第52話 少年の決意
漁協で待っていたおばあちゃんの息子さんは、港に停泊している船の中で一番速いクルーザーに私たちを乗せてくれた。
「すみません、こんなお願いをしてしまって」
「いいのいいの。母さんの頼みなら断れないし、それに君達には借りもあるしね」
私と康太を乗せたクルーザーが船着き場を離れると、律子先生が大きく手を振った。
「鳴瀬さんによろしくね」
「はい。ありがとう先生!」
こうして私たちを乗せた船は港を出た。
必ず時間までに送り届けると言ってくれたその言葉どおり、私たちを乗せた船は三宮にほど近い波止場へと三十分前に到着したのだった。
船を降りてからタクシーを拾って私たちはコンサートホールへと向かった。
しかし、神戸の街はどこもかしこも渋滞しており、タクシーはいつまで経っても目的地に到着しなかった。
「鳴瀬さんと連絡は取れた?」
康太も焦りを感じている様子で、そわそわしながら訊いて来た。
「駄目。多分もう唄子、準備に入ってるんだと思う」
時間が無い。焦る気持ちとは裏腹に、タクシーはまた渋滞に飲まれて止まってしまった。
「運転手さん。あとどれくらい掛かりそうですか?」
「この時間帯はいつもこんな感じなんですよ。そうですね、三十分……いや四十分くらいか……」
「すみません、ここで降ろしてください」
私と康太はタクシーを諦め、夕方でも熱気の残る神戸の街を駆け出した。
それから約ニ十分、スマホの地図アプリの案内で、私たちはコンサートホールまでの最短距離を走り続け、到着した。
既にコンサートは始まってしまっている。
クルーザーの中で着替えた制服を肌に貼り付かせながら、私たちは受付のカウンターへと向かい、そこにいた受付の女性に事情を話した。
「あの、今日のコンサートの関係者で……今日出演する鳴瀬唄子さんに取り次いで頂きたいんです」
「鳴瀬唄子……鳴瀬清美さんの娘さんですね。えっと、お名前をお伺いしても」
「志藤彩夏です」
受付の女性は内線電話で何やらやり取りをしたあと受話器を置いた。
「申し訳ありませんが、コンサートが始まっているので取次は出来ないそうです」
「急用なんです。お願いします。お願いします」
縋るように必死な中学生に根負けしたのか、受付の女性は席を立った。
「私が行って少し様子を見てきますので、このままお待ちください」
受付の女性が奥へ消えてから、私はその場で立ち尽くしたまま帰って来るのを待った。
「アーちゃん」
声を掛けてきた康太の手には、スポーツ飲料のペットボトルが二つあった。
「走りづめで喉乾いただろ」
「うん」
冷たい液体が喉を通っていく感覚で、自分が相当乾いていたことに気が付いた。
余裕のない自分を気遣ってくれた幼馴染がとてもありがたかった。
やがて、ペットボトルの液体を飲み干してからしばらくして、受付の女性は戻って来た。
「お待たせいたしました。運営スタッフに問い合わせたところ、コンサート終了まではお取次ぎできないと回答がありまして。終わり次第私の方で案内させて頂きますが、それで宜しいでしょうか」
丁寧に応対してくれた女性だったが、それでは間に合わない。
私はたった今思いついたことを女性に尋ねた。
「当日券ってありませんか。それで中に入りたいんですが」
「すみません。予約チケットも当日券も完売しておりまして、もうこれ以上お客様は入場できないんです」
「ここまで来たのに……」
うなだれてしまった私の手を康太が掴む。
「行こうアーちゃん」
「……」
康太に手を引かれるまま、私は外へと連れ出された。
そして私は康太の手を力いっぱい振り解いた。
「ここまで来て諦めたくない!」
「僕もだよ」
「えっ?」
そして康太はスマホの画面を私に見せた。
「さっき受付の人が聴きに行ってくれている間に、プランBを考えておいた。いいかい、これは館内の案内図だ。さっきいた受付から階段を上がって会場に入る様になっているだろ」
「うん。そうみたいだね」
「いいかい、階段はこことここの二つだ。受付にいた警備員は二人。僕はこっちの階段から二階の会場を目指す」
「なに言ってるの? すぐに捕まっちゃうよ」
「それでいいんだ」
おかしな事を言い出した幼馴染は、少し無理をしているかのように笑って見せた。
「警備員は多分二人とも僕を追いかけてくる。僕が充分彼らを惹きつけたのを見計らって、アーちゃんはもう一つの階段へ走るんだ」
「囮になるってこと!?」
大胆不敵な突拍子もない計画に、私は思わず声を上げてしまった。
「単純な作戦だけどきっと成功する。アーちゃんはそのまま会場に入って客席を通って舞台まで走るんだ。鳴瀬さんと合流出来れば取り押さえられることはないはずだ」
「でも、それじゃあコータが」
康太はあまり余裕のない笑みを浮かべたまま白い歯を見せた。
「大丈夫だよ。足には自信があるんだ。アーちゃんは知ってるよね」
揺らぐことの無い少年の決意は私に伝わった。
「うん」
頷いた私の肩に康太がそっと手を置く。
「時間が無い。もう一度二人で館内に入った後、僕は受付に行くそぶりを見せて思い切りダッシュするから、あとは手はずどおりに。いいね」
「うん」
そして、康太は作戦を本当に実行した。
「こら待て!」
ダッシュで階段へと向かった康太に、ワンテンポ遅れた二人の警備員が声を上げながら追っていく。
私は計画どおり、充分惹きつけたのを見計らってもう一つの階段へと駆け出した。
「あっ! お客様!」
さっきの受付の人の声が背中に聞こえてきたけれど、私は無我夢中で階段を駆けあがり、会場の重たい扉を開いた。
そして扉を開いたと同時に、私のモノクロの視界には、広大なコンサートホールの舞台に立つ鳴瀬清美とその娘、鳴瀬唄子の姿が飛び込んで来た。




