5話 旅立ち
翌朝、目を覚ますと、薄い光が部屋の中に静かに差し込んでいた。
夜のあいだに冷えた空気がまだ残っていて、ひんやりと肌に触れる。
昼間はまだ暑さが残る季節だが、この時間だけは過ごしやすい。そんなことをぼんやりと思いながら、ゆっくりと上体を起こした。
見渡すと、布団にはもう二人の姿はない。
どうやら寝過ごしてしまったらしい。
昔から、朝はどうにも弱い。
ぼやけた頭のまま、あくびをひとつこぼして立ち上がる。
足取りも覚束ないまま洗面台へ向かうと、そこに凛がいた。
「おはようございます」
鏡越しに、凛が先に気づいて声をかけてきた。
「うん、おはよう」
まだ少し眠気の残る声で返す。
凛は洗面台の前に立ち、慣れた手つきでリップを引いている。
「相変わらず、朝は弱いんですか」
鏡越しにくすりと笑われる。
「うん……そうね」
軽く目をこすりながら答えると、ふと違和感に気づく。
「遥花は?」
「もう準備して、外にいますよ」
凛は手を止めずに、あっさりと言った。
「え、そうなの」
思わず声が少しだけ上ずる。改めて見ると、凛自身もすでに身支度を終えている。きちんと整えられた髪や服装が、朝の光の中でやけにすっきりと見えた。
「準備できたら、降りてきてくださいね」
そう言って、凛は軽く会釈をしてから先に外へ出ていく。
ひとり残された洗面所で、私は蛇口をひねった。冷たい水で顔を洗うと、ようやく意識がはっきりしてくる。
お酒はもう残っていないはずなのに、ふわふわとした感覚がある。
鏡の中の自分と目が合って、少しだけ間を置いた。寝ぼけた顔をなんとか整えて、簡単に化粧を済ませる。
何日分になるのか見当もつかないまま、必要そうなものを手当たり次第にバッグへ詰めていく。
着替えや洗面用具、思いつくままに押し込んでいくうちに、かえって足りないものがある気がして落ち着かない。
遥花に言われたから、ギターを持っていく必要もある。ギターケースを取り出して、押し入れにあったアコギをいれる。
ジッパーを閉めかけたところで、ふと動きが止まった。
あ、と思い出す。
引き出しの奥から、適当な紙とマジックペンを取り出す。少し迷ってから、空白にゆっくりと文字を書いた。
『しばらく休業いたします』
慎重に書いたはずの文字は、予定よりも不格好だった。
セロハンテープを取り出し端に付けると、荷物を抱えて外に出る。
朝の空気はもうすっかり引き締まっていた。
1階に降りて、店のシャッターに休業を知らせる紙を貼る。角が浮かないように、指で押さえていく。
一度貼ってから、少しだけ位置を直してみるが、字は歪んだままだった。
親父に文句を言ったが、私の字も綺麗とは言えない。
閉店と書かなかったのは、未練とかそういうのではなく、単に怖かったからだ。
私には終わらせる勇気も、始める自信もない。自嘲すると、心臓が垂れ下がるようなため息が出た。
「行こうか!」
背後から、遥花の声がする。振り返ると、店の前に一台の車が止まっていた。
白い軽自動車にもたれかかった遥花はキーを指先でくるりと回し、少し得意げに笑っている。
「借りてきたよ」
「早いね」
思わずそう返すと、遥花は肩をすくめて笑った。
「思い立ったら、すぐ動く主義だから」
その言い方がいかにも彼女らしくて、少しだけ気が抜ける。
短いやり取りのあと、私はもう一度だけ振り返った。
店は、朝の光の中で静かに佇んでいる。
シャッターも、看板も、以前と変わらないはずなのに、どこかよそよそしく見えた。
守るべきものと別れるような気分だ。帰ってきたときに、また私を出迎えてくれるだろうか。
ほんの一瞬だけ、その場に立ち尽くしてから、私は視線を戻した。
「じゃあ、乗ってよ」
遥花が運転席のドアを開けながら言う。エンジンのかかる音が、静かな朝に小さく響いた。
免許を持っているのは遥花だけだ。
自然と、彼女がハンドルを握ることになる。助手席に私、後部座席に凛が収まった。
エンジンがかかり、車がゆっくりと動き出す。
バックミラーの中で、店が少しずつ遠ざかっていくのが見えた。私は前を向き直して、小さく息を吸った。
高校時代の友達が運転する車に乗るというのは、お酒のときと同じように、これまた妙な感覚だった。
助手席に座りながら、ハンドルを握る遥花の横顔を見る。大人になった、という言葉では少し足りない。
あの頃には考えられなかった距離に、いつの間にか立っている。そんな不思議な気持ちが、胸の奥に残った。
「そういえばさ、日本酒飲むって言ってたけど、運転してたら飲めないじゃん」
ハンドルを握ったまま、遥花が前を向いたままニヤリと笑った。
「宿に泊まったときに、ゆっくりいただくよ」
声の調子にも、ハンドルを切る動きにも、どこか余裕がある。
「どこから行くの?」
あれから手帳を見返してみたが、やはり『拍』の記載はなかった。
赤丸3つのどれかが『拍』である可能性が高い。
情報がない以上はいく順番が重要だ。
後ろで凛がスマホを操作しながら淡々と答える。
「距離的には、神戸にある滝鷺酒造が近いですね。資料館もあるみたいです」
「よし、じゃあそこにしよう」
遥花の声は軽く、決断は早い。
「適当だなぁ」
計画らしい計画は、最初からないらしい。
私はカーナビを操作して、滝鷺酒造を目的に設定する。
所要時間は1時間半。昼前には着くだろう。
「あっ、そういえば……」
後部座席から、控えめな声が上がる。
凛が、おずおずと手を挙げていた。まるで教室で発言するみたいに。
「お二人はギターを持っていますけど、私はキーボードを持参していないのですが」
その一言で、車内の空気がわずかに止まる。
「家に行こうか?」
遥花が、間を埋めるように何気なく口にする。
けれど凛は、少し考えるような間を置いて、小さく首を振った。
「いえ、大丈夫です。もう二年近く、触っていませんから。それを使うのは、少し不安で」
それから凛は、何か決心したように軽く頷いた。
「新しいのを、買いましょう」
さらっとした口調で、思いついたことをそのまま口にしたようだった。
「この旅のために……いいのか?」
「ええ」
あっさりとした返事に、こちらのほうが少し拍子抜けする。
「なので楽器店があれば、寄っていただきたいです」
「行き当たりばったりだな」
遥花が、ハンドルを握り直しながら笑う。
「そういう旅ですから」
凛も小さく笑って、肩の力を抜いたように答えた。
そんなやり取りが、妙にしっくりくる。夕暮れの部室を思い出す。
遥花が運転する車は、高速に入り、加速して道を進んでいく。
行き先も、順番も、はっきりとは決まっていない。それでも、不思議と不安はなかった。
この先どうなるのかは分からない。
けれど、それでもいいと思えた。




