第51話 終わり行く夏
家を出た私たちは、急いでバス停まで自転車を飛ばしたが、すんでの所でバスを逃してしまった。
「行ってしまった……」
排気音を残して行ってしまったバスを、汗だくの私たちは肩で息をしながら見送り顔を見合わせる
「まだだ。ちゃんと次の手があるから」
息を切らせたまま、康太はスマホをポケットから取り出すと、すぐに電話を掛けた。
「もしもし、大江先生。お休みのところすみませんが……」
私の頭の中にもあった最後の手段。
同じことを考えていたようで、康太は律子先生に助けを求めた。
そして短いやり取りのあと、顎からポタポタと汗を滴らせながら、康太は少しホッとした顔で電話を切った。
「すぐに行くからそこで待ってろって」
木陰に自転車を並べて停めて、私と康太はひと息つく。
県道を挟んだガードレールの向こうには、きっと美しいであろう海が広がっている。
時折吹いてくる優しい潮風に吹かれながら、私たちはあと十分ほどで到着するであろう律子先生の車を待っていた。
「ありがとう」
意外と素直に、私は並んで陽射しを避ける康太に感謝を伝えていた。
「コータのお陰だよ」
「いいんだよ。それにお礼を言ってもらうのは間に合ってからかな」
照れ隠しか、コータは私の方を見ようとせずに道を挟んだ海を見ている。
「小学校の時、アーちゃんとは何度も海で遊んだね」
「うん」
「あの頃はホントに楽しかったな」
懐かしい記憶が浮かんだのか、少年の横顔に少し笑顔が浮かんだ。
「コータが野球にはまって、遊ばなくなってけど」
ずっと昔に感じた淋しさを、何故か私は今言葉にしていた。
懐かしい記憶に心を動かされたのはきっと私の方だった。
「本当は野球なんてしたくなかったんだ……」
海に目を向けたまま、少年がぽつりと呟いた。
「憶えているかい、父さんに連れられて嫌々参加した草野球の試合で、僕が代打でバッターボックスに立った時のこと」
私はそのことをよく覚えていた。当時少年野球の監督をしていた康太のお父さんが、チームの練習試合の最後に息子を打席に立たせたことを。
まあ、一度バットを振ってみろと送り出され、一度も出番の無かった少年は、体に見合わない大きなバットを握りしめ打席に立った。
「三球三振。振り遅れて一球もかすりもしなかった」
康太は苦笑いを浮かべながら、その時のことを静かに振り返った。
「でも、応援席にいたアーちゃんは精いっぱい応援してくれたんだ。かっ飛ばせ―って」
そう言えば打席に立った康太を私は必死で応援した。
そして三振して打席を降りた少年と同じかそれ以上に、あの時の私は悔しがった。
「アーちゃんの前でホームランを打とう。あの時そんな目標が出来たんだ。今日は惜しかったねって言うのが、今日はかっこ良かったねって言われるようになりたかったんだ」
ほんの少し頬を赤らめたまま少年は海を見つめる。
「恥ずかしながら、実はまだ試合でホームランを打ったことはないんだ。それでね、今も打席に立った時、あの時のアーちゃんの声が聴こえる気がするんだ。そして今度こそってバットを振るんだ」
頬のあたりがやたらと熱い。冷たいペットボトルで冷やしたい。そう思った。
「だからさ、こうして今アーちゃんを応援できるのが嬉しいんだ。ボランティア部の助っ人を頼まれたときだってそうだった。君のために何かを出来るのなら僕は何だってする。これまでも、これからも……」
「う、うん……ありがとう……」
海を観ていた少年はいつの間にかうつ向いて足元に目を向けていた。
そして私も同じように、うつ向いたまま口ごもる。
ツクツクボウシの鳴き声が私たちの沈黙に割り込んでくる。
その声は、どこか切ない夏のエピローグの様に私には感じられた。
「あ、来たみたいだよ」
そして、おおよそ時間通りに到着した律子先生の車に、私たちは乗り込んだ。
車に乗り込んですぐに、律子先生は高速道路の乗り口にハンドルを切った。
「少し急ぐわよ」
海沿いを疾走する律子先生の小型車は、今日はかなりスピードが出ていた。
「三宮だったわね」
「はい」
海岸線の県道を私たちを乗せた車は軽快に走っていく。
緩やかなカーブを過ぎて、高速道路の乗り口の案内標識が見えた時、後部座席の康太がいきなり声を上げた。
「先生、少しマズい感じです」
「どうしたの?」
康太は手元のスマホの画面を見ながら、そこに書いてある内容を告げた。
「川之江ジャンクションでトレーラーが絡む事故だそうです。車線を塞いでいるそうで今のところ復旧は未定だそうです」
「マズいわね……」
律子先生は方向指示器を出して、車を路肩に停めた。
「山田君、遠回りになるけど、しまなみ海道は?」
「兵庫県に入るまで何か所か渋滞してます。多分間に合いません」
「……高速は使えなくないか……でも下道じゃあ到底間に合わない……山田君、神戸行きのフェリーの便は?」
「いま見てますが、神戸行きの便はもう出てしまってます」
「八方塞がりね……」
律子先生はハンドルに体重を預けるようにして、大きなため息を吐いた。
「高速艇とかないんですかね」
単なる思い付きで口に出した私の言葉に、康太が残念そうに返事を返す。
「残念だけど、そう言ったのはそもそも無いみたい」
停車した車の中で、時間だけが過ぎていく。
仕方ないと諦めることが正解なのだろうが、私は諦めたくなかった。
「まだよ……」
律子先生はハンドルを握り直し、車をUターンさせた。
「志藤さん、前に人形劇で訪問した介護施設の電話番号、あなたのスマホに入ってない?」
「え? はい。入ってますけど」
「じゃあ、あの耳にハンデのあったおばあちゃんのいる施設に電話をかけて」
「あ、はい分かりました」
先生は何か名案を思い付いたみたいだ。
ボランティア部の部長だった私は施設と打ち合わせで連絡を取り合っていた経緯があったので、電話番号はスマホに登録していた。
「もしもし、風ノ巻中の志藤と言います。あ、はい。こちらこそその節はお世話になりました」
「志藤さん、スピーカーにして」
「あ、はい」
スピーカー通話に切り替えると、律子先生は運転をしながら先方の施設長と話し始めた。
「ボランティア部顧問の大江律子です。その節はお世話になりました。実は少しお願いがございまして……」
それから律子先生は施設長にお願いして、あの耳にハンデのあるお婆さんとビデオ通話をさせて欲しいと願い出た。
施設長は少し訝し気な感じだったが、すぐにビデオ通話のことを了承し、あらためてこちらから掛け直しますと言ってくれた。
一旦電話を切ってから、私はすぐにこれはどういうことなのかと律子先生に問いかけた。
「志藤さん、先方からビデオ通話が掛かってきたら、あなたは手話を使っておばあちゃんにこれから言うことを頼んでみて」
「手話でですか?」
「ええ、最近はかなり上達したでしょう。あなたならできるわ」
そして私がその内容を聞いてすぐに先方からのコールが入った。
私は緊張しながらビデを通話を始める。
「志藤彩夏です。おばあちゃんにお願いがあります」
律子先生から言われたこと。それはおばあちゃんを通じて漁協に勤めている息子さんに船を出してもらうことだった。
突拍子もない厚かましいお願いだとは分かっていたが、おばあちゃんは私のつたない手話に付き合ってくれたあと、その申し出を了承してくれた。
唄子ちゃんとあなたのためだったら何だってするよ。
おばあちゃんはゆっくりとした手話で私にそう伝えてくれた。
私は涙をこらえながら、何度も何度も感謝を伝えた。
それから、幾度かやり取りを繰り返したあと、漁協の息子さんが快諾してくれたことをおばあちゃんは伝えてくれた。
ビデオ通話を終えた私は、そのことを律子先生に伝える。
「漁協ですぐに船を用意してくれるみたいです」
「良かった」
漁協まではもうすぐ。
律子先生の車はタイヤを鳴らしながらコーナーを抜けていく。
「唄子、待っていて」
願うように胸の前で手を合わせながら、私はそう呟いた。




