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第49話 奇跡の終わり

 父のお盆休みが終わりかけた頃、気まぐれな台風が私たちの住む港町にたくさんの雨を降らせた。

 それなりに近くを通った台風はそれほどの被害も出さずに通り過ぎ、私の周囲はまたすぐに、ありふれた夏休みの景色に戻った。

 唯一変わったことと言えば、海から吹く風だけがほんの少しだけ涼しくなったこと。

 じっと居座っていたうだるような暑さがひと段落したことで、確かにそこにあった一つの季節がゆっくりと移り変わろうとしている兆しを私は感じていた。


 高台に建つ唄子の家からは、胸のすくような青い海が一望できる。

 唄子の部屋での勉強中、手を止めた私は、北向きの窓から見える遠い海をぼんやりと眺めていた。


「もうすぐだね」


 唄子の言ったその言葉の意味に、私の心は少しざわつく。

 八月の最終週の土曜日、神戸でのコンサートがある。

 たった一曲だけだけれども、私は唄子と共に舞台に立たなければならない。

 胸の中にある愁いを表情に出さないよう気を付けながら、私は当たり障りのない返事をする。


「そうだね。いよいよだね」


 あれからも時々、接触しているにも拘らず、私と唄子のハンデを超える力は何度か途切れていた。

 そしてその回数は、少しずつだが確実に増えていた。

 私と唄子はそのことについて、まだ唄子の母には話していなかった。

 それは、そのうちに元に戻るだろうと言った希望的観測からではなく、一時的なものであって欲しいという強い願いが、私たちにそれを認めることを拒ませていたからだった。

 能力を喪失してしまう。この時そんな恐怖を抱えていたのは私だけではなく、唄子も同じだったに違いない。


 トン トン トン


 ノックの音がして美津江さんが大きなトレーを手に、部屋へと入って来た。


「お二人とも、少し休憩にしませんか」


 勉強は美津江さんのお陰で順調だった。

 私は苦手科目を重点的に指導してもらい、唄子は彼女から主に語学を学んでいた。

 美津江さんはどういう訳かスウェーデン語も堪能で、唄子は全く何を話しているのか内容の分からない会話を、時折美津江さんとやり取りしていた。


「今日はタルトに挑戦してみたんですよ」


 美津江さんは本当に器用な人だった。

 彼女の手作りの苺のタルトはほっぺたが落ちそうなほど、程よい甘さで美味だった。

 こうして唄子の家へと通う理由のは勿論勉強のためではあったが、半分は彼女の作る甘くて美味しいものに引き寄せられていたからに違いない。


「美味しい。また太っちゃいそうです」

「ホホホ、ご心配なく。彩夏さんはもうちょっとお肉を付けた方がいいくらいですよ」

「そうですかね……」


 この調子だと、私は美津江さん好みの感じまで肥え太らされてしまうのだろう。

 そうなる前に、私は彼女の作る甘くて美味しいものに抗うことができるのだろうか。

 はっきり言って自信は無かった。


 タルトを綺麗に平らげて談笑していた時に、美津江さんはとても穏やかに、いつもはすることの無いささやかな提案をしてきた。


「どうでしょう。これから少し歌のレッスンをいたしませんか?」


 美津江さんが歌に関することを提案してきたのは初めてだった。

 きっと気まぐれではないであろう彼女の意図を、私だけではなく唄子も不思議に思ったに違いない。


「美津江さんが見てくれるんですか?」


 私がそう尋ねると、美津江さんは笑顔で小さく頷いた。


「ええ、僭越ながら伴奏は私がさせて頂こうかと。お二人がいいと仰るならですが」


 私と唄子はほぼ即答で美津江さんの提案を了承した。

 それからすぐに一階の音楽室へと移動し、唄子と私は手を繋ぐ。


「お二人とも、楽しんで」


 そう言ってグランドピアノと向かい合った美津江さんは、姿勢を正し指を鍵盤に掛けた。


 とても繊細で優しい旋律。


 何度も聴き、何度も弾いた曲なのに、それは私が聴いたことの無い音だった。

 繋いだ手から唄子の興奮が伝わって来る。

 そして私たちは同じタイミングでスッと息を吸い込んだ。


 空にひかる星を 君とかぞえた夜

 あの日も 今日のような風が吹いていた

 

 あれから いくつもの季節こえて 時を過ごし

 それでも あの想いを ずっと忘れることはない


 大切なものに 気づかないぼくがいた

 今 胸の中にある あたたかい この気持ち


 唄子の声と私の声。

 ピアノの旋律が私たちを優しく包み、前へと運んでいく。

 いったいここはどこなのだろう。

 それは唄子と手を繋いで、どこか素敵な場所に迷い込んでしまったかのような感覚だった。

 弾むような伴奏は、私たちをさらにその先へと運んでいく。


 くじけそうな時は 涙をこらえて

 あの日 歌っていた歌を思い出す


 がんばれ 負けないで そんな声が聞こえてくる

 ほんとに 強い気持ち やさしさを教えてくれた


 いつか会えたなら ありがとうって言いたい

 遠く離れてる君に がんばる ぼくがいると


 ああ、楽しい。

 この旋律でなら、唄子と一緒にどこまでも走っていける。

 湧き上がってくる喜びに、どうしても声が震えてしまう。


 大切なものに 気づかないぼくがいた

 一人きりじゃないこと 君が教えてくれた

 大切なものを……


 二人の声と優しい伴奏が混ざり合い、独特の余韻を残して音楽室は再び静かになった。


「あの……」


 夢からさめたような感覚の中で、私の口からは自然と声が出ていた。


「もう一度。もう一度弾いてもらえませんか?」


 私が願うように申し出ると、続いて唄子も口を開いた。


「美津江さん、私も歌いたい。もう一度お願いします」


 熱のこもった私たちに美津江さんは笑顔を返す。


「ええ、良いですよ」


 アンコールに応え、美津江さんがもう一度鍵盤に指を置いた時だった。


「何をしているの」


 ドアを開けて部屋へ入ってきたのは唄子のお母さんだった。


「コンサートのことにはもう関わらないで下さいって、美津江さんには言いましたよね」


 厳しい口調。あの日二人の意見がぶつかってから、恐らくずっとこんな感じなのだろう。


「すみません奥様。ついお節介をしてしまいました」


 美津江さんは席を立って一礼すると、「失礼します」とひと言残して部屋を出て行った。

 そして、美津江さんがいなくなってしまった部屋の空気は重苦しい物へと変わってしまった。


「美津江さんにピアノをお願いしたのは私たちよ。何もあんな言い方しなくても」


 唄子の抗議を聞き流すように、母親はグランドピアノの前に腰を下ろした。


「あの人は部外者よ。さ、今度は私が弾くから、練習を続けましょう」


 伴奏が始まり、再び私たちは同じ歌を歌い出す。

 完璧なピアノ伴奏なのに、さっきと何かが違う。

 心の中がざわつく。

 隣で歌う唄子の声が少し遠い。

 早く……早く終わらないかな……


 あっ


 突然視界に入る景色が色彩を失った。

 そして同時に、ロングトーンを響かせていた唄子の声がピタリと止んだ。


「どうしたの、二人とも」


 きっと母親の声は唄子に届いていないだろう。

 確かにそこにあった奇跡は、コンサートの日が来るよりも前に、私たちの元から去っていった。

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