4話 波跡(はあと)
しばらく飲み続けているうちに、いつの間にか『拍』の瓶は空になっていた。
量としてはそれなりにあったはずなのに、普通の瓶より少し小ぶりなせいか、減りは思っていたよりも早い。
食事もひと段落して、誰ともなく手が止まり、テーブルの上に残った『拍』だけが目に入る。
「この日本酒、初めて見たけど、有名なのかな」
遥花が瓶を手に取り、ラベルの端を指で押さえながら、首をかしげた。覗き込む仕草が、どこか子どもっぽく見える。
「やっぱり、日本酒にこだわってるだけあって、珍しいものなんですかね」
「でもどこのか全然わからないんだよね」
「……おかしいですね」
そう言って、凛も身を乗り出してラベルを覗き込んだ。
「こういうのって、書いてなきゃダメじゃない?」
遥花が首をかしげる。
「そうだよねえ」
私は曖昧に相づちを打ちながら、もう一度瓶を見た。
それらしい産地も成分表示とかも見当たらない。
「もしかしたら、飲食店専売なのかもしれません」
凛がそう言って、スマホを取り出す。
画面を指でなぞりながら、いくつか検索をかけているようだったが、やがて小さく首を振った。
「……出てこないですね」
3人の視線が、もう一度瓶へ戻った。
黒光りのガラス瓶とラベルは、まるで何かを隠しているみたいに、静かにそこに佇んでいた。
「どこに置いてあったの?」
「棚の上。いちばん奥のほう」
そう答えると、遥花は少し考え込むように視線を落とした。
「隠れてたっていうよりも、隠してたって感じだね」
「そうかな? やけに綺麗だったけど」
周りの酒と違って、その瓶だけは手入れされたみたいに澄んでいた。
遥花の言うとおり、最近そこに置いた。あるいは大事にしていた。そう考えるほうが自然なのかもしれない。
「……もしかしてさ」
思考を整理するように、一拍置いてから口を開く。
「お父さんから香穂への誕生日プレゼントだったんじゃない?」
その言葉に、胸の奥が、かすかに揺れた。
「え……、あの親父が、こんな粋なことするかな?」
「棚の奥に隠しておいて、今日渡すつもりだったかもしれません」
凛が、遥花の推論を後押しするような口調で言う。
「だとしたら、結構飲んじゃいましたね」
テーブルの上の瓶を見る。3人で飲んだから、もう数センチくらいしか残っていない。これが最後だと思うと、急にその量が心許なく感じられた。
3人ともが同じことを思っただろう。思わずか細い声が漏れた。
「……これ、どこかに売ってないのかな?」
どこかに注文票とか伝票があるかもしれないが、店をひっくり返して探すのは大変だ。
「見たことないですね」
テーブルの上に、沈黙が蔓延る。
親父のことだ。旅をして、珍しい日本酒を集めて回っていたかもしれない。
そうなると見つけるのは大変かもしれない。
私は先ほど見つけた手帳を取り出してテーブルの中央に置き、指先でページをなぞりながらゆっくりめくった。
「手がかりになるかは分からないけどさ。これも見つけたんだよね」
2人が身を乗り出して、手帳を覗く。
このお店に置かれた日本酒のことが書かれている。
ただし『拍』はない。
私は最後のページに3か所だけにつけられた赤い丸印があって、どれも全部酒蔵っぽい場所だったことを話す。
「この酒と関係あるかもって思ったんだけど、字が掠れててよく見えなかったんだよね」
「3つだけ、か」
親父が何を考えていたのか、どこまで準備していたのか。
私には想像する材料が足りなかった。
遥花が手帳を覗き込むと、何かに気づいたみたいに目がぱちりと開いた。
それから文字を指でなぞりながら、ゆっくり口を動かして、つぶやくように言った。
「これは滝鷺酒造、今田酒造、それから八重酒造、かな」
「読めるの?」
「私も似たような字を書くから。だけど流石に滲んだところまでは分からない。紙と時間が主導権を握ってる」
するとスマホを操作していた凛が、首を傾げる。
「うーん、マップで赤印の辺りを調べたら、同じ名前の酒造は出てきますけど、『拍』については情報がないですね」
凛の声は落ち着いているが、どこか期待と戸惑いが混じっていた。画面の地図はピンを示し、指先がその周辺をなぞる。
「そっか。残念」
今どき、インターネットに情報が出てこないなんてことがあるだろうか。検索すればたいていのものは引っかかる時代なのに。
いや、昔ながらの酒蔵なら、あえて外に情報を出していない可能性もある。宣伝に力を入れず、細々とやっているところだってあるのかもしれない。
手を伸ばせば届きそうなのに、指先のところでふっと消えてしまうような感覚。
分かりそうで、分からないまま。
私は小さく肩をすくめて、目の前に置いた手帳へと視線を戻した。
「とりあえず場所は分かったんでしょ。行ってみようよ。沈黙した扉をノックするだけのことだよ」
遥花が、まるで思いついた遊びを口にするみたいな調子で言った。
その声にはどこか楽しげな響きがあって、さっきまでの微妙な空気を、ふっと軽くしてしまう。
「せっかく集まったんだしさ。車とか借りて全部周る旅をしてみようよ」
遥花は酔って紅潮した頬を持ち上げて笑った。
「えっ?」
思わぬ提案に間の抜けた声が出る。
「行くって言っても、神戸ならともかく、山口までなんて……、全部回るとなったら、何日もかかるよ?」
手帳に描かれた地図を指でなぞるだけで、軽くめまいがしそうだった。移動にかかる時間や交通費が、頭の中で勝手に膨らんでいく。
思いつきで動けるような距離じゃない。
「それに、2人の都合だって……」
そう言いながら視線を上げると、遥花はどこか楽しそうにこちらを見ていた。
「全然いいよ。大学なんて何回か休めるし」
さっきは大学が忙しいって言っていたのに。しかしそれを引き合いに出しても意味がないだろう。
こういうときの遥花は有無を言わせない。
子どもみたいに無邪気に笑って、遠足の計画を決めるかのようなテンションだった。
「凛もいいよな」
「はい。もちろん」
2人の迷いのない返事に、私は呆気に取られる。
気づけば、さっきまで頭の中で並べていた無理な理由は、どこかに押しやられていた。
そう言われてしまうと、それ以上言い返す言葉が見つからない。
「……まあ、いいけど」
小さくそう答えたときには、もう流れは決まっていた。
誰かが次の酒を注ぎ、話題は自然と別のほうへ移っていく。
計画らしい計画もないまま、それでもどこか浮き立つような空気だけが残った。
夜も更けて、結局そのまま三人で泊まることになった。
誰かが強く言い出したわけではない。調子に乗ってお酒を飲みすぎたことと、どうせ明日また集まるという事実が、静かに背中を押した。
「人数分の布団なら、2階にあるから」
外階段を上る足音が、昼間よりも鈍く響いた。酔いのせいか、気持ちのせいか、段差が少し高く感じられる。私の家に泊まる、というより、同じ時間の中に一緒に留まる、という感覚だった。
押し入れから布団を引きずり出し、私の部屋の床に敷き詰める。
ふと部屋の隅に立てかけてあったアコースティックギターが目に入った。3つ並べるには手狭だったから、ギターは押し入れにしまう。
順番にお風呂に入って、私の部屋着を貸し出すと、遥花はふわりと身をくねらせて「これ、似合うかな?」といたずらっぽく首をかしげた。
サイズが大きくて肩からずり落ち、裾が床にたゆたう。その様子はまるで借り物の王冠をかぶった子どもみたいだった。
凛は目を細めて「可愛らしいですね」と保護者のような笑みを浮かべる。
一方の凛は少し窮屈そうだった。丈はくるぶしまでしかなく、ボタンがはち切れそうなほど、胸が強調されている。
「エッチィだね」
「あ、ありがとうございます」
遥花の年寄りじみたからかいに、凛が真面目に返すものだから、会話はどこかちぐはぐで、妙に滑稽だった。
遥花は、さっそく布団の上に転がり込んで、ごろりと寝返りを打った。
くつろいだ様子のまま、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
「あれ? あそこに置いてあったギターは?」
「狭かったから、押し入れなしまったよ」
その言葉を受けて、遥花は一度視線を泳がせ、何かを探るように少し考えてから、静かに呟いた。
「ギター、旅に持って行きなよ」
凛の一言は、提案というより夜の中にぽんと投げ込まれた小さな火花みたいだった。
「えっ」
突然の提案に私は一瞬固まった。
「昔の香穂のことを知ってる友人でしょ。こんなこともあろうかと、私もベース持ってきて正解だったよ」
なるほど。乗り気だったのは、そういう考えもあったのか。
遥花は自分が持ってきていたベースのボディをそっと撫でる。ケースの金具が小さく鳴って、キーホルダーが揺れる。
そういえば遥花はずっとベースを抱えていた。気にはなっていたのに、聞くタイミングを逃して、そのままになっていた。
「いいですね」
凛がやわらかく微笑みながら、静かに同調する。
その空気に押されるように、私は天井を仰いだ。古い木目がぼんやりと視界に広がる。
それから小さく息を吐いてから、口を開く。
「じゃあ『波跡』、再結成ってことで」
降参するように項垂れて言葉にしてみると、思っていたよりもあっさりしていた。もっと引っかかるものがあると思っていたのに、拍子抜けするくらいに。
『波跡』というのは、軽音時代の私たちのバンド名だ。
とは言っても公に活動していたわけではないから、使ったのは3人での会話か、文化祭のステージくらいのものだ。
それでも口にすると、やけに緊張する。はあと、に当て字をしたらしくない名前。最初の頃に勢いでつけた名前だが、今でも気に入っている。
私はギターを押入れから引っ張り出す。
それから膝の上に置いて、軽く弦を鳴らす。
音は控えめで、夜の空気に溶けるみたいに広がった。
短いフレーズをいくつか弾く。
練習でも演奏でもない、ただ指が覚えている動きだ。
2人は何も言わず、布団に座ったまま音に耳を傾けていた。




