第53話 カラフルな君と
康太の陽動作戦のお陰でコンサートホールに入った私は、そのまま真っすぐ客席を抜けて唄子の立つ舞台へと足を進めた。
はやる気持ちを抑えながら、私はあまり目立つことのないよう、ゆっくりと舞台へと向かっていく。
だが、無線で外の騒ぎのことは筒抜けだったのだろう。
スーツ姿の警備員らしき人影が二人ほど、私に向かって歩いてくるのが見えた。
ここで捕まるわけにはいかない。
私を会場に入らせてくれた康太のためにも、絶対にやり遂げなければならなかった。
そんな私のことを知る由もなく、舞台上ではマイクを持った唄子の母が大勢の観客を前に一礼した。
「皆様、本日は私のコンサートへ足をお運び頂き誠にありがとうございます。まず、ご案内させて頂いた声楽家とのコラボレーションが残念ながら諸事情により中止となりましたことをここにお伝えしておきます」
唄子が声を出せなくなったことで、父親は当たり前のようにコンサートへの出演を取りやめた。
それが唄子の心をどれだけ傷つけることなのか、思い出した私はただ胸が痛かった。
「それともう一つ皆様に残念なお知らせがあります。本当は今日、皆さまへのサプライズとして娘の唄子とアンサンブルを行う予定だったのですが、喉の不調によりアンサンブルはまたの機会にさせて頂きたいと思います」
濃紺のドレスに身を包んだ母親と、白いドレスに身を包んだ唄子。
唄子はとても悲し気にやや目を伏せた状態で唇を結んでいた。
そして私は、このホールの空気をかき乱すことを承知で駆け出した。
両側から近づいてくる警備員と、もう一人、新たに背後から速足で近づいてくる気配。
制服姿で客席の間を駆け出した中学生に、観客が次々に動揺の声を上げ始める。
「唄子!」
叫んだとしてももう届かない。
分かっていても、私は叫ばずにはいられなかった。
「君、どういうつもりだ」
右腕を掴む警備員の手。
やがて左腕にも大きな手が伸びてきた。
両腕を掴まれ、後ろから羽交い絞めにされた私は、聴こえることのないその名をまだ呼び続ける。
「唄子!」
壇上に立つ唄子は、きっと観客の変化に気が付いたのだと思う。
そして、大勢の観客の視線の集まる私に唄子は目を向けた。
「あーあーかー!」
言葉にならない大きな声。
唄子は決して人前で発することのなかったその声で、私の名を呼んだのだ。
そして私は見た。
きらびやかな舞台から白いドレスを纏った少女が跳び下りるのを。
「唄子!」
警備員に押さえつけられながら、私は力いっぱい抗った。
「放して! 放せ!」
唄子が客席を間を抜けて走ってくる。
そして拘束されたままの私に向かって、唄子は飛び込んで来た。
「あああー」
「唄子、唄子」
その姿を目にした観客の一人が「放してやれと」声に出した。
そして、観客が口々に「放してやれ」と言い始めたことで、警備員は態度を軟化させ私を自由にした。
「皆さん、お聞き下さい!」
マイクを通していない声がホールに広がった。
私はその声に聞き憶えがあった。
「美津江さん……」
舞台のそでにいたであろう。
美津江さんはスーツ姿で舞台に立ち、大勢の観客の前で堂々と声を響かせていた。
「今日出演予定でした鳴瀬唄子さんのパートナー、志藤彩夏さんがこのホールにやっとお見えになりました。諸所の交通事情によりこの時間になってしまいましたが、駆け付けてくれた彩夏さんに皆さん温かい拍手をお願いいたします」
美津江さんの紹介で、私は拍手に包まれた。
「さあ、お二人とも、舞台へおあがりください」
さっきまで私を羽交い絞めにしていた警備員は、コロリと態度を変えて私を舞台上へとエスコートしてくれた。
唄子と私は手を繋いだまま壇上の美津江さんの横に並んだ。
「あらためてご紹介いたします。愛媛県立風ノ巻中学校からお越しくださった志藤彩夏さんです。皆様もう一度拍手を」
再びホールが拍手に包まれる。
舞台上で聴くその反響に気圧され、私は直立不動になってしまった。
「志藤彩夏さんと鳴瀬唄子さんはボランティア部を中学で立ち上げ、その活動を通じてお互いの友情を深め合いました。そんなお二人の合唱を今日は予定しておりましたが、先ほどご案内したとおり喉の不調のため、合唱は次の機会とし、お二人の紹介だけにさせて頂きます」
美津江さんが話しているのを唄子の母は静かに聞いていた。
私が乱入したことで起こったこの事態を、美津江さんが機転を利かせて収めてしまったので、ここは任せることにしたのだろう。
「彩夏さん、よく来てくれましたね」
美津江さんは私の耳元にそっと口を寄せてそう言うと、一歩後ろに下がった。
私と唄子には、そんな彼女の気遣いが分かった。
私は唄子の手を強く握り、スッと息を吸い込む。
「今日はコンサートに起こし下さり、ありがとうございました」
また拍手が湧きすぐに静かになる。
「ここへお越しくださった皆様に、感謝と謝罪をさせて頂きたく私はここへ来ました。本当はこの素晴らしいコンサートホールで歌を歌いたかったのですが、それが叶わず本当に申し訳ありませんでした」
また拍手が湧き、ところどころで「気にしなくていいよ」と声が上がった。
「いつか、また二人で皆様の前に立って歌いたい。私も唄子も強くそう思っています。その時が来ることを願いつつ、もう一度感謝の言葉を言わせてください」
そして私と唄子はお互いに笑顔を見せあった。
「本当にありがとうございました」
深々と腰を折って私と唄子は感謝を示した。
間に合って本当に良かった。
たくさんの拍手をもらい、私たちはゆっくりと顔を上げる。
そして、顔を上げた私の視界は奇跡の色で彩られていた。
「聴こえる? 唄子」
「うん。聴こえる……」
突然カラフルに彩られたコンサートホールに、私と唄子は圧倒されてしまう。
その様子に気付いたのだろう。
背後から美津江さんの声が聴こえて来た。
「行けますか? お二人とも」
私と唄子は振り返ってはっきりと声に出して返事をする。
「はい!」
再び観客席に向き直った私たちはもう一度腰を折って頭を下げた。
そして、今度は唄子が口を開いた。
「すみません。いつかって言ってましたが、どうやらその時が来たようです」
唄子の母が美津江さんに「あなたに任せるわ」と、アイコンタクトを取る。
美津江さんは一つ頷いてから、グランドピアノの前に座った。
少し観客がざわつく中、軟らかい最初のピアノの音がコンサートホールに広がった。
そして、滑らかな旋律が流れ出すと、観客のざわつきはピタリと止んだ。
「行くよ、唄子」
「うん」
そして私たちはスッと息を吸い込む。
世界に溢れるカラフルな歓びを、心のままに歌うために。




