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ととと  作者: 紺野 睡蓮
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12/20

11話 音楽スタジオ

 ホテルを出ると、夜の空気はひんやりと肌を撫でる。

 わずかに残っていた酔いと眠気が覚めてくる。

 私たちはパーキングに停めてあったレンタカーに戻り、トランクに入っている楽器たちを取り出す。持ってきた時点でこうなることは想定していたが、まさかの初日から登場だ。

 酒を飲んだ今は車を出せない。

 私たちは楽器を持ったまま、凛が見つけた貸しスタジオへ徒歩で向かうことになった。

 夜の神戸は、昼間より少し静かだった。

 飲食店の灯り。幹線道路を走る車の音。

「なんかさ、こういうの久しぶりだね」

 ベースケースを背負った遥花が、前を歩きながら言う。

「部活以来だからね」

 門限ぎりぎりまで部室に籠もって。それから親父の店へ向かう道中も、たしかこんな空気だった気がする。

「……少し、緊張しています。でも」

 凛が言葉を切ってから、続ける。

「楽しみです」

 キーボードのケースを抱え直しながら小さく笑う。

「あぁ、今夜は誰にも止められない」

 遥花はそう言って、ニヤリと口角を上げた。


 貸しスタジオは、駅前のビル街の一角にあった。

 人通りは多く、居酒屋の呼び込みの声や、どこかの店から漏れる笑い声が絶えず聞こえてくる。

 ネオンの光が濡れたアスファルトへ滲み、細い路地の奥まで街の熱気が残っていた。

 入口脇の看板には、かろうじてスタジオ名が読めた。何度も張り替えられた跡があり、端の方は剥がれている。

「こういう感じ、逆に安心するな」

 たしかに、妙に綺麗すぎるスタジオより、こういう場所の方がテンションがあがる。

 私たちは楽器を抱えたまま、地下へ続く細い階段を下りていく。コンクリートの壁は少し湿っていて、空気も地上よりひんやりしていた。

 下へ降りるにつれて、かすかにドラムの低音が響いてくる。それから誰かがチューニングしているような断片的なフレーズ。

 私はその音を吸い込んで、小さく息を吐く。あぁ、スタジオだ。

 そう思った瞬間、身体の奥で何かが静かに目を覚ます気がした。


 受付を済ませ、指定された部屋に入る。

 重たい防音扉が閉まると、外の世界が一気に遮断された。

 誰に言われるでもなく、3人とも黙々と準備を始める。

 遥花は壁際からベースを取り出し、アンプにつなぐ。凛はケースを開いて、キーボードを慎重に設置する。

 私もアコースティックギターを抱えた。各々のチューニングの音が、ぽつ、ぽつ、と部屋に落ちる。

 久しぶりで、指の感覚は少し鈍い。弦を押さえる力加減も、指の距離感も、どこかおぼつかない。

 少し動かしただけで、指先が妙にぎこちなく感じる。

「……こんな難しかったっけ」

 思わず苦笑が漏れた。

 フリーターになってからも毎日ギターには触っていたけれど、ちゃんと弾こうと意識した瞬間、途端に感覚が遠くなる。

 やっぱり、何となく音を鳴らすのと、真剣に演奏するのとでは全然違う。

 スタジオの静かな空気の中、凛は鍵盤へそっと手を置いたまま、深く息を吸った。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ」

 その声は、本当に私を落ち着かせてくれる。

「やっぱり、三人でやるのって最高だよな」

 遥花が、ぽつりと低い声で言った。

 まだ音は出ていない。それでも誰も否定しなかった。茶化すことも、笑うこともない。

 遥花は昔から、こういうことを平気で口にする。

 普通なら気恥ずかしくて飲み込んでしまうようなことを、妙にまっすぐ言葉にしてしまう。甘酸っぱいことも。くすぐったいことも。

 だから時々、ずるいと思う。こっちが誤魔化そうとしていた感情まで、簡単に引っ張り出されてしまうから。


 ペグへ指をかけて、慎重に回す。

 耳を澄ませながら何度か開放弦を鳴らすと、少しずつ感覚が戻ってきた。

 遥花もベースを肩へ掛けながら、低い音を何度か鳴らしている。

 スタジオ特有の、機材の熱っぽい匂い。

 アンプの微かなノイズ。誰かが音を出す前の静けさ。

 その全部が懐かしかった。

 震える手を押さえるように、私はぎゅっとピックを握り直した。

 深く息を吸って、ぼやけそうになる視界を覚ますように、無理やり力を入れる。

 何度も合わせた曲の入り。

 言葉にしなくても、呼吸だけで分かっていたタイミング。

 私は小さく頷いて、2人へ視線を向ける。

 その目はどう映っていたのだろう。ぐっと息を呑むような表情をしたように見えた。

 

 最初に音を鳴らしたのは凛だった。

 置くように、鍵盤の上をゆっくりと指が滑る。立ち上がった音は澄んでいて、余計なものが削ぎ落とされている。

 昔よりずっと輪郭がはっきりしていて、それでいて硬くない。

 留学先での時間が、説明も言い訳もなく、音そのものとして伝わってくる。

 私は思わず息を止めて、その流れに耳を預けた。

 少し遅れて、遥花がベースを鳴らす。一拍置いて、低音が部屋の床を這うように広がった。

 久しぶりのはずなのに、指運びに迷いはない。リズムも間も、身体が覚えているままだ。

 私は思わず、口元が少し緩む。

 そして流れに重ねるように、ギターを鳴らした。

 一音目は、少しだけテンポが遅れた。二音目でようやく感覚が噛み合い、曲の流れへ身体が追いついていく。

 久しぶりの感触に、右手が小さく驚いていた。

 弦の硬さ。ピックが擦れる感覚。アンプ越しに返ってくる、自分の音。

 全部、忘れていたはずなのに。それでも、不思議と焦りはなかった。

 少しくらい音がずれても、誰も止めない。リズムが揺れても、顔をしかめる人はいない。

 ただ、それぞれの音が、ちゃんと前へ進み続けていた。三つの音が、探るように重なっていく。完成形にはほど遠いのに、嫌な感じがしない。

 

 一曲目が終わると、私はふう、と長く息を吐いた。

 最後のコードの余韻が、ゆっくりスタジオへ溶けていく。ギターはまだ振動していて、私の腕も痺れていた。

「……こんな感じ、だったね」

 私が小さく言うと、凛が静かに「はい」と頷いた。

 遥花も、どこか満足そうに笑っている。

 たった一曲なのに、少し荒くなった呼吸。熱を持った指先。そして身体の奥まで懐かしさが染み込んでくる。

 すると遥花が、わざとらしく肩をすくめた。

「香穂が一番うまいんじゃない?」

 からかうみたいな口調だった。

「そんなわけないでしょ」

 私は思わず笑う。

 一番ブランクがあるのは私だ。実際、さっきだって入りは遅れていた。

「というか、遥花めちゃくちゃ弾いてるでしょ」

 ベースの動きに迷いがなかった。指も、リズムも、身体にちゃんと残っている。

 遥花は「まぁな」と悪びれもなく笑う。

「なんだかんだ、やめられなかったし」

「昨日は忙しくて弾けてないって言ってましたよね?」

 凛がじっとした目でそう言うと、遥花はベースを肩に掛けたまま、ゆっくりそちらを向いた。

「いや、当時に比べたら、本当に弾いてないよ」

「説得力がありません」

「厳しいなぁ」

 すると今度は、遥花が凛の方を指差した。

「というか、凛がやばいだろ」

 凛は珍しく少し得意げに胸を張る。

 その反応がおかしくて、私は思わず吹き出した。

 というか、よく考えれば全員凄い。

 一年半以上も合わせていないはずなのに、3人とも当たり前みたいにオリジナル曲を弾いている。

 細かいミスはある。テンポも少し揺れる。

 それでも、曲のコードは誰一人忘れていなかった。

 何度も何度も弾き込んだからだ。身体の奥へ沈むくらい。

 青春だったんだな、と少し遅れて実感する。


 すると凛が、キーボードの前へ座り直しながら言った。

「また新しい曲も作ってくださいよ」

 私はピックを弄びながら、鼻で笑う。

「一応、今でも作詞作曲くらいしてるけど」

 口にした瞬間、自分でも少し強気すぎたと思った。

 けれど、なぜか心地よくて不思議と引っ込める気にはならなかった。

 遥花が「おぉ」と面白そうに眉を上げる。

「それなら、聴いてみたいです。どんな曲なんですか?」

 凛がまっすぐ聞いてくる。

「いやあ」

 そこまで言って、勢いがすぼんだ。現役でバンドをやっていた頃とは違う。今作っているのは、誰かに聴かせるためというより、自分のための曲だ。

 夜中に一人で書いて。録音もしないまま消して。そんな断片ばかりだった。

 だから急に聴きたいと言われると、妙に気恥ずかしい。

 自分で言ったくせに。

 そう考えると、当時の私には相当な自信があったのだろう。

 私は視線を逸らすようにギターの弦を軽く弾いた。

「……そんな大したもんじゃないって」

「いや、だめだね」

 遥花は私の言葉を遮った。

「この旅の間に教えてよ」

「は?」

「その代わり、私の激重い歌詞も見せるから。一緒にまた作ろうよ」

「交換条件みたいに言うなよ」

 思わず笑ってしまう。

 スタジオの空気は、もう完全に高校の頃へ戻っていた。

 誰かが音を鳴らせば、自然と残りの二人も続く。次は何を弾くかなんて、いちいち相談しなくても分かる。

 懐かしい曲。当時の流行りでコピーした曲。

 アンプの熱。音の震え。弦が指へ食い込む感覚。

 全部が、少しずつ身体を目覚めさせていく。

 時間なんて、あっという間だった。

 気づけば扉の上で受付終了を知らせるランプが青色に光っていた。残り10分だ。

 私たちは顔を見合わせる。

「やば、もうこんな時間?」

「最後、もう一回だけ合わせる?」

 遥花が名残惜しそうに言った。

「店員さんに怒られますよ」

 凛が返しながらも、誰もすぐには片付けようとしなかった。いつまでもこの時間が続けばいいと思った。

 音が止まったあとも、まだ身体の中で続きが鳴っているみたいだった。

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