10話 晩酌
遥花が予約してくれたビジネスホテルは、滝鷺酒蔵から歩いて10分もかからない場所にあった。
大通り沿いに建っていて、神戸という土地柄なのか、周囲にも似たようなホテルがいくつも並んでいる。
日が沈み始め、街には少しずつ灯りが増え始めていた。行き交う人々はキャリーケースを引っ張る観光客もちらほらいるが、仕事帰りのスーツ姿の人たちも多い。
ホテルの自動ドアを抜けると、冷房の効いた乾いた空気が肌を撫でた。
フロントは明るく、床はふかふかとした絨毯が敷き詰められている。あまりホテルに泊まったことがないから、やけにソワソワしてしまう。
ふと視線を逸らした先の壁際には、観光パンフレットや周辺地図が置かれていた。
予約をした遥花がフロントでチェックインを済ませると、カードキーを2枚受け取った。
「はい。管理係よろしく」
そう言って、片方を私に、もう片方を凛へ半ば押しつけるように渡してくる。
「いや、予約して受付した本人が持たないの?」
思わず聞き返すと、遥花は悪びれもなく笑った。
「うん。私、失くしそうだから」
「まぁ……別にいいけど」
普通こういうのは、受付した本人が持つものじゃないのかという気もする。
けれど、遥花なら本当にどこかへ置き忘れそうで、強く反論できなかった。
高校時代はピックを使い捨てかのように失くしていたし、命とも言えるベース本体を失くしたこともある。
凛も「確かに遥花さんですしね」と小さく頷いている。
ひどい言われようなのに、遥花は「信頼されてるな」となぜか満足そうだった。
そのまま3人でエレベーターへ乗る。
鏡に疲れた表情の私が映っていた。酒蔵を歩き回ったせいか、足にじわりと重さが残っている。こんなに歩いたのは久しぶりだ。
部屋のある7階で降りると、エレベーターの正面の部屋だった。私がカードキーを使って扉を開ける。
部屋の中は想像していたより広かった。
白いシーツがきっちり整えられたベッド。壁際には小さな台がガラス張りの机と籐の椅子。
壁に立て付けられたテレビ。それにユニットバス。
決して特別な部屋ではない。その簡素さが妙に落ち着いた。
私は荷物を床へ置いて、そのまま窓際へ近づく。
カーテンを開けると、神戸の街並みが広がっていた。整った道路を、車のライトがゆっくり流れていく。
少し遠くには、高い建物の灯りも見える。
知らない街のはずなのに、なぜかずっと眺めていられる気がした。
「3人部屋ですけど、ベッドが2つしかないですね」
後から入ってきた凛が困惑するようにいう。
他のものに目移りして気付かなかったけれど、たしかに並んでいるのはシングルベッドが2つだけだ。
「たぶん、あれがあるはずだ。えーと……」
遥花は鼻歌混じりに、ベッドの下を覗き込む。
すると簡易式のエキストラベッドが押し込まれていた。
「やっぱりな」
取っ手を引いて手前へ滑らせると、タイヤが床に擦れる音とエキストラベッドが姿を現す。
掛け布団や枕まできちんと用意されていた。
「これで三人が寝るわけですね」
凛が、並んだベッドを見比べながら小さく呟く。
シングルベッドが2つ。
そして、その間にエキストラベッド。少し狭いけれど、一晩くらいならなんの問題もない。
「じゃあ、私がここで寝るよ」
私はそう言って、軽くエクストラベッドを叩く。
今回の旅は、私に付き合ってもらっているようなものだ。せめて寝る場所くらいは譲るべきだろう。
それに普通のベッドより、こういうエキストラベッドの方が少しだけわくわくする。
余った場所の方が特別に感じるのは、子どものころから変わっていない。
すると、遥花が「えー」と声を漏らす。
「いや、私もそこ寝たいし」
「なんで?」
「なんか秘密基地感あるだろ」
私よりも子どもじみた理由だった。
そのやり取りを見ていた凛まで、少し遠慮がちに手を上げる。
「……それなら私もそこで寝たいです」
「凛まで!?」
結局、三人とも譲らなくなってしまった。
「じゃんけんするか」
ベッド一つを巡って、ホテルの一室で真剣にじゃんけんを始める成人女性3人。
冷静に考えると、かなり間抜けな光景だった。
「最初はグー!」
狭い部屋に声が響く。
そして数回の勝負の末、最後に立っていたのは私だった。
「よしっ!」
思わず小さくガッツポーズをすると、遥花がシングルベッドの方へ倒れ込む。
「くそー、負けた……」
ようやく各々の定位置が決まり、荷物を広げて一息つく。キャリーケースを開く音。コンビニ袋の擦れる音。
狭い部屋の中に、私たちの生活感みたいなものが少しずつ広がっていく。
明日用の着替えを鞄の上に置いて、ベッドへ腰を下ろした。昨日から今日まであっという間だった。それまでの数日が放心状態だったのもあって、恐ろしいほど濃密だ。
「これからどうする?」
ベッドへ寝転がったまま、遥花が天井を見上げて聞いた。
壁の時計を見ると、まだ19時前だった。
少し酒も入っている。けれど、寝るにはまだ早すぎる時間だ。
「素泊まりだから飯は出ないし、どっか食べに行くか?」
「あー……それもいいけど」
私は机の上へ視線を向ける。
そこには滝鷺酒造の紙袋が置かれていた。
「せっかくだし、買ったお酒飲まない?」
袋の中の瓶を覗くと、瓶が10本も敷き詰められている。
「いっぱい買ったからなあ」
試飲のあと、私たちはミュージアムショップで、大量に日本酒を購入した。
定番商品はもちろん、限定品や季節がらの日本酒も手に取っていき、気づけばカゴひとつでは足りなくなっていた。
自分で呆れてしまうが、後悔はない。どれから呑もうか迷ってしまう。
私は部屋の備え付けのコップを探し始めた。
棚の中にあった小さな冷蔵庫の上に、ガラスのコップが2つ。どこにでもありそうな、簡素な円筒型のものだ。
「……これしかない」
私は思わず呟いた。
一応、洗面台には歯磨き用らしい半透明のプラスチックカップが2つ置かれていたが、さすがにあれで日本酒を飲むのは少し味気ない。
「やっぱり3人で泊まるのは想定されてないよね。このホテル」
「まぁ、回し飲みでもいいけど」
遥花がそう言いかけた瞬間、凛がぱっとこちらを振り返る。
「私、フロントまで貰いに行ってきますよ」
「え?」
返事をするより先に、凛はカードキーを持って部屋を出ていってしまった。
閉まったドアの音だけが、小さく部屋へ残る。
「早いな……」
遥花が感心したように呟く。
「昔から気がきくよね」
私は笑いながら、買った酒瓶をテーブルへ並べていく。
凛が帰ってくるまでにできる準備といえば、これくらいだ。
狭い丸テーブルの上に、一本、また一本と瓶が増えていくたび、部屋の空気まで少し賑やかになっていく気がした。
親父の居酒屋を思い出す。
ラベルを見ているだけでもう楽しい。親父もこんな感覚で、あの店を切り盛りしていたのだろうか。
その奥の窓からは、夜の神戸の灯りが静かに瞬いている。
まるで酒瓶たちを演出しているみたいだ。
すると遥花が立ち上がり、落ち着きなく部屋の中をうろうろしながら、何かを探し始める。
「どうしたの?」
「部屋にさ、熱燗にする道具とかないよなぁ」
「それは絶対ないでしょ」
思わず即答してしまう。
ベッドもコップが2つしか置いてない部屋だ。徳利や燗器なんて置いてあったら、驚きより怖さが勝ってしまう。
遥花はデスク脇には小さな電気ケトルを手に取って少し思い悩むように動きを止める。
「これは無理だよね」
「やめなって」
「まぁ、そうだよな」
遥花は名残惜しそうにケトルを戻す。
結局何も収穫がないまま、遥花は向かい側の椅子に腰を下ろした。
「熱燗、そんなに気に入ったんだ?」
私が笑いながら聞く。遥花は瓶を指先で軽く叩いて、肩をすくめた。
「まぁね」
それだけ言って、遠慮気味に笑う。
「私は常温とか冷えてたほうが好きかもな」
私はそう言いながら、徳本さんの話とともに、熱燗を飲んでいたときの遥花の顔を思い出す。
こめかみのあたりに力が入っていて、真剣な表情で味わっていた。ただ芳醇な苦味だけじゃない何かを感じとっていたのだろう。
「大人の味なのかな?」
私が聞くと、遥花は少しだけ目を細めた。
「好みの問題でしょ。徳本さんもそう言ってたよ」
好みか。
そうなのかもしれない。
お酒を昨日飲み始めた私にとっては、上級者向けだったかもしれない。
だけど好みという言葉には、表現しきれていない何かが隠れているような気がした。
「私さ」
ふいに口に出た。話し始めたというよりは、言葉がこぼれたというほうが正しい。
「徳本さんの毎日継続するっていう最後の話、結構食らっちゃったんだよね」
遥花が目を大きく見開いて、視線を向けてくる。
部屋の空調音が静かに響く。
遥花はただこちらの話を聞いていた。その沈黙が気まずいわけではなくて、ちゃんと受け止められている感じがした。
「私は途中でいろいろとやめちゃったから」
そう口にすると、自分で思っていたより情けない響きだった。
私は背もたれへ体を預けると、ホテルの古い椅子が、ぎぃ、と小さく軋んだ。
大学も。
音楽も。
夢って呼べるほど立派なものだったかは分からない。それでも、少なくとも続けることから逃げたのは事実だった。
「だから、なんか色々考え込んじゃって」
私はテーブルの上に置かれた、酒瓶たちを見つめる。ひとつひとつが継続した結果の結晶だ。
「あの味が分からないのも、自分が悪いみたいな気がしてきて」
例えるならお子様ランチで満足してしまったかのようなバツの悪さだ。
すると遥花が、呆れたように息を漏らす。
「感受しなかった感性を、そのまま自己の不完全性へ還元するのは、あまり健全な思考じゃないよ。それに凛も常温のほうが呑みやすそうだったし」
真面目ほど重くもなくて、茶化すほどの軽さもない。遥花の言葉には、小難しい代わりに、ただ思ったことをそのまま置いていくような不思議な魅力があった。
私は返事の代わりに、少しだけ視線を落とす。
しばらく沈黙が空いてから、遥花は瞬きを何度か連続でして、最後には目を閉じた。
「……私も、熱燗飲んだ時に食らったよ」
その言い方は妙に静かで、儚かった。
まるで、自分の傷口を指でなぞるみたいに。
「何それ、どういうこと?」
私は意味がわからずに、訝しげに聞き返す。
「……道標を思い出したって感じだ」
「道標?」
「あぁ。苦さとか渋さとかを、無理に綺麗にしないでさ。ただ熱を持ってそのまま良いものとして受け取ってもらえるようにする」
遥花が徳本さんの話をなぞるようにする。たしかにそんな話だった。
そしてその話を聞いていた時、遥花がグッと喉元に力を入れて、押し黙っていたことを思い出す。
「私の頭の中ってさ、ずっと生きてることに疲れるみたいな感覚があるんだよ」
遥花は、ひどく自然な口調で言った。
目を見開いて、窓の外の夜景を見たまま、ぽつりと続ける。
「消えたくなるようなことも、よくある」
その声音には悲壮感も芝居っぽさもなかった。だからこそ、余計に胸へ沈んでくる。
「だから、人はなんで生きるのかとか、存在に意味はあるのかとか、そういうこと考えてる学問なら、少しくらい興味持てるかなって思った」
「それで哲学科?」
「そうだよ。ばかみたいだろ」
その笑い方はいつもの軽さとは少し違っていた。
冗談にしてしまわないと、輪郭が鋭くなりすぎるみたいな笑い方だった。
私は、一瞬息が止まる。それでも、私はすぐに首を振った。
「……ばかじゃないよ」
昔から、そういうところはあった。
好きな曲は暗いものばかりだし、作ってくれる曲も、ネガティブなイメージが先行していた。
遥花のそういう危うさを、ずっとどこかで感じていたのも事実だった。
「でも、音楽やってる時だけは、少しマシだったんだ。嫌なこととか、ぐちゃぐちゃした感情とか、全部そのまま音にしていい気がして」
そこで遥花は、小さく肩をすくめた。
「熱が、本質を浮かび上がらせるって話。あれ、前に香穂が言ってたことに近いなって思った」
「私が?」
「たぶん拡大解釈だけどな」
遥花は苦笑する。
「好きな音楽でネガティブな感情を吐き出せば、同じような奴に届くこともあるって。前に言ってただろ」
その言葉に、記憶がゆっくり引っ張り上げられる。
薄暗いスタジオ。練習終わりの帰り道。
たぶん、何気なく話しただけの言葉だ。
「……そうだったかも」
自分では、もう半分忘れていた。
けれど遥花は、小さく頷く。
「それが私の熱で、そのままの姿だったんだ」
そう言った後、遥花はゆっくりこちらへ向き直った。
まっすぐ目が合う。まるで肖像画みたいな、少しの逃げ場のない視線だった。
「なぁ」
少しだけ低い声で、遥花が言う。
「なんで『波跡』を解散したの?」
「それはお互い進路が決まってからでしょ」
私はできるだけ軽く言った。
「遥花は京大行くし、凛は音大だし」
一応、私も2人の背中を追うように、大学に行く予定だった。
現実的に考えれば、自然な流れだったと思う。卒業して、それぞれ別の場所へ進む。ただ、それだけの話だ。
「まぁね」
遥花は頷いた。けれど、その返事はどこか歯切れが悪い。
私は視線を逸らすように、酒瓶のラベルを見つめる。
「……それに、大学辞めてからは、なんか会うの後ろめたかったし」
口にすると、思っていたよりあっさり出てきた。
置いていかれた、みたいな感覚。勝手に距離を感じていたのは、たぶん私の方だ。
遥花は少し黙ってから、静かに言う。
「別に、関係なく集まったよ」
その言葉に、私はうまく返せなかった。
遥花の顔を見ることができなくて、曖昧に笑おうとした、その時、部屋のドアが開く音がした。
「すみません、少し時間かかりました」
凛が両手いっぱいにコップやアメニティを抱えて戻ってくる。
追加のグラス、歯ブラシや櫛なんかまで持っていた。
「めっちゃ持って帰ってきたね」
遥花が吹き出す。
「フロントの方が、こちらもどうぞって」
凛は少し困ったように笑いながら、テーブルへそれを並べ始めた。
確認していないが、おそらく全部2つずつしかなかったのだろう。ぜんぶ持ってきてもらって助かった。
張り詰めかけていた空気が、そこで少しだけ緩む。
「何の話をしていたんですか?」
戻ってきた凛が、追加のコップをテーブルへ並べながら尋ねる。
「香穂が、なんでバンド解散したのか詰めてた」
遥花が、私の代わりに答えた。
「あぁ、なるほど」
「納得するの早いな」
私は思わず眉をひそめる。
凛は小さく笑いながら、持ってきたグラスを私の前へ置いた。
「だって、驚いたんですから」
「ちゃんとやりたいこと決まってる二人を、引き留める理由なんてないなって思ってたから」
「真面目だなぁ」
「悪かったね」
すると凛がホッとしたように微笑んだ。
「でも、よかったです」
「……何が?」
「まだ、やりたいと思ってたんですね」
その言葉に、私は少しだけ黙る。
テーブルの上には、新品の酒瓶たち。窓の外には、知らない街の夜景。
そんな非日常で、自分の胸の内にあったことに気づかなかった言葉を人から聞くと、妙に夢のような感覚があった。
「なんか、音楽やりたくなってきた。この辺に貸しスタジオないかな」
「あると思いますよ。神戸ですし」
凛はそう言うと、すぐにスマホを取り出した。
相変わらず行動するのが早い。
画面を操作しながら、「駅前ならいくつかありそうですね」と小さく呟いている。
「マジか」
私は呆れたように返す。だけどその一方で胸の奥が、少しだけ浮き立っている自分もいた。
音を合わせる感覚。震える空気。そして、音。
しばらく触れていなかったはずなのに、不思議と身体が呼び起こしてきた。
「今から行く?」
遥花が軽い調子で言う。
「せっかくグラスを持ってきてもらったのに?」
笑いながら返したものの、否定する気にはなれなかった。




