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ととと  作者: 紺野 睡蓮
1/6

Prologue

 親父が店で倒れていると電話で告げられたとき、私はちょうどその真上の部屋にいた。

 心臓が波打って、ベッドで寝転がっていた私の身体を揺らす。

 電話の向こうにいるのは、親父の居酒屋に20年以上通っている常連の新垣さんだった。普段は軽口ばかり叩いているが、こんな洒落にならないことを言う人じゃない。第一、その声は鬼気迫っていた。

 私は今朝の親父の様子を思い返す。

 ミキサーのノブを回したみたいに、周囲の音がスゥと遠ざかった。

 親父は朝から、居酒屋の買い出しに行く。こだわりが強く、配達には頼らない。自分で市場に行き、目利きをして仕入れるのが決まりだった。

 私はその時間、まだ寝ていることが多くて、家を出るところを見ることはほとんどない。気配と音で感じ取るだけだ。

 今日も、いつも通りの時間に出ていったはずだ。

 昼前には帰ってきて、すぐに仕込みが始まる。

 2階にいると、それが耳に届くことはほとんどない。ただ、ときおり魚を捌くときに骨に当たる硬い音や、フライパンを扱う金属音だけは、かすかに聞こえてくることはあった。

 常に意識を向けているから、今日も聞こえてきたかは覚えていない。

 そもそも、いつから倒れていたのだろう。

 もしかして、昼からずっと……。

 やっとスマホ越しに耳へと入ってきた新垣さんの声は、喉がきゅっと締まったみたいに上擦っていて、言葉を選ぶ余裕もない様子だった。

 それと同時に遠くから救急車のサイレンが迫ってきた。

 どんどんと近づいてくるその音は、私の頭の中を支配して、パンク寸前になった。

 頭の整理がつかないまま、鈍い動きでサンダルを履き、スウェット姿のまま外階段へと向かった。外は夕暮れで、センサーライトが光る。

 慌てたら、その瞬間に現実を認めてしまう気がして、一段ずつ確かめるように階段を降りる。

 それでも踏み外してしまいそうなほど、手足が震えていた。

 目の前で救急車が滑り込むように、家の前に停まった。水色の制服を着た救急隊員が3人降りてきて、テキパキとした動作でお店の中に入っていく。

 中を覗き込むのが怖かった。

 ふと視線を逸らすと、救急車の音を聞きつけて、外に出てきた近所の人たちと目が合った。

 扉の前で立ちすくんでいるのも目立つ。結局身の置き場が無くなって、私は追い込まれるように中を覗き込んだ。

 開店前で、四角い椅子がカウンターの上に逆さに並べられている。その向かい側には座敷の席。

 店内は薄暗く、まだ電気はつけられていない。

 ワンフロアの店内は人ひとり通れるほどの幅しかなく、壁には色あせた短冊メニューがいくつも貼られている。

 その奥の方で、親父が床に横たわっていた。身体が動いている様子はなくて、人形みたいだった。

 その周りを新垣さんと救急隊員が囲んでいる。

 私が想像していた救急の現場と違って、救急隊員は驚くほど静かだった。

 2人がしゃがみ込んでいて、親父の体を確認していたが、手つきにも焦りがなかった。

 もう1人は携帯で、低い声で誰かと連絡を取り合っている。

 外にある救急車の赤いランプが、お店の中を淡く照らしていた。

 手遅れなのだと、素人の私にもすぐにわかった。

 はっと飲み込んだ息は、腐ったヨーグルトみたいな気持ち悪さがあった。

 やはり昼からずっと倒れていたのだろうか。その間ずっと、私は何も知らずに部屋にいたのだろうか。胸の奥で何かが砕けるような、心臓を握りつぶされるような痛みが走る。

「香穂ちゃん、ごめんね」

 顔を上げると、そこには新垣さんがいた。

 何に対して謝っているのか、どう返せばいいのか、わからなくて言葉が喉に詰まった。

「俺が店に着いたら、もう倒れていたんだ」

 親父と同じくらいの歳のはずなのに、新垣さんの顔には、いつも以上に皺が刻まれているように見えた。

 いつもは大口を開けて、ゲラゲラと笑う人なのに、今は声が震えていて、狼狽した様子だ。

「開店してすぐ来たんだけど、もう冷たくなってて、もうどうすることもできなかった」

「いえ、救急車を呼んでくれたんですよね」

 他にも何か言うべきだったんだろうけれど、何も思い浮かばなかった。

 親父の様子を確かめるのも怖くて、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

 やがて救急隊員のひとりが親父の名前を確認し、もうひとりが時刻を告げた。

 私は何度か呼ばれて質問に答えた気がするが、ちゃんと返事できていたかは分からない。

 親父の体は担架に乗せられ、運ばれた病院で正式に死亡の確認を受けた。担当の医師は落ち着いた口調で、死因と時刻を説明した。

 突然の心臓発作だったらしい。持病とか健康診断とか、答えられないことがほとんどだった。

 医者は誰にでも起こることだと言っていたが、そう簡単には飲み込めなかった。

 私はその説明を、他人事のように聞いていた。まだ頭の中では救急車の音が反響していた。


 そのあとのことは、断片的にしか覚えていない。

 葬儀社が来て、葬儀の日取りを決め、必要なものを選んだ。棺の種類やコースのランクを聞かれて、そのたびに「普通のでいいです」と答えるだけだった。何が普通なのかは分からなかったが、考える気力もなかった。気持ちが追いつかないまま、親父は遺影に収まっていた。

 普通の葬儀とやらは、淡々と進行した。

 親父の知り合いは多かったが、家族席に座っているのは私ひとりだった。

 新垣さんをはじめ、お店で見かけたことがあるお客さんたちが焼香の列を作り、私に頭を下げて帰っていった。

 その度に私は自分がここに一人で座っていることを確かめるように視線を落とした。

 母は私が中学にあがる頃には亡くなっていて、祖父母も写真でしかみたことがない。

 両親は共に一人っ子で、すぐに思いつくような親戚もいない。もう成人を迎えていて、誰かに引き取られるような歳ではない。

 ただ頼れるものがないってことが、じわじわと胸に重くのしかかってくる。

「お疲れさま」とか「お世話になりました」といった言葉が耳に入るが、どこか教室の隅から聞こえてくる話し声のように遠くて薄い。

 会場に残った線香の匂いが消えていくにつれて、葬儀は静かに終わっていった。

 静まり返った部屋の空気が、急に「お前は1人だ」と突きつけてくるようだった。

 周りのパイプ椅子が次々と片付けられていくのを眺めながら、私はまだここに居残っていたい気分だった。


 だけど現実は待ってはくれなかった。

 親父がいなくなったことで、やらなきゃいけないことが、容赦なく現実として押し寄せてきた。

 役所の窓口で名前を呼ばれるたびに、私は立ち上がり、説明を聞き、わけが分からないまま手続きする書類にペンを走らせた。「ご家族の方でよろしいですか」と何度も確認され、そのたびに「娘です」と答えた。返事は、ワンテンポ遅れた。

 いつも親父の居酒屋にくるお客さんに娘と名乗り慣れているのに、どうしてもしっくりこなかった。

 郵便ポストには、次から次に銀行やら郵便局から封筒が届いていた。

 親父がいなくなったという事実は、こうして少しずつ、形のある手続きに置き換えられていった。

 ただ流されるままに手続きをする。普段なら活字に目を通すのも億劫だ。だけど1人で考え込む時間が減って、少しありがたかった。


 気がつくと、私は2階の自室で、仰向けになったまま天井を見つめていた。

 木目の位置も、照明の形も、前から何一つ変わっていないはずなのに、どこかよそよそしく見える。

 今が何曜日なのか、よく分からない。何時なのかも曖昧で、カーテンの隙間から入るオレンジ色の光だけが、時間が進んでいることを教えていた。

 目まぐるしく、いろいろなことがありすぎた。葬式も、手続きも、人の声も。

 今はすべて遠くに押し流されて、終わったという感覚だけが残っている。

 それなのに気が休まらないのは、なぜだろうか。

 視線を横にずらすと、タンスの引き出しが開いたままになっていた。書類の提出に必要な身分証や証明書を探すため、普段は開けない場所まで手をつけた跡だ。

 そのタンスには、親父からもらったアコギが寄りかかっている。

 擦り切れたヘッド、指板の小さなへこみ、へこたれたピック。大学を中退してから、手入れをちゃんとしていないから、弦も少し緩んでいる。

 それでも気晴らしに弾き鳴らし、曲を作ることだけは続けてきた。音にしてしまえば、大学のこととか、将来のことをかき消して塗り潰した。

 私はゆっくりと息を吐き、ギターに手を伸ばしかけて、やめた。

 今は、その気力すら湧いてこない。

 私は力なく手を下ろし、床の板目をなぞった。

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