16話 ステージの上で唄えば
身支度を整え、再び日本酒バーへ向かうと、ちょうど開店の時間だった。
照明が入り、BGMが流れ、さっきまで静かだった空間に少しずつ音が入ってくる。
BGMは、ステージ上に置かれた機材から静かに流れていた。彩子さんはそのそばで、淡々と手を動かしている。その場の空気に合わせて選曲しているようだ。
私たちはお店の1番手前にあるテーブル席に腰を下ろして、お店の様子を眺めた。
始めのうちは、お客さんはまばらだったが、時間が経つにつれてどんどんと増えていく。
地元の人らしい常連風の客もいれば、観光客のような人もいる。
年齢も性別もばらばらで、思っていたより幅が広い。カウンターには、今田酒造の酒がずらりと並び始めていた。
お店を切り盛りするのは、おもに旦那さんの方らしい。カウンターの向こうで、忙しそうに行き来している。ホールにはバイトの子が2人いるだけで、かなり少人数でお店を切り盛りしていた。お店は空いている席を探すのが大変なくらい混んできた。
演奏できればいいという軽い気持ちだったのに、今はお客さんの多さに、少したじろいでしまう。
出番までは酒を口にせず、3人ともオレンジジュースを注文した。
グラスを傾けながら店内を観察したり、エアーで指先を動かしてみたりする。
人前で演奏するなんて、現役のころもほとんどしていない。
そのうえ、ほとんどぶっつけ本番だ。
それでもやるしかない。
しばらくすると、彩子さんがこちらを見て、軽く手を上げる。
さっきまで洗濯機の前で話していたことが、もう何日も前の出来事のように思える。
凛の沈黙にも。遥花の笑いにも。
私は応えられる気がしない。
人の気持ちは案外遠い。向き合おうとして手を伸ばせば輪郭すら掴めない。
私はただ、流れに流されるままにここまで来てしまった。
表面上を取り繕っただけで、難しいという言葉では、言い表せない。追いつけない。頑張れない。
「そろそろ、いきますよ」
彩子さんの声に、心臓が一段強く鳴った。
私たちは、ステージの方へ歩いた。
マイクを通して、簡単な紹介がされる。
『波跡』の名前と、3人組のバンドであることだけ。
私たちは舞台に上がった。ライトが思ったより眩しく、視界が少し白くなる。
私はその音に背中を押されるように息を吸う。
お客さんにとっては突然のことだったはずだ。知らない人たちの、知らないバンド。
それでも店内には、温かな拍手が広がった。こういう飛び入り参加はよくあるのかもしれない。
心の中で数を数えた。
始まりの合図を待ちながら。MCはいらない。
胸の内側に沈んでいるものが、水面へ浮かび上がってこないように。
遥花が合図する。凛が伴奏を始めると、私の意識は一気に外側へ放たれた。
高校の頃のことが、断片的に浮かぶ。
放課後の教室、音漏れする部室、笑いながら合わせたコピー曲。
3人で、ただ楽しく音を出していた時間。
それが今の音と重なっていく。
やがて視線を上げ、一人一人の客を見る。頷く人、グラスを持ったまま耳を傾ける人、目を閉じている人。
その反応を、少しずつ波のように飲み込んでいく。
最初は、昔よく演奏していた定番のコピー曲から始めた。誰でも知っているようなメジャーな曲ばかりだ。おかげで客席の反応も良い。
手拍子が起きたり、知っているフレーズに小さく歓声が上がったりする。
私たちも少しずつ肩の力が抜けていった。
途中で、思い切ってオリジナル曲を一曲挟む。知らない曲なのに、誰も退屈そうな顔はしなかった。
むしろ静かに耳を傾けてくれているのが分かる。
そのことが、妙に嬉しかった。
気づけば店内の空気はすっかり温まっていた。
拍手は曲を重ねるごとに大きくなり、笑い声や歓声も混じる。
酒の香りと音楽が溶け合い、小さなバー全体がひとつの空間になっているようだった。
そして最後の曲が終わる。
余韻を残したまま音が消え、一拍遅れて拍手が湧き上がった。
私は思わず息を吐く。
無事にステージを降りた瞬間、身体の奥に張り付いていた緊張が一気にほどけた。
楽器を片付けながら、三人とも自然と笑っている。
演奏が終わったあと特有の、少し浮ついた空気がまだまとわりついていた。




