14話 日本酒バー
食事を終え、店の外に出ると、今田夫婦はひと足先に自分たちの車に乗り込んだ。
白色のワンボックスで、側面には『今田酒造』とプリントされている。使い込まれていて、外装にはサビや傷が目立つ。
「じゃあ、先に行きますね」
今田さんはそう言って軽く手を振り、ゆっくりと発進する。
私たちはその後ろについて、山道を進んだ。信号もなく、合流や分かれ道もないから、見失う心配はなさそうだった。
「それにしても、まさか人前で演奏することになるとはね」
遥花が苦笑混じりに言った。
いつもなら平気そうな顔をするくせに、今は少しだけ緊張しているように見える。
「ほんとにね。でも、なんかやりたくなっちゃってさ」
私は頭をかきながら答えた。
彩子さんから提案された日本酒バーでのライブ。
昨日、一年半ぶりに音を合わせたばかりだというのに。
冷静に考えれば、そんな学生バンドが人前に立つのはどうなんだろうと思う。
一応そのことは確認した。
けれど彩子さんは笑いながら、「楽しければ大丈夫ですよ」と、気にしていない様子だった。
もちろん、プロが出演するような店ではない。飛び入りで演奏する客も珍しくないらしい。
それでも、遥花の不安はもっともだった。
私だって、内心では少しだけ胃が落ち着かなかった。
カーブをいくつか越えると、周囲は静まり返る。エンジン音とタイヤがコンクリートを踏む音だけが、やけに大きく聞こえた。
「日本じゃないみたいですね」
凛がぽつりと呟いた。
陽射しを受けた横顔はどこか眩しそうで、その声も、いつもより少しだけ柔らかい。
道沿いに並ぶ木々の幹は橙色に近く、乾いた質感で、まっすぐ空へ伸びている。
枝はずいぶん高い位置にしかなく、首の角度を調整して窓越しに見上げると、葉が遠くで揺れているのが分かる。
「たしかに。見たことない木だな。実は今田夫妻って狐で、私たち化かされてるのかもな」
遥花が妙に真面目な顔で言う。
その言い方がおかしくて、思わず吹き出してしまった。
「あり得るね。話が出来すぎてる」
「でしょ?」
たまたま凛が飲んでいたお酒がこんなところで見つかり、それが目的地の酒蔵のものだったり、元バンドマン夫婦が酒蔵をやっていたり、その流れで演奏することになったり。
たしかに並べてみると出来すぎている。
「ええ? そんなわけないと思いますけど」
凛は真剣に受け取ったのか、訝しげな顔をした。
「いや、冗談だよ」とフォローをいれる。
とはいえ、この酒蔵がこんな山奥にあること自体、不思議だった。
そして、ふと思い出した。
「そういえば」
「ん?」
「今日のホテル、まだ決めてない」
車内に一瞬だけ沈黙が落ちる。
「あ〜、たしかに」
遥花がふやけたような声を漏らした。
昨日は都会だったから何とかなるだろうで済ませたが、今日はそうもいかない。こんな山奥に、ホテルがたくさんあるとは思えなかった。
凛が苦笑しながら宿泊サイトを開く。
「探してみます」
そう言ってからすぐに、凛がスマホから顔を上げた。
「今田酒蔵の近くに見つかりました。一件だけですけど」
私は凛がスマホ画面を覗き込む。
そこに映っていた建物は、一般的なビジネスホテルとは少し違って見えた。
「リゾートマンションですね」
凛が説明を加える。説明文を読むと、もともとはバブル期に別荘用のマンションとして建てられたものだったが、バブル崩壊後にホテルへ改修したらしい。
「だから安いのか」
必要な設備は揃っているようだし、立地も悪くない。むしろ私たちには十分すぎるくらいだった。
「じゃあそこにするか」
遥花が言い、凛がそのまま予約を進める。
数分後には手続きも終わった。
今夜の寝床が決まっただけで、少し安心する。
窓の外には山が広がり、道だって決して便利とは言えない。
もし親父の手帳がなければ。
もし道の駅に寄らなければ。
私たちはきっと、この場所を知らないまま通り過ぎていただろう。
しばらくすると前を走る今田さんの車な減速する。
それからブレーキランプが赤く灯り、ゆっくりと停車した。
私たちも、その車の後ろにつける。
砂利を踏む音がタイヤの下で小さく弾ける。エンジンを切ると、あたりは驚くほど静かだった。
ドアを開けた瞬間、ひやりとした空気が頬に触れる。山の匂いと、ほんのり湿った木の匂いが混ざっていた。
車を降りて顔を上げる目の前にあったのは木造の平屋に、木の葉に覆い隠された控えめな『今田酒造』の看板だった。新しい塗装なのに、汚れも多くて、アンバランスな印象だ。
敷地も広くはなく、建物の横には倉庫がひとつ寄り添うように建っているだけだ。
「……こじんまりとしてるね」
遥花がぽつりと呟く通り、滝鷺酒造のミュージアムと比べても、規模は半分以下だ。
あちらは観光客向けに整備されていたし、そもそも展示用の施設で、今は別の場所に大きな工場がある。
今田酒造はまるで生活の延長線上にあるような酒蔵だった。
親父は、本当にこんな場所まで足を運んだのだろうか。
「不思議と蔵という雰囲気はしっかりありますね」
凛が杉玉の掛かった門柱へ指先を触れながら言った。
その言葉に私は頷く。
ここには滝鷺酒造のような厳格さはない。歴史を誇示するような重厚さもない。
それでも、山の空気に溶け込むような静謐さがあった。何かが生まれる場所特有の空気だ。
建物に近づいていくと、側面の壁に暖簾がかかっていて、控えめな明かりが漏れている扉があった。
「ここが、日本酒バーです」
今田さんに案内され中を覗くと、仄暗い店内に木のカウンターが伸びていた。飴色に磨かれた豪華な天板だ。
それからテーブル席が3つほどある。夜になれば人が集まるのだろうが、今は椅子も逆さにされ、照明も落とされていた。
カウンターの奥にある棚には日本酒の瓶が整然と並んでいた。緑や茶の一升瓶が、ラベルをこちらに向けてきっちりと揃えられている。
父の居酒屋と、よく似ていた。
無駄な飾りはなく、木の匂いがして、酒だけが主役みたいに並んでいるところまで。
遥花が小声で言う。
「落ち着くね、なんか」
凛も静かにうなずいた。
知らないはずの場所なのに、懐かしさが先に立つ。
そして、その奥には小さなステージがあった。
床より少し高くなっただけの簡素な造りだが、ちゃんとライブができる設備は揃っている。
ミキサーにアンプ。
壁際にはスピーカーが並び、マイクスタンドも何本か立てかけられていた。
「おお……」
思わず声が漏れる。想像よりも本格的だ。ライブハウスで働いていたので、こだわっているのだろう。
胸の奥がわずかに浮き立つ。
遊園地の門が開く瞬間にも似た感覚だった。
これから何かが始まる。そんな予感だけが先に身体へ届く。
本番はまだ先のはずだ。それなのに、もう待てそうになかった。
「……練習、してもいいですか」
私は振り返って、少しだけ遠慮がちに尋ねる。
声に出した途端、自分でも子どもみたいだと思った。
今田夫妻は顔を見合わせたあと、どちらともなく小さく笑った。
「もちろん」
「ここで見学させてね」
「ありがとうございます!」
私たちは車から楽器を持ってきて、ステージ上に登る。
遥花は背負っていたケースに手を伸ばし、ベースをそっと手に取る。
ストラップを肩にかけ、指先で弦を軽く弾くと、低い音が小さく震えた。
試すように、もう一度。今度は少しだけ強く。
凛は無言のままキーボードをセッティングして、腰を下ろす。
鍵盤の上に白い指が静かに並んだ。
私もアコースティックギターを抱える。
木の感触がお腹に当たり、ほんのりとした木材の匂いが鼻をくすぐった。ピックを握る手のひらが、少しだけ汗ばんでいるのがわかる。
深く、息を吸う。山の澄んだ空気が肺を満たし、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
昨日の音楽スタジオとは違う緊張感がある。
この感じ久しぶりだった。
観客は2人だけ。
それでも、音を出すには勇気が必要だった。視線を上げると、遥花と凛がこちらを見ている。
言葉はない。合図はそれで十分だった。
静まり返った空間に、遥花が最初の一音を落とす。低く、やわらかいベースの音が空気を伝って広がっていく。
それに応えるように、凛のキーボードが静かに重なった。淡いコードが、薄い光みたいに空間を満たしていく。
さっきまでただの蔵だった場所に、少しずつ色が差していく。
木の壁に反響する音が、空気の温度を変えていく。冷たかったはずの空気が、ゆっくりと体温に近づいていく。
この感覚が、堪らなく最高だった。
テンポもわずかに揺れているし、それぞれのタイミングだって完璧じゃない。
でも、それでいい。
私は弦を軽やかにかき鳴らす。ベースの低音と、キーボードの和音の隙間に、自分の音がするりと入り込んだ。
呼吸を合わせる。
遥花の指が、さっきよりも強く弦を押さえる。
凛の左手がコードを変える瞬間、わずかな視線がこちらに向く。
私はマイクに口を寄せた。
声が、木の天井に触れて、跳ね返る。
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえるみたいだ。
サビに入ると、ベースが前に出る。
キーボードが厚みを足す。私はコードを強く鳴らし、声を張る。
3人の音は決して整ってはいない。
ところどころ擦れ違い、揺らぎ、危うくほどけそうになる。
不格好なまま、ただ真っ直ぐ前へ進んでいく。
最後のコードに手を伸ばす。
余韻が、空気に絡みつくように残る。
音が消えたあと、ほんの一瞬、息を止めた。
誰もすぐには口を開かなかった。弦の震えが止まり、アンプの微かなノイズだけが響く。
私はギターを下ろしながら、まっすぐ前を見つめる。
音が消えてからは、誰も声を発しなかった。
体の震えとともに、息を整える。
「……ちょっと待って」
最初に声を出したのは、彩子さんだった。
深刻そうな目をしていて、眉を顰めている。何か不味いことをしただろうか。気持ちよくなっていたから、あまり完成度とかを気にしていなかった。
「これ、昨日久しぶりに合わせたって言ってた?」
彩子さんが驚いたように言う。
「は、はい」
私は思わず背筋を伸ばして答えた。
「これだけやれたら充分。というか想像以上よ。ステージも全然問題ないわ」
「あ、ありがとうございます」
その言葉を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。
握っていたギターが手をするりと抜けて、肩にのしかかる。
「何で辞めちゃったの?」
彩子さんは首を傾げて、訝しげに訊ねる。
私は一瞬だけ言葉に詰まった。
けれど、間を空ける方が余計な意味を持ってしまう気がした。
「大学がバラバラになったんで」
「へぇ、そう」
彩子さんは軽く頷いた。
それ以上は聞いてこない。
けれど、私の返事が少し歯切れ悪く聞こえたのか、それ以上は追及してこなかった。
「……上手くいってよかったです」
凛が静かに胸を撫で下ろした。
その仕草には、演奏を終えた安堵よりも、何かを確認できた安心感が滲んでいる。
遥花はベースを軽く鳴らしながら笑った。
「全然ブランク感じなかったけど?」
「それは言いすぎだよ」
私が苦笑すると、遥花は首を横に振る。
たしかに昨日よりは安定していた。酒が入っていないこともあるだろう。
けれど、それ以上に。
勢いだけで鳴らしていた音が、少しずつ身体へ戻ってきている気がした。
離れていた時間を埋めるように。指先も、呼吸も、距離感も。
少しずつ馴染み始めていた。




