18話 偶然鳴った音
気づけば何度もお猪口を傾けていて、今は少し頭が熱い。
酔っているというほどではない。けれど思考の輪郭が少し曖昧になったような、不思議な心地よさがあった。
やがて料理も酒もきれいになくなり、私たちは席を立つ。
「じゃあお会計してくる」
私が伝票を持ってレジへ向かおうとすると、厨房にいる今田さんが慌てたように手を振った。
「ああ、それはいいから」
「え?」
「今日は出演料ってことで」
私たちは顔を見合わせる。
「いやいや、それは流石に」
遥花がすぐに首を振った。
「飛び入りで弾いただけですし」
「そうですよ」
私も慌てて財布を取り出す。
しかし彩子さんもやってきて、笑いながら押し返した。
「こっちがお願いしたんだから気にしないで」
「でも……」
「お客さんも喜んでくれたし、店も盛り上がった」
そこで少しだけ真面目な顔になる。
「むしろ安いくらいだよ」
その言葉に、私たちは思わず黙り込んだ。
すると今田さんがキッパリと言い切った。
「じゃあ決まり」
結局、最後まで支払いは受け取ってもらえなかった。
私たちは何度も礼を言いながら店を後にする。
外へ出ると、山の夜気が少しだけ火照った頬を撫でた。
足元を照らす街灯はまばらで、少し先を見ても、闇に覆われている。
私たちは並んで歩きながら、さっきまでのライブの話を続けていた。
あの曲の入りは良かったとか。お客さんの手拍子が思ったより大きかったとか。彩子さんに言われたこととか。
話題も、笑い声も絶えなかった。
そんな中で、不意に凛が口を開く。
「あんな風に褒められたこと、なかったかもしれません」
少しだけ足元を見ながらの言葉だった。
「バランスの話?」
遥花が聞くと、凛は頷いた。
「はい」
それから困ったように笑う。
「でも、たぶん違うんです」
「……違う?」
「私はただ自己表現が苦手なだけですから」
その言葉に、私と遥花は顔を見合わせた。
凛は少し酔っているのかもしれない。いつもより口調に揺らぎがあった。
「留学先だと、個性も主張もないって言われてばかりですし。しっかり主張しないと、自分の音を持っていないと、埋もれてしまうんです」
ふと凛が楽器屋で呟いていたことを思い出す。
凛のピアノは上手い。素人でも分かるくらいに。
だけど上手いだけじゃ認められない世界。私なんかが想像もできない世界。
明文化されていないものには、濁った自由がある。
夜道を3人で並びながら歩く。凛は何かを振り切るかのように、半歩前に出てぽつりぽつりと言葉を続ける。
「小さい頃からずっとお手伝いさんに育ててもらってたんです。父も母も仕事で忙しくて、ほとんど家を空けていました」
風が木々を揺らした。
凛の声は、その音に紛れそうなほど静かだった。
「だからその頃から自分のことについて、表に出すことがなくて」
恨みも寂しさも乗せていない。ただ事実を説明しているだけで、淡々としていた。
「ピアノで少し有名になったときも、留学するときにも、特に何も言われませんでした。放任主義って言うんでしょうけど」
その感覚は少しだけ分かる。
私の父も居酒屋が1番優先で、私に構ってくれたことなんてなかった。
別にそれで拗ねるわけでも僻むわけでもない。むしろ運良く自己表現が音楽に傾いたと思っている。
「だから嬉しかったんです」
凛は静かに振り返った。街灯に照らされた表情は晴れやかになっている。
「バンドで肯定されて。『群星』が好きなのも、きっと偶然じゃないと思えてきて」
「やっぱり偶然は積み重なると運命っぽくなるんだなあ」
遥花が少し間を置いてから言った。
言葉を選ぶというより、言葉が形になるのを待つように。
凛は、何かが憑き物が落ちたように微笑んだ。
けれど、その言葉に私は押し黙る。
私にとっての運命とは、何なのだろう。
もし、あのときギターを手放していたら。
もし、もう二度と弾かないと決めていたら。
色褪せた世界は、そのまま静かに枯れていたのだろうか。
バンドをしていると、不思議と感情は溜まっていく。喜びも、後悔も、焦りも。
音に変わって外へ流れ出ていく。
だから私は弾いていたのかもしれない。
もしそれがなかったなら。
積み上がるのは時間だけで、心の中には何も残らなかった気がした。
遥花が駆け足になって、凛に追いつくと、肩を貸しながら夜道を歩く。
山の空気は冷たく、酔いを少しずつ現実に戻していく。
足取りは覚束ないが、誰も急がなかった。




