17話 食中酒
ステージを降りた私たちは、客席の間を抜けながら元のテーブルへ戻った。
行きと帰りで距離は変わらないはずなのに、不思議と少し長く感じる。あちこちから拍手が飛び、「よかったよ」と労うような声がかかる。
大したことをしたわけではない。ただ数曲演奏しただけだ。
それでも向けられる視線は温かく、私はどこか落ち着かない気持ちになる。
ほんのひとときだけ、自分たちが凄いことをしたような錯覚をした。
ギターを片づけて、一息ついていると、やがて彩子さんがやってきた。
「お疲れさま〜」
こちらへ歩いてくるその顔には、演奏を終えた人が浮かべるような晴れやかな喜びが滲んでいた。
「やっぱりすごかったわ。私の見立て通り」
「あ、ありがとうございます」
初対面で私たちの担当楽器を言い当てた人だ。
玄人めいた凄みがあり、褒められると少しだけ本当に上手くやれたような気がしてくる。
「全然久しぶりって感じがしなかったもの」
「そうですかね。昔やってたことを、そのまま思い出しながら弾いただけですよ」
「それでもよ。3人とも息が合ってる」
その言葉に、遥花が得意げに胸を張る。
「まあ、うちら長いんで」
「3年でしょ。すぐ調子に乗るんだから」
私がすぐに釘を刺すと、彩子さんが声を上げて笑った。
「いいじゃない。今日は主役なんだから」
そう言ってメニューを軽く持ち上げる。
「さ、お疲れさま会よ。どんどん飲んで」
「それじゃあ……」
私はメニューへ目を落とした。
今田酒造の酒はすでに何本か買っている。
それでも、せっかく蔵の隣で飲めるのだ。
気になる銘柄はいくつもあった。迷っていると、凛が先に口を開く。
「私は『群星』にします」
イタリアで飲んだという酒だ。
「あ、じゃあ私も」
「なら私もそれで」
結局、3人とも同じ銘柄を頼むことになった。
「は〜い」
そう言って彩子さんがカウンターの方へと向かう。
それから私たちは、3人で顔を見合わせた。
久しぶりにお客さんの前で音を出したせいか、全員のテンションは明らかに高かった。
「でもほんとに、今日は楽しかったな」
「うん。部室で演奏してた頃を思い出した」
「私は最初、指が震えてました」
「凛は向こうでも人前で弾いてたんだろ?」
「はい。でも留学先だと、オーケストラや同じピアノと合わせることが多いので。こういうセッションとは、やっぱり雰囲気が全然違うというか……」
凛はそこで言葉を切った。何か言おうとして止めるような不自然さがあった。続きを探すように視線を泳がせ、それから小さく息を吐く。
「今日は隣に2人がいたので、安心できたんです」
「よく平気で言うなあ、そういうこと」
遥花が照れ隠しみたいに笑う。
話がひと段落したころ、彩子さんが『群星』の一升瓶と大きな徳利を抱えて戻ってきた。
テーブルの上に置かれた徳利は、銀を溶かし込んだような黒色をしていた。鈍く光を返しながらも、土もの特有の柔らかな上品さがある。
その中には透き通った液体が揺れている。
その徳利の品も相まって、神秘的な雰囲気すら感じられた。
「お待たせ。『群星』ね」
その後ろから今田さんも現れる。そしてテーブルの上に、小皿をいくつも手にしていた。
「これ、お酒に合うやつ選んだので、ぜひ食べてください」
そう言いながら、料理を静かに並べていく。
葉物のサラダ。刺身の盛り合わせ。ハムカツ。塩辛。
さらにはクリームチーズや炙ったエイヒレ、甘辛く煮込まれた豚角煮まで並びテーブルの上は一気に賑やかになった。
料理の匂いと酒の香りが混じり合う。
「私もご一緒していいかしら」
彩子さんはそう言うなり、空いていた席へ自然に腰を下ろした。
「もちろんです」
私が答えると、隣に立っていた今田さんが少しだけ苦笑する。
「他のお客さんも対応してくださいね」
「は〜い」
慣れたやり取りらしい。
どうやら彩子さんは酒造りやBGM曲選びだけでなく、こうして客に酒を紹介する役目も担っているようだった。
彩子さんは徳利を手に取り、一人ひとりのお猪口へ酒を注いでいく。
透明な液体が静かに揺れた。
「このお酒はね、私たちが最初に造った銘柄なの」
そう言って、少しだけ目を細める。
「理想であり、目標でもあるお酒」
「どういうことですか?」
凛が首を傾げる。
彩子さんは意味ありげに笑った。
「まずは呑んでみて」
私はその言葉に背中を押されるように、お猪口を持ち上げる。
ふわりと立ち上る香りを確かめてから、ゆっくり口に含んだ。
思わず小さく声が漏れる。
日本酒らしい輪郭はある。けれど癖がなく、驚くほど軽やかだった。
すっと喉を通り抜けていく。
気を抜けば、酒だということを忘れてしまいそうなくらい。
澄んだ水が流れるように、味わいが喉の奥へ抜けていく。
口の中に残るのは爽やかさは、印象を引き締めていて、わずかにフルーティーさが漂う。
気づけば、もう一口飲みたくなっていた。
「これが、理想……」
私は半ば独り言のように呟いた。
彩子さんがそこまで言うのだから、もっと分かりやすい個性があるのだと思っていた。
強い香りだとか。独特の酸味だとか。
そういう何かだ。
けれど実際に飲んでみても、それらしい尖った特徴は見当たらない。
むしろ逆だった。癖がない。驚くほど自然に飲めてしまう。
その特徴のなさ自体が、この酒の個性なのかもしれなかった。
「そう。すっきりしてるでしょ」
彩子さんが満足そうに笑う。
「はい。飲みやすいです」
素直にそう答える。
まだ日本酒を飲み始めて間もない私でも、するりと喉を通り抜けていく感覚が心地いい。
「イタリアで、これが人気なんだ?」
遥花が尋ねると、凛は静かに頷いた。
「はい。食中酒として評価されているみたいです。料理と一緒に飲むのに向いていると言われていました」
「なるほどね」
私はもう一度お猪口を見つめる。
たしかに、この酒なら料理の味を邪魔しない。たぶんマリアージュという類のものだ。一種の料理を引き立たせるお酒。
自分を主張するというより、隣に寄り添うような味だった。
そう思いながら、目の前の刺身へ箸を伸ばす。白身をひと切れ口へ運び、それから酒を含む。
予想していた通りだった。いや、予想以上かもしれない。
刺身の旨味が静かに広がり、その余韻を群星がさらりと洗い流していく。
音楽と日本酒は似ている。
昼間、彼女はそう話していた。
ならば、この調和の取れた味わいにも、きっと音楽に通じる何かがあるのだろう。
「どうして、このお酒が理想なんですか?」
遥花が訊ねる。彩子さんはすぐには答えず、少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、問題」
彩子さんはお猪口を指先で回しながら言った。
「私の担当楽器、何だと思う?」
「え?」
思わぬ方向から話が進み始めて、私は一瞬言葉に詰まる。
「……ギターボーカル?」
なんとなくそんな気がして答える。
彩子さんは笑いながら首を横に振った。それから口を窄める。
「ブー」
少しの沈黙。今度は凛がぽつりと口を開く。
「ドラムですか」
「正解」
得意げでもなく、むしろ嬉しそうに頷く。
私は思わず彩子さんを見直した。
あまりピンとこなかった。凛が当てずっぽうなのか、確信があったのかはよくわからない。しかし担当楽器を言い当てるというのは、私にとっては根拠のない、ほとんど特殊能力のようなものだ。
「高校の頃に、私もバンドを組んでたの」
彩子さんは懐かしむように笑う。
「でも、卒業を待たずに解散しちゃった」
その言い方は軽い。無理矢やりそうさせたせいで、続く言葉には少しだけ苦味が混じっていた。
「音楽性の違いって言えばそれまでなんだけど……」
彩子さんはお猪口を揺らしながら苦笑した。
バンドの解散理由なんて、大概穏やかではないから、察することはできる。
「うちのボーカルね、目立つのが大好きだったの。だから学園祭とかライブハウスのステージにしょっちゅう立ってた。練習は好きじゃないけど、歌は上手かったし顔も良かったから、そこそこ人気があったの」
酒をひと口飲み、それから続ける。
「でも私は違った。音を合わせるのが好きだったから必死に練習したわ。誰よりもね。実際、バンドの中で1番上手かったと思う」
話していくうちに、どんどんと真剣な表情へと移り変わっていく。冗談めかした様子はない。事実を述べているだけだった。
「ドラムだったから、テンポも流れも私が作る。私が引っ張ればバンドは前に進むし、崩れれば全部崩れる。責任感もあったかな」
そこで少しだけ目を細める。
「評価もされたわよ。音楽をちゃんと聴いている人たちからはね」
ちゃんと聴いている人たちからは。そのさきは解っていた。
彩子さんがだけどね、と続ける。
「ボーカル目当てのお客さんは違う」
彩子さんはテーブルを指先で軽く叩いた。
「ドラムなんて見てないの。興味もない。ボーカルが歌って、ギターが前に出て、それで終わり」
その口調に恨みはない。ただ昔を振り返っているだけだった。
「私がバンドを良くしようと思ってやったことが、輪を乱しているように見えたらしいのよ」
「そんな、ひどいですね」
凛の表情はどこか怯えているようにも見えた。
「今思えば、私の態度も生意気だったんでしょうね。なんでそんなこと言われなきゃいけないんだって本気で思っていたもの」
誰も口を挟まない。
周囲の話し声と酒の匂いだけがゆっくり漂う。
「だから批判なんて気にしなかった。分かる人に分かればいいって」
彩子さんは、そこで一度言葉を切った。
「でもね、だんだん評価されなくなるの」
その声だけが少し低くなる。彩子さんは『群星』をお猪口へ注ぎ足しながら続けた。
「音楽を分かってる人たちからも。誰からも、ね。それで私から解散を告げた」
あっさりと言った。
けれど、その一言の中に長い時間が詰まっている気がした。
「今になって思うのよ。結局、どっちの音楽も間違ってなかったって」
「どっち音楽も?」
遥花が聞き返す。
「彼女には彼女なりの音楽があって、私には私の音楽があった」
彩子さんはどこか遠くを見つめるような目で、迷いなく答えた。
「彼女には彼女自身を引き立たせるような、ドラムが必要だった。つまり音楽の方向性の違いね」
その言葉に、私はさっき感じた飲みやすさを思い出す。
お酒が主役ではない。かといって足りないわけではない。全部がちょうどよかった。
「その理想が『群星》にある調和、ってことですか」
凛が静かに尋ねる。
「そういうこと」
彩子さんは満足そうに頷いた。
それからふと、私たちの方を見る。
「だから最初にあなたたちの演奏を聴いた時、驚いたのよ」
突然私たちに振られて、3人とも顔を見合わせる。
「普通、こういうバンドって誰かが引っ張るの。ボーカルとか、ベースとか。あるいはドラムとかね」
彩子さんは指を一本立てた。そこで少し首を傾げる。
「でも、あなたたちは違った」
私は眉間に力が入った。
「誰かが前に出ているわけじゃないのに、ちゃんと成立してる」
「そんなこと、あまり言われたことないです」
遥花が笑う。
ピンとこないわけじゃないけれど、音楽の品評として独特というか、不思議な世界観を抱えたままになっていた。
「誰も気づかなかったのよ。そう感じられないくらいバランスがいいもの」
そして視線が自然と凛へ向いた。それに気づいた凛は少しだけ背筋を伸ばす。
「特にあなた」
「私ですか?」
「ええ」
彩子さんは嬉しそうに頷くと、凛が目を瞬かせる。
「演奏を聴いていて思ったの。誰かが走れば少し抑えるし、沈めば持ち上げる。前に出ているようで出ていない」
その言葉に、私は自然と納得した。
私も気づいていなかった的を見事に射抜かれた気分で、嬉しさがじんわりと広がった。
「あなた自身は、あまり自覚ないでしょうけど」
やがて彩子さんは、「あら、私ばっかり喋っちゃった」と笑った。
「ごめんなさいね。せっかくの打ち上げなのに」
そう言い残して、別の席の客に呼ばれるまま立ち上がる。
去っていく背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
「あんなに真っ直ぐ褒められたの、久しぶりかも」
胸の高鳴りを落ち着かせるように、そっと手を当てる。
私の言葉に、遥花が頷く。
「面白い言い回しをしてたね」
「遥花に負けず劣らずだね」
「なんだと、そりゃ失礼だ」
遥花は口をムッとさせて、おどけて見せた。
演奏の余韻が残ったままだからか、3人ともお酒を呑むペースが早い。
話に夢中になっているうちに、小皿の料理はほとんど空になり、徳利の中の『群星』も残りわずかになっていた。




