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ととと  作者: 紺野 睡蓮
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10/20

9話 試飲

「それではここからは試飲をしていただけます」

 徳本さんが軽く頭を下げて告げると、ツアー参加者たちの肩の力がふっと抜けたの分かった。

 徳本さんが指し示したのはバーカウンターを模したチェスト。その上には酒瓶が規則正しく並び、光を受けてラベルがほんのりと艶めいている。

 瓶の手前には小さなカードが差してあり、手書き風の活字で簡潔な説明が添えられていた。

 甘口、辛口、吟醸、純米、古酒といった言葉が並ぶ。滝鷺酒造で製造している日本酒たちだ。

 参加者の視線がカードから瓶へと行き来する。種類は思った以上に多く、みんながどれを選べばいいか迷っているようだ。

 さらには常温だけでなく冷えたもの、温めたものまで選べるようになっていたようだ。

 徳本さんはそんな様子を穏やかに見守りながら、必要に応じて瓶の特徴を教えるために、ツアーの参加者に話しかけている。


 私たちも受付の女性から、小さなお猪口を2つ渡された。白地に黒色で滝鷲酒造と記されている。

 それから1人2種類まで試飲できると説明された。

「2つだけか。悩むな」

 遥花が並べられた瓶を眺めながら唸る。

 私もしばらくカウンターの前を、何度も行き来しながら見比べる。

 けれどここまで説明を聞いておいて、『滝霞』を選ばないわけにはいかない気がする。

 私は瓶を手に取ると、ゆっくりとお猪口に注いでいく。透明に透き通った『滝霞』は、白いお猪口に入れると水のように透き通っていた。そのからは芳醇な日本酒の香りが漂ってくる。

「もう1つは……」

 この酒蔵で少量しか造っていないという限定酒を選ぶ。説明書きには純米酒で甘口と書かれていた。

 まだ舌がお酒に慣れていないから、甘口の方が呑みやすそうだ。

 慎重にお猪口に注ぎ、テーブルへと向かう。

 2人も同じ組み合わせを選んでいた。

「やっぱこれになりますよね」

 凛が笑う。

 結局、見学の説明を聞いたあとでは、同じ酒を選んでしまう。なんだかんだで、みんな考えることは同じらしい。

 その中で、遥花だけがぬる燗を頼んでいた。

 ぬる燗はだいたい40度くらい。人肌よりも少し温かい。親父の店でも、説明書きに書かれていた気がする。

「ぬる燗? どうして?」

 私は少し意外に思って聞き返した。

「なんかこっちの方が好きなんだよな。味がまろやかになる」

「ふうん。なんでそうなるの?」

「そこまでは知らない」

 なぜか自信満々に言い切った返事の仕方に、私は思わず笑ってしまった。


 すると近くを巡回していた徳本さんが、ふっと近寄ってくる。

「日本酒は、温度によってかなり味の印象が変わるんですよ」

 そう言って、試飲用の瓶を手に取ると、スタッフに声をかけて、何かを耳打ちした。

 それから私たちの方に向き直る。

「そのまま常温状態だと、その日本酒本来の香りや味わいが繊細に伝わり、爽やかな口当たりになります」

 ツアーの時と同じように、穏やかな口調で、一つずつ言葉を置くように説明してくれる。

「逆に人肌程度に温めると、香りの成分が揮発しやすくなります。そうすると、旨みや甘みが先に感じられて、味わいが豊かでふくらみが感じられる。だからまろやかと表現されることが多いんです」

「へえ……」

 私はお猪口を見下ろした。

「つまり私が正しかったってことでしょ」

 遥花はさも自分が説明したみたいに得意げな顔をする。

 私も今の説明でかなり気になってきた。このあとショップで絶対に買ってしまうだろう。

 

「それから、これ」

 徳本さんがスタッフから小さなお猪口が3つ並んだお盆を受け取り、そっと私たちの前に置くと、陶器の縁から白い湯気がふわりと立ち上った。

 湯気はゆっくりと空気を撫で、鼻先に日本酒特有の鼻腔を突くような香りがふっと届く。

「『滝霞』を50度くらいに温めた熱燗です。飲んだことはありますか?」

 徳本さんは穏やかな声で問いかけ、目を細めてこちらの反応を待つ。

 私たちは皆、首を横に振った。

「ぜひ飲んでみてください」

「え、いいんですか?」と私が驚き混じりに声を上げると、徳本さんは「ええ、ぜひ」と言ってにっこりと頷いた。

「これはまた別の顔を見せます。味わいがシャープになって、切れ味の良い辛口になります。旨みはもちろん、ほろ苦さのようなものが出てくるんです」

 遥花はお猪口を手に取り、温かさと香りを確かめるように顔を近づけた。


 遥花はゆっくりとお猪口に口をつけた。

 唇が触れた瞬間、温度と香りが一気に広がり、彼女はすっと顔を上げて眉を上げた。

「ほんとだ。キュッと苦味がくる」

 その言葉は呟くように、しかしはっきりとした驚きと発見を含んでいた。その表情はどこか晴れやかで、苦味を単なる味として受け取っているわけではないことが伝わってくる。

「これ好きかも。イメージしていた日本酒って感じ」

 遥花の声には納得と喜びが混ざっていた。

 私もお猪口を手に取り、そっと口をつける。

 熱で開いた香りが、先にふわりと鼻へ抜けた。そのあとから、少し癖のある苦味と、強めの旨みが舌に広がっていく。

 これが、熱燗で表に出てくる味なのか。

「たしかに味が違う。でも、ちょっと強いかも」

 思わずそんな感想が漏れる。この香りには覚えがあった。親父の居酒屋で、何度も嗅いできた匂いだ。湯気の立つ徳利。カウンター越しに漂う、少し鼻に抜けるような酒の香り。

 思えばお店で提供されていた日本酒は、熱燗が多かった気がする。

 温度ひとつとってもここまで印象が変わるなんて。お酒歴二日目の私には、まだ少し刺激が強すぎた。

 大人になったらこの味の良さがわかるのだろうか。

 凛も最後のお猪口を手に取り口をつけて、時間差でわずかに眉を寄せる。

「……思ったより、しっかりしていますね」

 言い方は柔らかいけれど、たぶん意味は私とほとんど同じだ。

「飲み慣れてないと、ちょっとびっくりするかもしれません」

 そう言って、凛は小さく息を吐いた。


「日本酒を温めて飲む燗の歴史は古いんです。記録があるところでいえば、奈良時代にまで遡ると言われています」

 徳本さんは、湯気の立つ徳利へ目を向けながら静かに語る。

「逆に、冷やして飲む文化が広まったのは近代に入ってからです。冷蔵技術が発達して、ようやく一般的になりました」

 そこまで言ってから、徳本さんはキュッと口元を締めた。

「つまり、熱燗こそが日本酒本来の姿。私はそう考えています」

 穏やかな口調なのに、その声には確かな自信と誇りが滲んでいた。長い時間を酒に注いできた人間だけが持つ重みのようなものがある。

 それから徳本さんは、試飲用の瓶へそっと手を添える。

「私たちの造る『滝霞』は、熱で正体を現します」

 その言い回しは妙に芝居がかっているのに、不思議と表面的には聞こえなかった。

 ただ味が変わる、というだけではない響きがある。

 それを感じ取ったのか、遥花がわずかに眉をひそめる。

「……正体?」

 どこか慎重に探るような響きだった。

「ええ。熱を加えると感じられる苦味や渋味が日本酒の正体。それを受け止めてなお美味いと思えるかどうか。そこに酒の本質があると、私は考えています」

 徳本さんは、指先でお猪口をゆっくり回した。

「酒は綺麗に飾られた花じゃありません。米と水、それから人の手が積み重なってできたものです」

 そして首を振って蔵全体をを見渡す。

「大事なのは、苦味を消そうとすることじゃなくて、それをどう旨さに変えるか。良い部分だけでなく、着飾ることも美化することもなく」

 その言葉は抽象的なのに、不思議と感覚として理解できた。

 さっき飲んだ熱燗の味を思い出す。柔らかいだけじゃない。苦味も、重さも、アルコールの刺激も、そのまま舌へ出てきていた。

 けれど、それを不味いとは感じなかった。むしろ、そこに何か輪郭のようなものがあった気がする。

 私が頭を悩ませていると、徳本さんは、ふっと目を細めた。

「不器用で、泥臭く見えるかもしれません。ですが、だからこそ、日本酒は愛されるのだと思っています。案外、人も同じなのかもしれませんね」

 その瞬間、さっき飲んだ熱燗の味が、もう一度舌の奥によみがえった気がした。

 苦い。けれど、それだけじゃない。熱があるからこそ、包み込むような輪郭が生まれる。

 遥花は、お猪口を片手にしたまま、じっと湯気を眺めている。

 普段なら軽口を叩いてくれるのに。その表情は静かだったけれど、何かを考え込むように、わずかに揺れて見えた。

 たまに見せる彼女のそうした表情を見て、声をかけることができなかった。

 周囲のざわめきが遠くなるように、私たちの間に小さな静寂が生まれていた。


 そんな空気の中、徳本さんが再び部屋の正面へ戻る。

 ツアー参加者たちの試飲もひと通り終わり、試飲コーナーにはゆるやかなざわめきが戻っていたころだった。

 感想を話し合う声。購入するお酒の相談。小さなお猪口が触れ合う、乾いた音。

 徳本さんに注目が集まり、それらが小さくなっていく。

 徳本さんは一度だけ周囲を見渡し、それから少し言葉を選ぶように間を置いて、静かに口を開いた。

「酒造りというのは、あまり派手な仕事ではありません」

 その声は、さっきまでの説明よりもずっと穏やかだった。

「地味な仕事ばかりだというのに、大変で繊細です」

 誰も急かさず、誰も口を挟まない。

「上手くいったからといって、次も上手くいくとは限らない。逆に、失敗したからといって、そこで終わるわけでもない」

 徳本さんは小さく笑う。

「結局は、毎日やめずに続ける。滝鷺酒造がここまで来れたのは、それだけなんですよ」

 誰かに尋ねられたわけではない。

 それでも、その言葉は独り言みたいに自然に続いていった。

 長い時間をかけて、何度も同じことを繰り返してきた人間だからこそ出てくる言葉なのだと思った。

「そんな中で、今日こうして皆様に酒を振る舞えたことを、嬉しく思います」

 徳本さんは、参加者たちをゆっくり見渡した。

 そして最後に、深くではなく、「本日は、ありがとうございました」と頭を下げて、ツアーは終了した。

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