15話 洗濯
ひと通り音を確認し終えると、私たちはステージを降りた。アンプの電源を落とし、楽器をケースへ戻していく。
演奏時間は短かったはずなのに、思った以上に汗をかいていた。
「さて」
今田さんがお店に掛かっていた時計を見た。
「バーのオープンは夜だから、まだ三時間くらいあるけど、それまでどうします?」
「お酒飲んでもいいわよ?」
隣で彩子さんが冗談っぽく言う。
「いやいや」
私は思わず苦笑した。
「さすがに飲んだ状態で演奏できるほど玄人じゃないです」
「真面目だねえ」
彩子さんが笑う。本気で呑むつもりだったらしい。
実際、昨日のスタジオ練習で十分学んだ。
憧れさえすれど、少なくとも私は酒を飲んで上手くなるタイプではない。
「一度、ホテルに荷物を置いてきてもいいですか」
私がそう聞くと、今田さんは「ああ」と頷いた。
「ホテルって、もしかして近くのリゾートマンションを改装したところ?」
「あ、はい。そこです」
「それならここから歩いて行けるよ」
今田さんは気軽な調子で言う。
「車はここに置いていけばいい」
「え、いいんですか?」
「もちろん」
今度は彩子さんが笑った。
「演奏のあと、お酒飲むでしょう?」
「それは……飲みます」
すると今田夫妻は揃って笑う。
たしかに帰りの心配をしなくていいのはありがたい。
私たちは楽器を抱え直し、日本酒バーをあとにした。
3人で歩き始めた歩道はコンクリートで舗装されている。けれど、人通りはあまりないのだろう。雑草がコンクリートの隙間から好き放題に伸び、木の枝もところどころ歩道まで張り出していた。
「夜だとちょっと怖そうですね」
凛が枝を避けながら言う。
「熊とか出そう」
「やめてよ」
私が即座に返すと、遥花が悪戯っぽく口角を上げた。
山はそれほど得意じゃない。虫も嫌いだし、そもそもこの前までフリーターで、外にもほとんど出ていなかった。
風が吹くたび、葉の擦れる音が頭上で揺れる。
そんな道を5分ほど歩いたところで、木々の隙間から建物が見えてくる。
「なんか想像してたのと違うな」
遥花が率直に言った。
山奥のホテルと聞いていたから、もっと地味な建物を想像していた。
だが目の前に現れたのは、妙に主張の強い外観だった。
曲線を多用した装飾。やたらと多い窓。暖色系を基調にしたカラフルな色使い。
どこか時代を感じさせる派手さがある。
「バブルって感じ、知らないけど」
私がぽつりと呟く。予約のときに見たリゾートマンションとして建てられたという説明に妙に納得した。
「当時はこれが最先端だったんでしょうね」
凛が感心したように見上げる。
派手な外観に圧倒されながら中へ入ると、今度はさらに驚かされた。
「おお」
思わず声が漏れる。
エントランスは広々としていて床一面は大理石になっていた。
そして正面には、妙に存在感のあるゴールドのフロントカウンター。
「なんか急に高そう」
遥花が小声で言う。
「私たち本当にここ泊まって大丈夫?」
「値段は安かったですよ」
凛がスマホを確認しながら答える。
「そのギャップが怖いんだけど」
私は苦笑した。
外は山奥。中は少し時代の止まった高級風のリゾートホテル。
そのチグハグ感が妙に期待を抱かせた。
フロントで呼び鈴を鳴らすと、奥から年配の女性が出てくる。手続きを済ませると、鍵を手渡してくれる。
金属の重い鍵には、部屋番号の書かれたアクリルのプレートが付いていた。エレベーターで部屋のある階まで上がり、廊下を歩く。
等間隔に並ぶ部屋の扉も、どこか生活感のあるデザインで、ドアの下の方には、小さな郵便受けがついていた跡が残っている。
部屋番号も後から貼り替えたようで、わずかに色が違っていた。
部屋に入ると、思ったよりも広かった。
元がマンションだったせいか、普通のビジネスホテルよりもスペースに余裕がある。
キッチンの跡らしきスペースがあったり、妙に大きな窓があったりするのも、その名残だろう。
ゆっくり腰を下ろしたいところだが、そうはいかなかった。
「さてと洗濯、行っとく?」
私が言うと、2人が小さく頷いた。
ただでさえ行き当たりばったりの旅だ。
荷物は最小限にしてきたせいで、着替えもそろそろ限界だった。
今日洗わなければ、明日から着るものがない。
コインランドリーがあることはチェックイン前から確認済みだった。
3人で洗濯物を抱えて下の階へ降りると、ランドリーのフロアは思ったより年季が入っていた。
壁際には古い洗濯機と乾燥機が並んでいる。
白かったはずの塗装は少し黄ばんでいて、長年働いてきたことが伝わってくる。
その横には洗剤の自動販売機。
いかにも昔ながらのホテルらしい設備だった。
洗濯物を放り込むと、どさりと重たい音がした。1日とはいえ、3人分だから、かなり多い。
コインを入れて、スタートボタンを押す。
機械が揺れ始め、低い回転音が響いた。
洗濯機のデジタル表示には、24分の文字が浮かんでいた。
まだしばらく終わりそうにない。かといって部屋に戻るのにも微妙な時間だ。
私たちは自然と、正面に置かれたベンチへ腰を下ろした。
壁には漫画や雑誌が並んでいる。何年も前の旅行誌や、背表紙の色褪せた単行本。あまり面白くなさそうで誰も手を伸ばさない。
洗濯機の回転音だけが、規則正しく空間を満たしていた。
私はそれを眺めながら、ふと口を開く。
「まさか人前で演奏するとはね」
何度口に出しても、実感が湧かない。貸しスタジオとまるで違う雰囲気だろう。
「現役のころも、ほとんどしてないしね」
「文化祭くらいですかね?」
「そうだね。別に人に見せるためにやってなかったから」
あの頃は、とにかく音楽が好きなだけで、人前に出るのはむしろ苦手だった。
「香穂はサブカルぶってたもんな」
遥花の鋭利なひと言に、ウグっと胸を刺される。
「そうでしたね」と凛も同調する。
逃げる方向が見つからなくて、私はがっくしと首を垂れて白旗をあげる。
昔の私は、人前で何かをすることが苦手だった。
いや、苦手だと認めたくなくて、別の言葉で覆い隠していただけかもしれない。
分かる人だけ分かればいい。
そんな顔をして、距離を取っていた。
「それが今では、人前でやりたくてワクワクしてるんだから、不思議なもんだよ」
洗濯機の回る音が続いている。
今でも、人前は苦手だ。
視線は落ち着かないし、緊張で手も震える。
けれど昔と違うことがある。
誰にも届かなくていいと思っていた音を、今は誰かに届けてみたいと思っている。
そして私は、昨日遥花に言われた言葉を思い出す。
「あの頃から、ずっとバンドを続けていたら、どうなってたんだろうな」
洗濯機の回る音に紛れて、ぽつりと呟く。
その問いは、実は昔から何度も頭の中で繰り返してきたものだった。
音楽を続けるのか。バンドとして進むのか。それとも別々の道に行くのか。
結局は高校卒業と同時に解散。
遥花は京都へ行き、凛は海外へ渡った。
進路がばらばらになった時点で、続ける方が不自然だったのかもしれない。
あれはきっと自然な終わりだった。
「どうだろうね」
遥花は窓の外に視線を向けたまま言った。きっと昨日の夜のことをまだ引き摺っているのだろう。
「私は、今が楽しいです」
凛は迷いなく言った。まっすぐで、少しも揺れない声だった。
単に私の問いに答えたのではない。どこかで私を安心させようとしてくれた気もした。
「私は……」
言葉が喉の奥で引っかかる。
「みんなの、やりたいことを。その、引き留めるなんて、できなかったしな」
ほんの一瞬だけ凛の視線が落ちる。
膝の上で組んだ指先が、かすかに動いた。何かを言い足そうとして、やめたようにも見えた。
私はじっと見つめると、凛はすぐに顔を上げて、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
その笑顔はどこか整いすぎている気がした。
その後は誰もそれ以上言葉を足さなかった。
洗濯機の回る音だけが、一定のリズムで続いていた。
もし、私が強引になれたら。
そうしたら、二人は残ってくれるんだろうか
わからない。
わからないし、怖い。
もし選択を狂わせてしまったら。
もし、私のせいで二人の未来が変わってしまったら。
そんな責任、負えるはずがない。
音楽は、好きだからやっているだけだ。
誰かの人生を背負ってまで続けるものじゃない。
だから、人に頼るなんてどこかで遠慮しなきゃいけない気がしてしまう。
考えがぐるぐると回る。
同じところを何度もなぞるみたいに、出口のない思考が続く。
気づけば、洗濯機が終わりを告げる電子音を鳴らしていた。
洗濯の終わりを告げるだけの音なのに、どこか一区切りがついて救われたような気分になる。
私は洗濯物を乾燥機へ移して、また硬貨を入れた。
丸い窓の向こうで、衣類がゆっくりと持ち上がっては落ちていく。
私はまたベンチに腰を下ろした。手近にあった雑誌を一冊抜き取る。
いつの時代かもわからない、ファッション雑誌だ。興味があったわけではない。
ただ、何も持たずにいるのが少し落ち着かなくて、適当に読み進めた。




