11話 音楽スタジオ
ホテルを出ると、夜の空気はひんやりと肌を撫でる。
わずかに残っていた酔いと眠気が覚めてくる。
私たちはパーキングに停めてあったレンタカーに戻り、トランクに入っている楽器たちを取り出す。持ってきた時点でこうなることは想定していたが、まさかの初日から登場だ。
酒を飲んだ今は車を出せない。
私たちは楽器を持ったまま、凛が見つけた貸しスタジオへ徒歩で向かうことになった。
夜の神戸は、昼間より少し静かだった。
飲食店の灯り。幹線道路を走る車の音。
「なんかさ、こういうの久しぶりだね」
ベースケースを背負った遥花が、前を歩きながら言う。
「部活以来だからね」
門限ぎりぎりまで部室に籠もって。それから親父の店へ向かう道中も、たしかこんな空気だった気がする。
「……少し、緊張しています。でも」
凛が言葉を切ってから、続ける。
「楽しみです」
キーボードのケースを抱え直しながら小さく笑う。
「あぁ、今夜は誰にも止められない」
遥花はそう言って、ニヤリと口角を上げた。
貸しスタジオは、駅前のビル街の一角にあった。
人通りは多く、居酒屋の呼び込みの声や、どこかの店から漏れる笑い声が絶えず聞こえてくる。
ネオンの光が濡れたアスファルトへ滲み、細い路地の奥まで街の熱気が残っていた。
入口脇の看板には、かろうじてスタジオ名が読めた。何度も張り替えられた跡があり、端の方は剥がれている。
「こういう感じ、逆に安心するな」
たしかに、妙に綺麗すぎるスタジオより、こういう場所の方がテンションがあがる。
私たちは楽器を抱えたまま、地下へ続く細い階段を下りていく。コンクリートの壁は少し湿っていて、空気も地上よりひんやりしていた。
下へ降りるにつれて、かすかにドラムの低音が響いてくる。それから誰かがチューニングしているような断片的なフレーズ。
私はその音を吸い込んで、小さく息を吐く。あぁ、スタジオだ。
そう思った瞬間、身体の奥で何かが静かに目を覚ます気がした。
受付を済ませ、指定された部屋に入る。
重たい防音扉が閉まると、外の世界が一気に遮断された。
誰に言われるでもなく、3人とも黙々と準備を始める。
遥花は壁際からベースを取り出し、アンプにつなぐ。凛はケースを開いて、キーボードを慎重に設置する。
私もアコースティックギターを抱えた。各々のチューニングの音が、ぽつ、ぽつ、と部屋に落ちる。
久しぶりで、指の感覚は少し鈍い。弦を押さえる力加減も、指の距離感も、どこかおぼつかない。
少し動かしただけで、指先が妙にぎこちなく感じる。
「……こんな難しかったっけ」
思わず苦笑が漏れた。
フリーターになってからも毎日ギターには触っていたけれど、ちゃんと弾こうと意識した瞬間、途端に感覚が遠くなる。
やっぱり、何となく音を鳴らすのと、真剣に演奏するのとでは全然違う。
スタジオの静かな空気の中、凛は鍵盤へそっと手を置いたまま、深く息を吸った。
「ゆっくりで、大丈夫ですよ」
その声は、本当に私を落ち着かせてくれる。
「やっぱり、三人でやるのって最高だよな」
遥花が、ぽつりと低い声で言った。
まだ音は出ていない。それでも誰も否定しなかった。茶化すことも、笑うこともない。
遥花は昔から、こういうことを平気で口にする。
普通なら気恥ずかしくて飲み込んでしまうようなことを、妙にまっすぐ言葉にしてしまう。甘酸っぱいことも。くすぐったいことも。
だから時々、ずるいと思う。こっちが誤魔化そうとしていた感情まで、簡単に引っ張り出されてしまうから。
ペグへ指をかけて、慎重に回す。
耳を澄ませながら何度か開放弦を鳴らすと、少しずつ感覚が戻ってきた。
遥花もベースを肩へ掛けながら、低い音を何度か鳴らしている。
スタジオ特有の、機材の熱っぽい匂い。
アンプの微かなノイズ。誰かが音を出す前の静けさ。
その全部が懐かしかった。
震える手を押さえるように、私はぎゅっとピックを握り直した。
深く息を吸って、ぼやけそうになる視界を覚ますように、無理やり力を入れる。
何度も合わせた曲の入り。
言葉にしなくても、呼吸だけで分かっていたタイミング。
私は小さく頷いて、2人へ視線を向ける。
その目はどう映っていたのだろう。ぐっと息を呑むような表情をしたように見えた。
最初に音を鳴らしたのは凛だった。
置くように、鍵盤の上をゆっくりと指が滑る。立ち上がった音は澄んでいて、余計なものが削ぎ落とされている。
昔よりずっと輪郭がはっきりしていて、それでいて硬くない。
留学先での時間が、説明も言い訳もなく、音そのものとして伝わってくる。
私は思わず息を止めて、その流れに耳を預けた。
少し遅れて、遥花がベースを鳴らす。一拍置いて、低音が部屋の床を這うように広がった。
久しぶりのはずなのに、指運びに迷いはない。リズムも間も、身体が覚えているままだ。
私は思わず、口元が少し緩む。
そして流れに重ねるように、ギターを鳴らした。
一音目は、少しだけテンポが遅れた。二音目でようやく感覚が噛み合い、曲の流れへ身体が追いついていく。
久しぶりの感触に、右手が小さく驚いていた。
弦の硬さ。ピックが擦れる感覚。アンプ越しに返ってくる、自分の音。
全部、忘れていたはずなのに。それでも、不思議と焦りはなかった。
少しくらい音がずれても、誰も止めない。リズムが揺れても、顔をしかめる人はいない。
ただ、それぞれの音が、ちゃんと前へ進み続けていた。三つの音が、探るように重なっていく。完成形にはほど遠いのに、嫌な感じがしない。
一曲目が終わると、私はふう、と長く息を吐いた。
最後のコードの余韻が、ゆっくりスタジオへ溶けていく。ギターはまだ振動していて、私の腕も痺れていた。
「……こんな感じ、だったね」
私が小さく言うと、凛が静かに「はい」と頷いた。
遥花も、どこか満足そうに笑っている。
たった一曲なのに、少し荒くなった呼吸。熱を持った指先。そして身体の奥まで懐かしさが染み込んでくる。
すると遥花が、わざとらしく肩をすくめた。
「香穂が一番うまいんじゃない?」
からかうみたいな口調だった。
「そんなわけないでしょ」
私は思わず笑う。
一番ブランクがあるのは私だ。実際、さっきだって入りは遅れていた。
「というか、遥花めちゃくちゃ弾いてるでしょ」
ベースの動きに迷いがなかった。指も、リズムも、身体にちゃんと残っている。
遥花は「まぁな」と悪びれもなく笑う。
「なんだかんだ、やめられなかったし」
「昨日は忙しくて弾けてないって言ってましたよね?」
凛がじっとした目でそう言うと、遥花はベースを肩に掛けたまま、ゆっくりそちらを向いた。
「いや、当時に比べたら、本当に弾いてないよ」
「説得力がありません」
「厳しいなぁ」
すると今度は、遥花が凛の方を指差した。
「というか、凛がやばいだろ」
凛は珍しく少し得意げに胸を張る。
その反応がおかしくて、私は思わず吹き出した。
というか、よく考えれば全員凄い。
一年半以上も合わせていないはずなのに、3人とも当たり前みたいにオリジナル曲を弾いている。
細かいミスはある。テンポも少し揺れる。
それでも、曲のコードは誰一人忘れていなかった。
何度も何度も弾き込んだからだ。身体の奥へ沈むくらい。
青春だったんだな、と少し遅れて実感する。
すると凛が、キーボードの前へ座り直しながら言った。
「また新しい曲も作ってくださいよ」
私はピックを弄びながら、鼻で笑う。
「一応、今でも作詞作曲くらいしてるけど」
口にした瞬間、自分でも少し強気すぎたと思った。
けれど、なぜか心地よくて不思議と引っ込める気にはならなかった。
遥花が「おぉ」と面白そうに眉を上げる。
「それなら、聴いてみたいです。どんな曲なんですか?」
凛がまっすぐ聞いてくる。
「いやあ」
そこまで言って、勢いがすぼんだ。現役でバンドをやっていた頃とは違う。今作っているのは、誰かに聴かせるためというより、自分のための曲だ。
夜中に一人で書いて。録音もしないまま消して。そんな断片ばかりだった。
だから急に聴きたいと言われると、妙に気恥ずかしい。
自分で言ったくせに。
そう考えると、当時の私には相当な自信があったのだろう。
私は視線を逸らすようにギターの弦を軽く弾いた。
「……そんな大したもんじゃないって」
「いや、だめだね」
遥花は私の言葉を遮った。
「この旅の間に教えてよ」
「は?」
「その代わり、私の激重い歌詞も見せるから。一緒にまた作ろうよ」
「交換条件みたいに言うなよ」
思わず笑ってしまう。
スタジオの空気は、もう完全に高校の頃へ戻っていた。
誰かが音を鳴らせば、自然と残りの二人も続く。次は何を弾くかなんて、いちいち相談しなくても分かる。
懐かしい曲。当時の流行りでコピーした曲。
アンプの熱。音の震え。弦が指へ食い込む感覚。
全部が、少しずつ身体を目覚めさせていく。
時間なんて、あっという間だった。
気づけば扉の上で受付終了を知らせるランプが青色に光っていた。残り10分だ。
私たちは顔を見合わせる。
「やば、もうこんな時間?」
「最後、もう一回だけ合わせる?」
遥花が名残惜しそうに言った。
「店員さんに怒られますよ」
凛が返しながらも、誰もすぐには片付けようとしなかった。いつまでもこの時間が続けばいいと思った。
音が止まったあとも、まだ身体の中で続きが鳴っているみたいだった。




