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ととと  作者: 紺野 睡蓮
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1話 『拍』

 部屋でひとり、仰向けのまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。

 気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 眠気と疲労でぼうっとして、頭がうまく働いていないような気がする。

「……あっ」

 ふと居酒屋のことが頭に浮かぶ。これまで頭の中が混乱していて、そこまで気が回らなかった。

 親父が倒れたあの日から、あの場所は止まったままだ。

 シャッターも、厨房も、カウンターも、食材すらもそのままだ。片付けなきゃいけない。

 私は深く息を吐いて覚悟を決めてから、勢いに任せて体を起こした。

 ここでゆったりとしていると、また身体が沈んでいきそうだった。

 外階段を下りて、お店の前に立つ。薄汚れたシャッターの鍵を開き、半分だけ持ち上げ、その下をくぐった。

 金属の冷たい感触が、手のひらに残る。金属が擦れる音が、店の中にやけに大きく響いた。

 冷蔵庫の中身も、酒瓶が何本あるのかも、帳簿がどこにあるのかも、私は何ひとつ把握していない。

 忙しいときに手伝うことはあっても、キッチンには入ったことがなかった。中途半端に手伝っても邪魔になるだけだし、なにより親父のこだわりと思い入れが強い場所だった。

 主人を失ったキッチンは、がらんとしていて、広く見える。これからどうなるのかを考え始めると、また思考が途中で止まった。

 お店を継ぐ、とか。

「いや、まさかね」

 バカらしくて声に出してしまう。

 葬式のときに新垣さんをはじめ、お店の常連さんから言われたけれど、そんなことできるはずがない。

 経営とか何の知識もないし、料理も得意じゃない。

 大学を中退して、フリーターをしている碌でなしだ。自嘲して客観視すると、虚しくなった。

 その場にしばらく立ち尽くしてから、私はやっとの思いでキッチンへと足を踏み入れた。

 冷蔵庫を開けると食材でぎっしりだった。作り置きの惣菜や魚は、もう食べられないだろう。仕込んでいた揚げ物やスープも、たぶん無理だ。

 あの日の営業があるつもりで、全部を用意していたのだと思うと、捨ててしまうのが少し躊躇われた。

 料理の仕込みを見れば、親父の決意と情熱がわかる。

 惣菜の煮物は出汁が染みて茶色に光り、里芋や人参の断面が柔らかく崩れかけている。

 小鉢の葉物の胡麻和えが鮮やかで、刻み海苔がふわりと乗っている。

 刺身も魚の種類ごとに切り方が微妙に違う。焼き魚も調理のために下処理が済んでおり、塩を振った跡や切り込みが見えるものもあった。

 冷蔵庫の上の棚にある大きな寸胴の蓋は半開きで、湯気の跡が蓋の縁に白く残っていた。澄んだだしの色、浮かぶ油の薄い膜、刻んだ葱や根菜の断片が表面に散らばっている。煮込まれた骨や野菜が混ざり合っているあら汁だ。

 どれも見覚えがある。夕飯はいつも余った居酒屋メニューばかりだった。どれも美味しかったし飽きなかった。

 でもそれも二度と食べられない。

 そう思い至ると、結局何も捨てられなくて、私はいったん冷蔵庫を閉めた。


 ふと現実逃避のために視線を逸らすと、背伸びするよりも高い位置にある棚に並んだ酒瓶が目に入った。

 親父は日本酒にこだわりがあった。良い日本酒を揃えるために日本中を巡ったと鼻高々に言っていた。

 こだわりや銘柄の話を始めると長くなるので、私はいつも適当に相槌を打っていた。

 母は、日本酒のために居酒屋を始めたんじゃないかしら、とよく言っていた。聞いた話だと、親父は結婚後もしばらく、全国の酒蔵を巡る旅を続けていたらしい。ただお酒を仕入れるだけじゃなく、酒蔵の扉を叩き、蔵人と話し、仕込みの現場に立ち会う。そんな日々だったという。

 帰ってくると車のトランクには、ケースに収まった高級そうな一升瓶が入っているのがお決まりだったそうだ。

 そして居酒屋にはそんな旅の痕跡が残っていた。

 棚には日本全国の日本酒が並んでいる。

 

 私は脚立に登って、棚の上にある酒瓶を一本持ち上げてみた。深緑色のガラスで、ラベルには迫力のある筆文字で大吟醸と書かれている。よくわからないが高そうだ。

 中身半分以上入っていて、ずっしりと重い。中の液体が波打つように揺れる。食材は駄目でも、酒はしばらく飲めるだろう。

 瓶を元の位置に戻そうとしたとき、指先が何かに当たった。

「うわっ」

 慌てて手を引っ込めると、それが乾いた音を立てて床に落ちた。

 目を向けてみると、それは小さな手帳だった。

 百均で買えそうな安っぽい感じで、ポケットにも入りそうなサイズだ。

 拾い上げて開いてみると、端が擦り切れ、何度もめくられた跡があった。

 瓶についているラベルが糊付けされていて、隣のページに汚い走り書きの文字が書かれている。おそらく酒を飲んだ感想なのだろう。

 日付や、蔵の名前、こだわり、時には『香り良し』とか『甘みが強い』といった味の断片が小さく書き込まれている。

 そして最後のページには右上から横に伸びる円形がひとつ。中央の下に楕円があり、さらに左側にももうひとつ楕円がある。並び方からして、西日本を示しているようだった。そしてそこに赤い丸が3つ。

 親父が訪ねた蔵の場所を記したものだろうか。

 不恰好な地図だが、おそらく兵庫、広島、山口のあたりだ。

 兵庫は、今まさに自分がいる場所だけど、大雑把に丸がついているせいで、細かい場所までは分からない。丸のそばには走り書きの文字もあったが、崩した字体で読めそうにない。

 こういうマメなことをするなら、字くらい綺麗に書いてほしい。

 親父が残した小さな秘密が、こっそり呼びかけている気がした。

 妙な予感がして、手帳が置かれていた棚の奥に目が向ける。するとそこには見覚えのない日本酒の瓶が一本、隠されたみたいに置かれていた。

 埃ひとつかぶっていない、真新しい瓶だった。

 私はそれを手に取る。ずしりとした重みが、指先に伝わる。ラベルには、ただ漢字一文字。


『拍』


 どういう意味だろうか。

 拍手、脈拍、拍子……。

 思いつくのは、それくらいだった。考えても答えは出ないのに、視線だけがその文字から離れなかった。

 瓶は細身で、余計な装飾がない。一般的な一升瓶よりも少し背が低く、黒光りのガラスは重厚感がある。まだ未開封らしい。光が鈍く反射する。はっきりした色を見せない。

 ラベルも黒地で、質のいい和紙のようだった。そして中央に大きく、墨で書いたような漢字一文字『拍』。勢いが感じられるが、バランスもいい。すべて黒いのに、文字が浮き上がって見える。

 手に持って瓶を傾けると、ラベルの黒文字が艶を帯びて光を反射した。

 銘柄や蔵元、度数を示す文字は見当たらない。注意書きひとつない。

 私は気になって、その瓶を胸に抱える。脚立をきしませながら、一段ずつ慎重に降りた。

 カウンターの上に置くと、お店の照明に照らされる。

 黒い瓶からは、どこか重厚感と魅惑的な色気がにじみ出ている。

 見るだけで背筋が伸びるような存在感があって、同時に吸い込まれそうな秘密めいた空気もまとっている。

 目を奪われる。そんな不思議な魅力があった。

 しかし手帳をめくっても、どこにも『拍』のことが書かれていない。スマホを取り出して調べてみたが、やはり出てこなかった。

 今時インターネットに情報が載ってないことなんてあるだろうか。

 もしかしてもう生産終了した?

 いや、それにしてはラベルが綺麗すぎる。

 手帳の最後のページに記された赤点がついた酒蔵のどれかなのだろうか。そうだとしたらお手上げだ。

 私は追求を諦めて、『拍』に惹かれる目を無理やりそらすと、掃除を再開した。

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