第50話 走り出す心
窓から見える遠い海。
夏休み最後の土曜日、私は鮮やかさの欠片も無いモノトーンの海をぼんやりと眺めていた。
あの日以来、私たちがずっと享受していた奇跡が再び起こることはなかった。
私たちはそれぞれ色彩と音を喪失し、奇跡が終わってしまったことを実感させられ、それを受け容れた。
そしてコンサート当日の今日、私は悶々とした気持ちのままで、空調の効いた部屋で何もすることなく過ごしていた。
「唄子、どうしてるかな……」
恐らく唄子は昨日から、神戸に入っているはずだ。
先日、メッセがあり、もう歌えないけれど、母親について神戸のコンサートへ行くと唄子から連絡があった。
自分が歌を歌うことを楽しみにしてくれていたお客さんもいたかも知れない。唄子はそんな風に思い、舞台上で急な中止を謝罪することを望んだのだった。
恐らく今回の私たちの合唱は、コンサートの合間にあるささやかな余興だったのだと思う。
唄子はそのたった五分程度の舞台に情熱を傾け、たくさん練習してきた。
そこに彼女の深い思い入れがあったのは間違いない。
そのことを私は痛いほど感じていた。
「ごめん唄子。私のせいだ……」
気が付くと、こうして私は独り言のように後悔を繰り返し呟いていた。
私の波長が乱れ、唄子の波長に寄り添えなくなってしまったことで、彼女の大切にしていた夢を壊してしまった。
本当は一緒に神戸に行って謝るべきなのかも知れないが、もう歌えなくなった唄子を見るのが私には辛かった。
ピンポン
訪問者を告げるドアチャイムが、物思いに耽っていた私を呼び戻す。
気分の重さがそのまま体重に乗っかって来たかのように、ため息交じりに腰を上げた私は、部屋を出て階段を降りた。
「なんだ、コータか」
玄関扉を開けて目にした坊主頭の幼馴染に、私は少し感じの悪い対応をしてしまった。
「アーちゃん、どうしてここにいるんだ?」
明らかに康太は訝し気な表情をしている。
それはそうだろう、ずっと前からこの日はコンサートに行ってくると康太には予告していた。
「ごめん。それ、キャンセルになって……」
説明するのも面倒な程、私の心は重く沈んでいた。
康太はそんな私の様子に何かを感じ取ったのか、余計に踏み込んできた。
「何かあったんだね」
「まあ、そうかな……でも、もう終わった話なんだ。だから心配しなくていいよ」
そこで話を終わらせようとした私の腕を、康太は突然掴んできた。
「駄目だよ。詳しく話して」
いつも少し気弱な幼馴染は、少し近すぎると感じるくらい私に詰め寄って来たのだった。
溜め込んでいたモヤモヤを誰かに聞いて欲しかったのか、私は今回コンサートに行かなかったことのあらましを全て康太に打ち明けた。
「そうか、二人の限界突破はもう……」
「うん。だから唄子はもう舞台で歌えないんだ」
事情を知った康太は、何やら必死で考え込む。
そして、しばらく悩ましげな顔で黙り込んだあと、康太はやっと口を開いた。
「アーちゃん、コンサートって何時から?」
「えっと、午後五時からだけど」
真剣な表情の康太に、私は反射的に応えた。
康太はそのままポケットに入れてあったスマホで時間を確認し、しきりと何か操作をする。
「何をしてるの?」
「高速バスの時間、調べてるんだ。」
「えっ? どういうこと?」
その行動が理解できずに聞き返すと、康太スマホの画面を見たまま、簡潔に応えた。
「アーちゃんは鳴瀬さんの所に行かないと駄目だ」
はっきりとした力強いその言葉に戸惑いを感じつつ、私は率直に訊き返す。
「どうして? 私が行ったとしても何も変わらないじゃない。何言ってるの……」
「それでも二人は一緒じゃなきゃダメなんだ!」
私の声に被せるように、康太は力強く思いを言葉にした。
「たとえ声を出せなくても、アーちゃんは鳴瀬さんと一緒にいなきゃ駄目なんだ。舞台で歌を歌って拍手を浴びるときも、歌えなくてお客さんの前で恥をかくときも、鳴瀬さんはアーちゃんと一緒がいいって絶対に思ってる。アーちゃんはどうなんだ!」
そうか。
幼馴染の必死の訴えに、私は気付かされた。
唄子はいつも私と思い出を作ろうとしていた。
私たちに起こった奇跡はきっかけであって、親友と呼べる友達になったのはハンデを乗り越えるためではない。
声が出せないから、歌えなくなったから一緒にいない。
そんなの駄目に決まってるじゃない。
ごめん、唄子。
「高速バスの便、どうなってる?」
私の問いかけに、康太は一つ頷いてスマホの画面を見せた。
「神戸三宮への便が出るまであと一時間。まだ間に合うかも知れない。急ごう」
そして私と康太は、慌ただしく支度を済ませ家を出た。




