12話 東広島市
カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。ここ数日は朝に起きているからか、少しだけ身体が重い。
それに日本酒を飲んだせいでもあるだろう。
スタジオでギターをかき鳴らした後は、さらに気分が良くなって、ホテルに帰ってから日本酒を胃に垂れ流すように飲んでしまった。
正確な量というのは、もう覚えていないほどだが、また一瓶を空けてしまったことだけは覚えている。
ベッドの一段高くなった縁に手をかけ、なんとか上半身を起こす。バランス感覚がふわりと宙に浮き、部屋の景色ががぐらんぐらんと回る。これが二日酔いというやつだろうか。
ただし吐き気とかはない。
ふと目線を定めた先、隣のベッドの上では、凛がもう起きていて、櫛で長い黒髪を整えていた。
「おはようございます」
凛が私に気づいて微笑む。
「……おはよ」
掠れた声で返事をしながら、私は何度か瞬きをして、ようやくピントを合わせた。
「よくこんな早くから起きれるね」
「私はお2人ほど呑んでいませんからね」
「そんな呑んでた?」
記憶がなくて、まるで他人事のように尋ねる。
「ええ、1人2合ほど」
「うわあ」
気分が良かったとはいえ、お酒デビュー2日目に飲む量ではない。
そして遥花も相当呑んでるな。
「そういえば遥花は?」
「シャワーを浴びてますよ」
そう言われて耳を澄ますと、隣のシャワー室から水の流れる音が聞こえてきた。
朝からのシャワーは気持ちよさそうだ。
「私も顔くらい、洗おうかな」
「ええ、そうした方がすっきりしますよ」
その言葉に背中を押されるように、なんとか体を起こして洗面台へ向かった。
蛇口を捻りながら、もう片方の手でタオルを取る。それから打ち水みたいに、私の顔目掛けて、水を思い切りかけた。
冷たさが肌を刺し、飛沫ははじけてルームウェアを湿らせる。
意識はまだ朦朧としていて、そうした些細な事柄に気を留める余裕はなかった。
針のように刺さる冷たい水で、顔の上の不純物を洗い流しながら、ふと昨日の夜のことを思い出す。
痺れる右手。震える鼓膜。
高校時代の断片が蘇って、夢の縁に立つような感傷が広がった。
顔を洗い終えると、無造作にタオルで水気を拭い取る。
その所作は、そんな夢の縁から自分を引っ張ってくる感覚だった。
視線を上げると、ちょうどシャワー室の扉が開いて、湯気と一緒に、遥花が出てくる。
「おはよう。昨日、随分飲んだらしいじゃん」
「さあ、覚えてないな」
シャワーを浴びたからか、遥花の顔は血色がいい。濡れた髪をタオルで雑に拭きながら、こちらを見るなり小さく笑った。
「ぜんぜん大丈夫そうだね」
私がそう聞くと、遥花は首を軽く回してから肩をすくめる。
「もう抜けてるし、問題ないよ」
心配していたが、すっかりいつもの調子だった。
頭が少し重くて、動きが鈍くなっているのは、どうやら私だけらしい。
なんとなくそれに納得がいかなくて、私はじとっと遥花を睨む。
すると遥花は、その視線に気づいたのか、少し呆れたように笑った。
「この旅の間に慣れるよ」
相変わらずの軽い口調だった。濡れて束になっている前髪の隙間から覗く目が、どこか楽しそうに細められている。
まるで、まだ始まったばかりだと言われているみたいだった。
それから簡単に支度を済ませ、ホテルのチェックアウトを終える。
朝の神戸は、夜より少しだけ静かだった。
ビジネス街を抜ける風も涼しくて、昨夜の貸しスタジオでの熱気が嘘みたいに思える。
コインパーキングへと戻り、レンタカーへ荷物を積み込むと、遥花が運転席へ乗り込んだ。
「次は広島だっけ?」
「ええ、東広島市ですね」
後部座席の凛が、スマホを見ながら答える。
私は助手席から身を乗り出して、その画面を覗き込んだ。
表示されている地図には、市街地から外れた場所へ赤いピンが立っている。
私はカーナビを操作して目的地に設定する。酒蔵の名前では出てこなかったので、住所で検索する。
「……かなり山奥だね」
画面に表示されたルートは、途中から細い道ばかりだった。
曲がりくねった山道が延々と続いていて、正直かなり行きづらそうに見える。
次に向かう酒蔵。
親父の手帳に書かれていた情報を頼りに調べてみたものの、出てきたのは簡素なInstagramのアカウントだけだった。
ホームページは見当たらない。
営業時間も曖昧。
投稿頻度もまばらで、本当に営業しているのか少し不安になるレベルだ。
「逆に怖いんだけど」
私はカーナビを見ながら呟く。
そもそも、あの手帳がどこまで信用できるのかも分からない。
山奥まで行って、「ありませんでした」で終わったら、さすがにダメージは大きい。
それでも、不思議と悲観しきれなかった。
隣では遥花が適当に鼻歌を歌い、後ろでは凛が静かにスマホを眺めている。
この2人といると、それはそれで旅になってしまう気がした。
窓の外では、朝の車列がゆっくり流れ始める。少し不安で、でもそれ以上に、先が気になっていた。
遥花の運転する車は、そのまま静かに街を走り出す。
街を抜けて高速を進むと、景色は少しずつ変わっていった。ビルの群れは減り、代わりに山の輪郭が近づいてくる。いつの間にか岡山県を抜けて、広島県に入っていた。
窓の外には深い緑が続き、道路脇には小さな川まで流れていた。
私は助手席でぼんやり景色を眺めていたけれど、しばらくすると、ぐう、と小さくお腹が鳴る。
「……お腹空いた」
思わず呟くと、2人が少し笑った。
気づけば、朝から何も食べていない。昨日は遅くまで起きていたせいで、ホテルを出る時もそこまで食欲がなかったけれど、山の景色を眺めながら長く車に揺られているうちに、お腹の空白がゆっくり輪郭を持ち、何か入れろと主張し始めていた。
時刻を見ると、まだ11時前。昼には早い。
「どっか寄る?」
遥花が前を見たまま聞く。
すると凛が、スマホを操作しながら「あ」と声を漏らした。
「少し先に道の駅がありますよ」
「そこでいいじゃん」
山道をしばらく進むと、やがて大きな看板が見えてきた。
遥花は軽く頷き、ハンドルを切る。
駐車場はサッカーができそうなほど広く、大型トラックも何台か停まっている。
ただその分、空いている場所が多くて、停めやすかった。時間が早いせいか人はまだ少ない。
建物もかなり大きく、土産売り場やレストランが併設されているらしい。
朝の澄んだ空気の中、広い駐車場だけがやけに静かに見える。
「なんかこういう場所、旅行感あるよね」
遥花が車を停めながら言った。
たしかに、サービスエリアとも違う独特の空気がある。地元の野菜が並んでいたり、妙に大きいソフトクリームの看板が立っていたり。
最近は目的地になるほどの道の駅もあるらしいし、ここも休日は賑わっているのかもしれない。
私たちは車を降りて、その大きな建物へ向かって歩き出した。
自動ドアを抜けると、建物の中には木の匂いがほんのり漂っていた。
地元野菜の直売所。
観光客向けの土産コーナー。
奥には食堂まで見える。
朝早いこともあって館内はまだ静かで、店員たちが品出しをしている音だけが響いていた。
「先にご飯食べる?」
遥花が訊ねる。
けれど私たちの視線は、ほとんど同時に別の方向へ向いていた。
お土産コーナーの一角にある酒売り場。
「やはり先に見た方がいいですよね」
今回の旅の目的が日本酒である以上、確認をしておかないと妙に落ち着かない。
私たちは自然と酒コーナーへ足を向けた。
並んでいたのは、地元の地酒やクラフトビールだった。
想像していた以上に地ビールの種類が多い。
「こういうのもやってるんだ」
私はラベルを眺めながら呟く。
広島らしくレモンを使ったものや、山椒と八朔といった妙に攻めたフレーバーまであった。
「絶対あとで飲みたくなるやつだな」
遥花が面白そうに瓶を持ち上げる。
日本酒を探しに来たはずなのに、いつの間にか境界は曖昧になっている。
一通り他のものも見たあと、私たちは仕切り直して日本酒の棚へ向かう。
ずらりと並んだ一升瓶。スーパーとは違って見慣れないラベルばかりだ。
ビールと同じく地元のものばかりなのだろう。
私は端から順に目で追っていく。
「……ないなぁ」
『拍』の名前は、どこにも見当たらなかった。
やっぱり簡単には見つからない。
少しだけ肩の力が抜ける。
そんな時だった。
「あっ」
凛が、小さく声を上げた。
目を向けると、一つの瓶をじっと見つめている。
「これ……」
凛はラベルを指先でなぞる。
「留学先のイタリアで、飲んだことがあります」
「え?」
私は思わず瓶を覗き込んだ。
ラベルには大胆な色使いで、浮世絵を模したような波や鶴の絵柄が描かれていて、金色の箔まで散りばめられている。
『群星』という名前の銘柄の文字も大きく、遠目でもすぐ分かるくらい主張が強い。
ただのラベルというよりは、アート作品みたいだった。
派手なのに色遣いが繊細で重厚感があるから安っぽさはない。それゆえに棚の中で自然と目を引く。
そしてその下に書かれていた酒蔵の名前を見て、私はハッとした。
手帳の地図で、赤印がついていた今田酒蔵だ。
「これ、目的地のところじゃん」
覗き込んだ遥花も気づいたらしく、少し驚いた声を出す。
「イタリアだと、日本酒といえばこれ、みたいな感じでしたよ」
「なるほど。たしかにラベル、めちゃくちゃ“ 和って感じだもんね。海外意識してそう」
波や鶴の絵柄に、派手な金の装飾。
遠くから見ても、日本のものだとすぐ分かるデザインだった。
偶然なのだろうが、それでも運命的なものを感じてしまう。
私はその瓶を見つめたまま、小さく息を飲んだ。




