2話 再会
そのときだった。
「あれ、まだ空いてないのかな」
「おかしいですね。灯りはついてますけど」
不意にシャッターの向こう側から、声が聞こえてきた。思わず身体が硬直する。
どうやらウチが目当てのようだ。
一人は明るく抑揚のある高い声。もう一人は落ち着いていて、抑えた調子だった。
うちのような居酒屋に女の子が来るなんて珍しい。しかも声から若そうな雰囲気だ。
いつもだったら大歓迎だっただろう。
しかし残念ながら、休業中だ。まだ張り紙も出していないし、店の事情を知らないのだろう。
早く伝えないと、とシャッターの下をくぐる。
私が顔を上げると、そこには女の子が2人が立っていた。夜闇が濃く、顔立ちは判然としない。
一瞬、背が高いのかと思ったが、背中のギターケースのせいだった。
その手前に立っていた子と目が合った刹那、バチン、と空気が弾けたような音がした。
「……遥花と、凛?」
私が名前を呼ぶと、遥花は手をひらひらと振った。ギターケースについたストラップも一緒に揺れる。
「うん。久しぶり〜」
「そ、そうだね」
遥花は髪を金色に染めていた。
顔立ちは相変わらず童顔だが、耳元の小さなシルバーのフープピアスが2つ並んでいる。身長が小さいせいで、素行の悪い学生のようにも見える。
彼女の服はラフで、キャメル色をした薄手のジャケットに、少し色あせたバンドTシャツ、細身のジーンズを合わせている。靴はスニーカーで、つま先に小さな擦り傷がある。全体の色味が褪せていて、古着のようだ。
その後ろに立っていた凛のほうも、私と目が合うとぺこりと頭を下げた。
やはり別人のようだった。黒縁の眼鏡は変わらないが、身長がさらに伸びている。黒髪は胸くらいまで伸びていて、艶があり、風に流れると首筋がきれいに見える。服装はシンプルだが質の良さが感じられる緑色のワンピースだった。視線は冷静で観察的、口元にはほとんど表情を作らないが、目だけで周囲の空気を測っている。香りは控えめな石鹸のようで、近づくとほんのりと大人の香水が混じる。
2人に会うのは、高校を卒業して以来だ。もう1年半ぶりになる。
これだけ変わっていれば、気づくのが遅れたのも無理はない。
「ど、どうしたの、急に」
私は動揺しながら2人に訊ねる。
高校卒業後、遥花は京都大学に進学していた。凛に至っては海外留学しているはずだ。
こんなところにふらりと立ち寄れるような人たちじゃない。
「約束していたじゃないですか」
凛にそう言われて、私は一瞬言葉に詰まった。
そうは言われても、すぐには思い出せない。
最近あったことで頭の中がゴミ屋敷みたいになっていて、情報を見つけ出せそうにない。
「えっと……」と言葉が喉に詰まると、遥花はわざとらしいほど大げさに空を仰いだ。
「え〜、マジか」
両手を腰に当てて、漫画みたいにため息をひとつ。その仕草が妙に芝居がかっていて、私は苦笑いを返すしかなかった。
「香穂が20歳になったら、親父さんのお店で集まって酒を飲むって言ってただろ?」
「そうだったっけ」
言葉は綿毛みたいに軽くて、ふわふわ飛んでいった。突然のことすぎて、頭が追いつかない。
遥花は私の反応を見ると肩をすくめて、凛と視線を合わせる。
それから口元に、にやりとした笑みを浮かべた。
「忘れてたの? しょうがないなあ」
その声は明るく、軽やかで、私は胸の中で動揺がほどけるのを感じた。
忘れていた言い訳を探す代わりに、私は小さく息を吐いてから「ごめん、とりあえず入って」と2人を店の中へ招き入れた。
お店の一番奥にある壁際の座敷に腰を下ろすと、いつもの鼓動が胸に戻ってきた。
壁に寄りかかれば、背もたれになって肩の力がふっと抜ける。白熱電球の照明がテーブルの木目を淡く照らしていた。
「ここ、やっぱり落ち着くよね」
席についた遥花が、テーブルに手を添える。
高校のころ、私たちは軽音楽部でバンドを組んでいた。夕陽が差し込む空き教室で、閉門ギリギリまで、駄弁ったり曲を弾いたりしていた。
「部活と流れで、よく来ていましたね」
「そうそう。夜だから賄い出してもらってたな」
明日が来ることを気にせずに、時間なんてあっという間に通り過ぎていったころだ。
遥花と凛が隣同士に座って、私が対面に座る。
私が1人側なのは、たまにお店が忙しいときに手伝わされたからだ。
料理を運んだり、掃除をするときに、1人の方が出やすかった。
前を向けば店全体が見渡すことができる。賑やかなテーブル、料理をする親父、グラスが触れ合う音、厨房から立ち上る油の匂いが、記憶の端に蘇ってくる。
カウンター席では、新垣さんが肘をつき、低い声で仕事の愚痴を親父にこぼしていた。酔っ払いたちの笑い声がうるさくて、私たちの声も大きくなった。
だけど今はしんと静まり返っている。厨房からは音が消え、カウンターにも人影はない。
2人はその違和感を察したのか、言葉を発さずに私の顔を見つめていた。
私は何か聞かれるよりも前に、一度深く息を吸い込み、空気を胸いっぱいに満たしてから、ゆっくりと口を開いた。
「実はさ、2日前に親父が死んじゃって」
声は思ったよりも低く、震えはしなかったが、言葉を選ぶために少し間を置いた。
二人は同時に目を見開き、言葉を失ったままだった。息を呑む音がする。
「今、居酒屋はお休み中なんだ」
そう付け足すと、店の静けさが、さっきよりもはっきりと耳に残った。
カウンターの奥からは、かすかに冷蔵庫の低い駆動音が聞こえてきた。
役所や警察署で説明していたときよりも、今のほうがずっと実感がこもっていた。
何か大きくて重たいものを吐き出したような気がして、喉の奥がきゅっと締まる。
「そうだったのか」
遥花が、噛みしめるように呟いた。
凛も言葉を探すみたいに視線を落とし、ゆっくりと言葉を置いた。
「急に来ちゃって、ごめんね」
「いや、それは……」
言葉が止まる。どう返していいのか分からない。言葉がぐるぐると回っていて、何も見つからない。
私はもう一度だけ目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。冷たい空気が肺に入って、少しだけ気持ちが落ち着く。
「2人にとっても大事な人だったよね」
私の声は思ったよりも平静だった。
親父は彼女たちにとっても大きな存在だったはずだ。毎日のように顔を合わせ、気前よくドリンクや料理をサービスしていた。
「そうだな」
「会えるのを楽しみにしていました」
2人のことを意識すると、自然と言いたいことを言える気がした。
「毎日、顔を合わせてたのに、実感が沸かないんだ。前日まで普通に働いていたし、変わった様子はなかったと思う。だから、今ここが静かだっていうのが、まだ信じられない」
言い終えると、言葉の端に小さな震えが残った。
下手に気を遣うよりも、ありのままを。
「大変だったんだな」
遥花がぽつりと言った。独り言のようで、だけどたしかに届いた。
「うん。来てくれて、ありがとう」
今日、2人が来てくれなかったら、私はもっと時間を浪費していただろう。
この静寂を受け入れられずに、何日も茫然自失となっていたに違いない。
すると凛がゆっくりと立ち上がった。
動作はゆっくりだったが、ぼんやりとしていたせいで、迷いなくスパッと立ち上がったようにみえた。
「……お線香、あげてもいいですか?」
「うん、お願い」
私が返事をすると、凛は軽く礼をした。




