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ととと  作者: 紺野 睡蓮
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3話 20歳

 私たちはお店の外に出て、外階段を登る。靴を踏み締めるたびに、振動と音が伝わってくる。まるで吊り橋のやつに危なっかしい。それでも2人がいることが私を安心させた。

 2階は小さな部屋が2つあるだけの小さな作りだ。ひとつは私の部屋で、もうひとつが親父の部屋。

 壁一枚で隔てられ、互いに干渉することは少なかった。生活の軸が別々だったから、顔を合わせるのはたまにタイミングが合ったときに、バッタリと鉢合わせる時くらいだった。

 親父の部屋に入ると、小さな祭壇が用意されている。遺影の中の笑顔は、今よりも若く見える。最近の写真がなかったから、私の高校の卒業式の写真だ。

 線香の香りが薄く漂い、そこだけ時間の流れが少しだけ遅くなっているように感じられた。

 ふと部屋の隅に目を向けると、親父の生活の痕跡が細部にまで残っている。

 読み込まれた古本、壁にかかったカレンダー、窓際に置かれた小さな植木鉢。どれもが日常の断片で、主人を失い静かに息を潜めているようだった。

 私は親父が亡くなるまで、この部屋のことはほとんど知らなかった。

 マッチを擦ると、火は一瞬で揺らぎ、線香の先端に小さな光を宿した。白い煙がゆっくりと立ち上り、天井の低い空間をふわりと満たしていく。


 私が目で合図をすると、凛と遥花は順番に手を合わせる。

「……お世話になりました」

 声は小さく、けれどはっきりしていた。

 遺影の中の親父も、2人のことを見て懐かしんでいる感じがした。

 親父は2人のことを、かなり気に入っていた。遥花は聡明で明るく、親父とも気さくに言葉を交わしていた。凛もお淑やかで柔和で、親父から信頼されていた。

「こいつも二人を見習ってくれたらな」と、親父はよく冗談めかして言っていた。

 嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったい感覚だったのをふと思い出す。

手を合わせ終えると、遥花はためらうように息をついた。

「ありがとう」

「ううん、親父も喜んでると思う」

 それきり言葉が途切れ、部屋に静けさが戻る。遥花は少しだけ逡巡してから、控えめに問いかけた。

「……お父さんのお店は、どうするの?」

「このままずっと放っておくわけにはいかないけど、正直あんまり継ぐ気はない」

 そう言うと、2人の視線が一瞬たじろいで、床の方へ流れた。

「というか継げないよ。親父みたいにさ、できる気がしないから」

「……簡単じゃないですよね。香穂さんもまだ大学生ですから」

「いや、大学は辞めた。今はフリーター」

「えっ?そうなの?」

 遥花が素っ頓狂な声を上げる。2人には隠すわけにはいかない。というか隠したくなかった。

「通ってる意味が、分からなくなってさ」

「そうだったんですね」

 凛の静かな声が、夜の空気に溶けるように小さく落ちる。それ以上のことは不用意に聞いてこない気遣いと、言いようのない距離が混じっていた。


「2人とバンドしてたときが1番楽しかったよ」

 私は肩の力を抜いて、できるだけ明るく努める。

「遥花は最近ベース弾いてる?」

「弾いてるよ……って言いたいけど、最近はあんまり。大学が忙しくてさ」

「そっか。やっぱり大変なんだ」

「うん、思ってたよりね。2年になったら急に専門性増すから課題とか普通に多いし」

「でも、やめたわけじゃないんでしょ?」

「それはないよ。時間ができたら弾くよ。だって考えていなくても、心の底にそっと沈んでいるものだから」

 それから遥花の視線が凛に向く。

「凛は?」

「私はレッスンとコンクールばかりですから。ある意味では毎日弾いてますよ」

「あぁ、そっか」

 柔らかく微笑んだ凛の顔を直視できなかった。

 留学した凛がやっているのは、いわゆるクラシックピアノだ。キーボードとは違う。本人はもともとバンドに興味があったわけではなく、高校でドラムかキーボードができる人を探していたときに、私が無理に誘った形だった。

 まさか音楽留学をするまでになるなんて、あのときは思いもしなかった。

 遥花も凛も、ずっと先へ進んでしまった。

 その背中を見送ったまま、私は同じ場所に立ち尽くしている気がする。取り残された、という言葉が、やけにしっくりくる。


「香穂さんは、ギターは続けていますか?」

 凛が私の部屋に置かれたアコースティックギターの方をちらりと見て、問いかける。

 不意に向けられた言葉に、少しだけ息が詰まる。どう答えるのが正しいのか、一瞬分からなくなる。

「う、うん……。まあ、たまにね」

 曖昧に濁した声が、自分でもか細く消えそうだった。

 本当は、今でも毎日のように弾いている。

 時間を持て余した夜に、指に馴染んだコードをなぞって、意味もなく音を重ねる。曲の形になりきらない断片ばかりが増えていく。

 それでもやめられないのは、未練なのか、それともただの癖なのか。自分でも分からない。

 そのことを見透かされるのが、ひどく気まずくて、私は視線を外へ逸らした。


 窓の向こうには、真っ暗な空が広がっていた。さっきまでかすかに残っていた夕暮れの気配は、もうどこにもない。

 話しているうちに、思っていたよりずいぶん時間が過ぎていたらしい。

 部屋の中も、気づかないうちに少し冷えていた。私は小さく息をつき、その冷たさを肺に流し込む。

 このままここに座っているのも、少し落ち着かない気がした。

「下に戻ろうか」

 そうして1階の居酒屋に戻ると、さっきより空気が明るくなっている気がした。色のない灰色が、薄暗い藍色になったくらいの違いだけど、それでも何かが変わった気がする。

「それじゃあ、飲みますか」

 さっきまでのしんみりした空気を払うように、遥花は少し声を張った。

 今日は、そのために集まったのだ。

 ここは居酒屋で、酒には困らない。

 そう思ったところで、ふと引っかかる。

「あれ、全員もう20歳になったんだっけ」

 口にすると、遥花が一瞬きょとんとした顔を見せた。それから、呆れたように笑う。

「香穂の誕生日が最後だろ。だから集まろうって言ったんだよ」

「あぁ、そうだった」

 言われてみれば、そんな約束だった気がする。

 というか2人が来るまで、今日が自分の誕生日だということも忘れていた。それだけ頭が回っていなかったということか。

 私は頭を掻いて、目を瞑り眉の上にギュッと力を入れて、切り替える。

「日本酒でいい?」

「ええ、お願いします」

 私はテーブルの上に置いてあった瓶を手に取る。先ほど棚の奥で見つけた日本酒『拍』。

 選んだ理由は、特にない。何となく目についた。

 それから冷蔵庫からまだ食べられそうな惣菜を取り出して、レンジで温めてから、皿に並べる。

 煮物、漬物に、焼き魚。簡単なつまみだけど、今はそれで十分だ。

 皿を置くと、遥花が目を輝かせて言った。

「うお、これ食べていいのか」

「うん。せっかくだから」

 私は『拍』の栓を開ける。

 瓶の口から立ち上る香りが、鼻先をくすぐる。いわゆる日本酒というイメージの強い香りじゃなくて、ふわっと爽やかな果実のようだ。

 棚から持ってきた三つのグラスにそっと注ぐと、透明な液体が波を立てて揺れた。光を受けた液面がキラリと反射して、夏の海のように見える。

「じゃあ、献杯、ってことで」

「うん」

 3人でグラスを持ち上げる。軽く触れ合わせると、チンという小さな音が居酒屋の空気に溶けた。

 日本酒、というかお酒を飲むのは、これが初めてだ。

 口に含めると、喉に引っかかる感じはなく、すっと体に落ちていく。最初に来るのは青リンゴや白桃を思わせる爽やかな香りで、米のやさしい甘さがふわりと混じる。

 舌の上を水が流れるように通り抜け、ほのかな苦みを残していく。主張は控えめで角がなく、最後に感じるのは清涼感だ。

「……飲みやすいね」

 私が言うと、2人が満足そうに笑った。

「うん。日本酒って強い印象あったけど、これは妙に穏やかだね。味の圧がなくて、静かな丸みが入ってくる感じ」

「私もとても好みの味です」

 学生時代の友達とお酒を呑むなんて、なんだか不思議な感じだ。

「料理も、あの頃と同じで美味しいですね」

 やっぱり親父の料理はうまい。

 この料理を捨てずに済んでよかった。2人が来てくれたことは本当にラッキーだ。

 一口ごとに昔の夜がふわっと戻ってきて、なんだか心がぽかぽかする。

 料理が美味いと、酒も進む。

 味の濃い惣菜に合わせると、日本酒のやわらかな口当たりが、ゆっくりと広がっていく。互いの輪郭をなぞるように、味が重なり合っていくのが分かった。

「飲みすぎないようにしてくださいね」

 凛が、どこか保護者めいた口調でたしなめる。こういう時でも落ち着いている。

「大丈夫、大丈夫」

 軽くあしらおうとする遥花の様子は、店でよく見た酔っ払いのそれだ。私も苦笑して盃を傾けた。どうやら彼女も、酒に強いらしい。

 注ぎ足していき、また一口。

 ふわりとした感覚が、酔いの波に揺られながら静かに積み重なっていった。

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