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ととと  作者: 紺野 睡蓮
7/7

6話 ショッピング

 遥花が運転する車は大型のショッピングモールの駐車場へと滑り込んだ。

 見上げるような建物が、平坦な街並みの中でひときわ目立っている。

 まったく気にしていなかったが、今日は土曜日らしい。

 駐車場はほとんど埋まっていて、空いたスペースを探す車がゆっくりと列をなしていた。

 ようやく車を停めて外に出ると、入口へ向かう人の流れが途切れることなく続いている。

 家族連れや、友人同士らしきグループが、思い思いの話をしながら足早に吸い込まれていく。

 その波に紛れるようにして、私たちも中へ足を踏み入れた。

 その瞬間、空気が変わる。外のやわらかな朝の気配は消えて、冷房の効いた乾いた空気と、ざわめきが一気に押し寄せてきた。

 話し声、足音、店内放送。四方から音が押し寄せてきて、思わず体が硬直した。

 ずっとニートをしていて、人とほとんど関わらない生活をしていたせいだと思う。視界がやけに明るくて、頭がふわっと浮く。

「大丈夫か?」

 私の異変に気づいた遥花が振り返る。

「……うん。平気」

 そう答えながら、深く息を吸った。

 人の中に戻るのに、こんな準備が必要になるとは思わなかった。

「とりあえず、スーパー行ってみようか?」

「え? 凛のキーボードを買うんじゃないの?」

 思わず聞き返すと、遥花は肩をすくめた。

「それもあるけどさ、もしかしたら『拍』が売ってるかもしれないだろ」

 言われてみれば、今まで意識して酒売り場を見たことはなかった。もしかしたら普通に流通しているものかもしれない。

 検索に引っかからないのは気になるが、それでも確かめてみる価値はある気がした。

「……それもそうか」

 小さく頷くと、遥花は満足げに笑った。

「でしょ。せっかくだし見てみようぜ」

 そんな軽い調子に背中を押されて、私たちは人の流れに混ざりながら、スーパーのあるフロアへと足を向けた。


 お酒売り場はレジを通り過ぎてすぐの棚にあった。

 もちろん日本酒だけじゃなくて、ワインやウイスキー、ビールがずらりと並んでいる。

 大型店舗なだけあって、品揃えがいい。日本全国の酒蔵から集まっていて、ラベルの色も文字もばらばら。見ているだけで目が回りそうだ。

「有名どころは、だいたいありそうだね」

 獺祭、久保田、八海山……。

 親父のお店で見たことがあるものばかりだ。しかし『拍』はなさそうだった。

 2人はというと、それぞれ楽しそうに日本酒の棚を眺めていた。手に取ってはラベルに書いてある銘柄や説明書きを丁寧に追っている。

「2人は、よく日本酒とか飲むの?」

 そう聞くと、遥花は迷いなく答えた。

「結構ね。ビールより好きだよ。酔い方が直線じゃなくて、考えが横道に逸れるのがいい」

 その独特な言い回しは、深く味わった末に、生まれたものだろう。

 まだ20歳になったばかりとはいえ、かなり楽しんでお酒を飲んでいることが窺える。

 凛も少し控えめに頷いてから口を開く。

「実は留学先でも日本酒は手に入りますので飲んでました」

「へえ」

「もちろんこんな多くの種類はありませんが、向こうでも評価は高いです」

 私は改めて棚を見渡した。これだけ並んでいても、『拍』は見当たらない。

 それほど期待はしていなかったが、やはりため息が溢れる。

「せっかくだし、飲み物でも買っていくか」

 そう言って、日本酒の棚を離れ、ジュースのコーナーへ向かう。

 色とりどりのペットボトルが並んでいて、さっきよりもさらに明るい。

 私は迷わずオレンジジュースを手に取った。

 喉を痛めないため。歌っていた頃からの癖で、今でも自然に体が選ぶ。

 凛は紅茶のボトルを一本、両手で包むように持ち上げる。成分表を一度だけ確認してから、かごに入れた。

 遥花は棚の前で少し考えたあと、いちごオレを掴む。

「……やっぱこれだな」

 その選択を見て、思わず笑ってしまう。

 高校の頃と、まったく変わっていない。

「まだ飲んでるんだ、それ」

「裏切る理由がないだろ」

「皆さん、変わらないですね」

 そう言いながらも、どこか安心したような表情をしている。

 かごの中の飲み物を見ていると、時間だけが先に進んで、私たちの一部だけが取り残されていたみたいだった。


 支払いを済ませた、私たちはエスカレーターに乗った。

 金属の段が低い音を立ててせり上がり、吹き抜けから見える下のフロアがゆっくりと遠ざかっていく。

 買い物客のざわめきが、少しずつ薄まっていった。

 3階は専門店が立ち並んでいて、楽器店の看板がすぐに目に入る。

 ガラス越しに、ずらりと並んだギターのネックが見えた。

 店内には穏やかなジャズ風のBGMが溶けていた。店に入るなり、遥花がきょろきょろと視線を巡らせる。

「ベース、どこだろう」

「ちょっと待って」

 私は思わず声をかけた。

「凛のキーボードを見に来たんでしょ」

「わかってる、わかってるんだけどさ」

 遥花は苦笑して、肩をすくめる。

「なんていうか自然と足が吸い寄せられるというか」

「それはそうだけど」

 言いながら、私は自分の目線に気づいてしまう。無意識のうちに店のアコースティックギターの並ぶ一角を探していた。

 木目のボディが照明を受けて鈍く光っている。

 買う予定もないはずなのに、そこにあるだけで胸の奥がわずかにざわついた。

「……みんなそうですよね」

 凛が小さく言う。

 少し困ったようで、それでも楽しそうな声音だった。

 危うく三人とも、別々の方向へ散ってしまいそうだったので、いったんキーボードのコーナーに向かうことにした。

 凛が前まで使っていたという型番は、棚から姿を消していた。

 代わりに、その後継らしい新しいモデルが、目立つ位置に並んでいる。

「もう生産終了みたいですね……」

 凛は小さくそう言ってから、1番手前に置いてあったキーボードの前に立った。

 背筋を伸ばし、椅子の高さを確かめる仕草が自然だ。

 もともと場の空気をきゅっと引き締めるところのある人だったが、鍵盤の前に立つと、その輪郭が一段くっきりする。

 気品というより、集中の密度が違う、そんな感じだった。

 試すように、指を落とす。ほんの数音。

 それだけで、鍵盤の反応の良さや、音の滑らかさが伝わってくる。

「さすが音大生だな」

 遥花が感心したように言う。

「そんな、全然です」

 凛は首を振りながら答えた。

 そう言って鍵盤から手を離した横顔は、どこか翳って見えた。

「留学先には、上手い人ばかりで……」

 少し間を置いて、続ける。

「それだけじゃ、ダメなんです」

 言葉は丁寧なのに、声音はかすかに揺れていた。

 謙遜というよりは、自虐的なものに聞こえる。

「あっちの方も、少し見てきますね」

 凛はそう言って、キーボードコーナーの奥へ歩いていった。新旧のモデルが並ぶ棚の向こうに、細い背中がすっと溶けていく。

「凛も、いろいろ抱えてるんだな」

「そうだね。でも……」

 私は鍵盤の方に目を向けたまま続ける。

「前より、ずっと上手くなってて驚いた」

「成長ってやつは、周りが思うより残酷で、本人には正直なんだよ」

 遥花は腕を組んで、楽器店の天井を見上げる。

「登れば登るほど、見える景色が増えて、同時に足りないものも増える。だから不安になる。健全だと思うよ」

「心配しないの?」

 そう聞くと、遥花は肩をすくめた。

「するよ。だけど何も知らずに心配するのは、こっちの不安を押し付けてるだけだ。揺れを静めたいなら、まずは揺れに触れないことだよ」

「……ねえ、大学で哲学か何かを専攻してる?」

 私がそう切り出すと、遥花は一瞬だけ目を瞬かせた。問いというより、長い付き合いの中でふと湧いた違和感を確認だった。

「うん。そうだよ。言ったっけ?」

「いや、なんとなくさ。昔から理屈っぽかったけど、さらに拍車がかかった気がして」

「そりゃ悪いね。必要なら控えるよ」

「いや、いい。それが遥花だもん」

 遥花の口元が緩む。言葉の端に、昔から変わらない何かが滲んでいた。


 しばらくして凛が大きな箱を抱えて戻ってきた。

 どうやら、前に使っていたモデルの最新バージョンに決めたらしい。横には持ち運び用のケースも付いていて、二人でそれを覗き込むと、ちょっとした高揚感が胸に広がった。

 レジの会計の表示が光る。私はつい目を見開く。ざっと40万円。

 改めて店員さんからキーボードを受け取ると、少しだけ、ほっとしたように微笑んだ。

「こういうときのお金持ちの感覚、怖っ」

 つい本音が出る。凛は肩をすくめて、でも真面目な顔で返す。

「必要なものですから」

「うん、これで揃ったね」

 凛は会計を済ませると、レジの店員に向き直って言った。

「ケースで持ち帰りたいのですが、よろしいですか」

「はい、可能です。箱はこちらで処分してもよろしいですか?」

 凛は軽く礼をして答えた。

「お願いします。助かります」

 それから店員は奥のカウンターで箱からキーボードを取り出す。それから慣れた手つきで本体を取り出し、ケースの内側に丁寧に収めてファスナーを滑らせる。

 凛はケースを受け取ると肩で動かして抱え直す。しっかりと安定させると、少しだけ笑った。

 やはり、自分のものじゃなくても新しい楽器を見るとテンションが上がる。箱を開けたときの木の匂いと、まだ指紋のついていない金属の光が胸をくすぐる。

「後で弾かせてよ」

「いいですよ」

 凛は小さく笑って頷き、自分が背負ったキーボードを改めて見返す。

自分の中で推測して、

 楽器店を出ると、ショッピングモールの喧騒がふたたび耳に入ってきた。

 楽器店のBGMの方が音量は大きかったはずなのに、人混みのざわめきの方が遥かに近い。

 それはきっと、私が社会のリズムに合わせられないからだ。

 BGMのリズムは慣れ親しんだ音楽のテンポで、一時の錯覚。

 私は雑踏のテンポに合わせられず、ただ足を動かすだけだ。

 私は2人に置いて行かれないように、足を速めて人波に揉まれながら着いて歩いた。

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