。
朝から車を走らせて、慣れない場所まで来た。こんな旅行は高校の修学旅行以来かもしれない。
慣れない早起きをして、売店では期待していたものも見つからず、気づかないうちに少し気を張っていたらしい。
店内の落ち着いた空気と、温かいお茶の湯気に触れて、ようやく息をつけた気がした。
「日本酒の資料館とか、酒蔵って初めてですね」
凛が湯のみを両手で包みながら言う。
「そうだね」
おそらく親父も参加したことがあるだろう。そのあとを追うみたいで、少し近づけた気がする。
しばらくして、丼が運ばれてくる。
私と凛の前には、色とりどりの刺身が乗った海鮮丼。
遥花の前には、揚げたての天ぷらが豪快に乗った天丼。
「……うまそうじゃん」
遥花が少しだけ悔しそうに言う。
「そちらも迫力ありますよ」
凛が微笑む。箸を取る。
「海鮮の何が嫌なの?」
私がマグロを口に運びながら聞くと、「口触りっていうか……」と遥花は天丼をつつきながら、少し顔をしかめる。
「生臭いイメージがさ。どうしても先に来るんだよ。魚以外は大丈夫なんだけどさ」
遥花が箸を持ったまま、少し困ったように笑う。
「魚以外? エビとかは?」
そう言いながら、私は海鮮丼の上からエビを一切れつまみ上げた。
薄く光を受けた身には艶があって、表面にはみずみずしい照りが浮かんでいる。
新鮮なのが見ただけでも分かるくらいだ。
「それはまあ……いける」
「ほら、食べてみたら?」
遥花が何か言い返す前に、私はそのまま差し出す。
遥花は半ば反射的に口を開けた。
「……おい」
アーン、という間の抜けた動きで、エビがを頬張る。
一瞬、咀嚼が止まった。それから、遥花は眉をひそめたまま、ゆっくり噛む。
「……」
少し間を置いて、「……うまいな」と呟く。
「でしょ」
「食感は、まだちょっと慣れないけど」
そう前置きをしながら、しっかりと飲み込んだ。
「今まで食べた中で、1番かも」
その様子を見ていた凛が、負けじと箸を伸ばす。
今度は、つやのあるホタテだ。
「では、こちらも」
凛は丁寧な口調のまま、同じように差し出した。
遥花は一瞬ためらい、それから渋々と口を開ける。もう反論は無駄だと考えたのだろう。またしても、間の抜けた動き。
「……」
今度は、すぐに噛み始める。
「……うまい」
はっきり言ってから、少し照れたように視線を逸らす。
「ひなじゃないんだぞ」
遥花が、呆れたようにぼそっと言う。
凛は肩をすくめながら、箸を引っ込めた。
「小さいから、なんかあげたくなっちゃいました」
凛がくすっと小さく笑う。その笑いにつられるように、私もつい笑ってしまった。
遥花は納得いかないような顔をしていたけれど、照れくさそうに、自分の天丼を食べ進めた。
そんな何気ないやり取りが妙に懐かしくて、こうして3人でいる時間が、また動き出したように思えた。




