第48話 共感する力
八月の過酷な暑さの中、鳴り止むことの無い蝉の声のシャワーを浴びつつ急こう配の坂を上がり、私は夏休み中の学校へとやって来た。
「ふー」
校門の前で私は一旦脚を止め、額に浮き上がった汗を拭う。
不快だった体に張り付いた夏服が、丘を駆け上がって来る風に吹かれて、ひんやりと心地良い。
しかし、ひどい激坂だ。
一気に上がりきった私の太腿とふくらはぎは見事にパンパンになっていた。
夏休みに入って約三週間、適当に自転車には乗っていたが、脚の筋力が落ちていることを私は痛感させられた。
「さて……」
肩に掛けた小さめのクーラーボックスには、駄菓子屋に寄って購入したアイスが入っている。
これは今日も部活に出ているであろう後輩への差し入れにと用意したものだ。
私は久しぶりの校舎に入り、そのまま保健室へと向かう。
教室棟はやけに静かで、部活をしている生徒の気配はあまり感じられない。
別棟に向かう渡り廊下に差し掛かると、ようやく体育館から運動部の賑やかな声が聴こえて来た。
普段の学校らしさに心地よさを覚えつつ別棟に入ると、私は先にボランティア部の部室へと寄った。
「あれ? いないや」
教室は空だったが、机の上には鞄が二つ無造作に置いてあった。
「奉仕活動中みたいね」
ミャー子たちにはまたあとで会いに来ることにして、私は保健室の戸を開けた。
「おはようございます」
暇を持て余すように雑誌を眺めていた律子先生は、保健室に入って来た私に意外そうな顔を見せた。
「あら、今日はどうしたの?」
私は肩に掛けていたクーラーボックスを開いて、中に入っているアイスを見せた。
勿論律子先生のぶんも買ってある。
「差し入れです。まあ、息抜きってやつですよ」
「気が利くわね。冷凍庫に入れときましょう」
律子先生はアイスを部屋の隅にある冷凍庫に移すと、アイスコーヒーを淹れてくれた。
「外は暑かったでしょう」
「はい、坂を登ったらもう汗だくで」
シロップを多めに入れた冷たいアイスコーヒーで喉を潤すと、一気に涼しくなった。
「エアコンありがたいですねー」
「ええ、ずっとつけっぱなしだから、時々生徒たちも涼みに来たりするのよ」
男子生徒はどうか知らないが、一部の女子生徒が特に用もないのに保健室に遊びに来ていることは知っていた。
エレガントさと奔放さを併せ持つまあまあ美人の律子先生は、女生徒の間でカウンセラーとしても親しまれ、結構人気があった。
律子先生も生徒たちの相談を聴くのはやぶさかではないようで、少女たちの恋の相談などを色々と聞いてはアドバイスしているようだった。
もっとも私には相談するような恋話もないし、そもそも律子先生には絶対に話さない。
きっと律子先生は生徒たちの恋愛事情を肴に酒を飲んでいる。間違いない。
「ところでミャー子たちは?」
部室にいなかった後輩たちの行方を尋ねると、律子先生は少し考えるような仕草をした。
「うーん、多分この時間なら野外ステージかな。夏場は園芸部の助っ人で一日おきに水やりをしてるみたい」
先生はあんまし活動内容に精通していないようだ。
まあ、良いように捉えれば、放っておいても安心だということなのだろう。
「それより、何か話があるんじゃないの?」
いきなり核心をついて来た律子先生に、私は少し吃驚させられた。
時々、律子先生はこんな感じで的を正確に射抜いてくる。
「はい。実は先生に相談があって……」
今日学校まで足を運んだのは、律子先生にあることを相談したかったからだ。
私は姿勢を正すと、先日唄子との間に起こった異常現象について話し、率直な意見を求めた。
「接触していたにも拘らず、いきなり二人の限界突破が解けたというのね」
「はい。またすぐに元に戻りましたけど」
最初に海で異常現象が起こって以来、二人にはあと二回ほど同じ現象が起こっていた。
「もう少し詳しくその時の状況を教えてくれる?」
「はい。一度目は二人で並んで海を見ていた時、唄子と一緒に合唱曲を歌っていた時でした。二度目は唄子の家で勉強をしていた時です。その時はただ並んでテキストを解いていただけだったんですが……」
「三度目は?」
「三度目は昨日、たまには気晴らししようって二人で出掛けたその先で……」
立て続けに異常状態に陥ったことで、唄子は勉強のストレスからこうなったのだろうと私を街へと連れ出した。
二人で映画を観て、カフェで甘いパンケーキを食べて、私たちは楽しい時間を過ごした。
でも、モールで雑貨を見て周っていた時に、またアレは起こったのだった。
「話を聞いても、よく分からないわね……」
私の話をすべて聞き終わった後、律子先生は悩まし気に眉間にしわを寄せた。
「でも一つ引っ掛かってることがあるわ。ねえ志藤さん、どうして今日あなたは鳴瀬さんと二人で来なかったの?」
「それは……」
「まだ話していないことがある。そうじゃないの?」
真っ直ぐにそう質問されて、私はあまり触れたくなかったあの日の出来事を先生に話しておいた。
「そう、そんな話を立ち聞きしちゃったのね」
「はい。たまたま声が聴こえてきて」
今日ここへ唄子と来なかった理由、それはあの日扉ごしに聞いた話を唄子に聞かせたくなかったからだった。
「あなたが一人でここへ来たのは、そういう事情があったからなのね」
律子先生は少し考えを纏めるかのように腕を組んで、しばらく沈黙した。
「そうね……」
考えがまとまったのか、先生はやっと口を開いた。
「きっとこれはとても繊細な問題なのでしょうね。志藤さん、あなたたちの能力のことで私が前に言ったことを覚えてる?」
「はい、先生は私たちを接触テレパスだと言ってましたね」
「ええ、そのとおりよ」
以前先生は私たちの特別な力を、双子の持つ特殊な共感力のようなものではないかと言っていた。
そして、私と唄子の波長が奇跡的に近似していて、それを本能的にハンデを補うべく互いにチューニングしているのだと。
「最近異常状態が起こっていると志藤さんは言ったけれど、その状態はハンデのある二人には通常の状態。逆にハンデを克服していることが奇跡的なことだということを念頭に話をするわね」
「はい」
「日常的にハンデを克服してきたのは、恐らく奇跡的に二人の波長が噛み合っていたから。仮にそれを共感力と呼ぶとするなら、繊細な思春期の二人がお互いに求め寄り添うことで、これまで日常的にその共感力によって奇跡は起こり続けてきた。そうであるならば、こうは考えられないかしら」
そして、律子先生は今回私たちに起こったことについての核心に踏み込んだ。
「完全にシンクロしていた二人の波長は、もともと堅牢なものでは無かった。小さなノイズが紛れ込むことで簡単に乱れてしまうほどに。あの日あなたの心に起こった小さな波紋が理想的な波形の形を変えてしまい共感力の一方が乱れた。完全な波長の一致を乱したことで、今お互いの感覚の情報を共有できなくなっているのではないかしら」
確かにそうかも知れない。
先生の仮説が正しいとするなら、私の共感力はあの日を境に、正常な唄子の波長から外れだしたのだ。
「共感力の乱れを元に戻す方法はないんでしょうか」
「それは、私には分からないわ。たぶん誰も……」
相談できたとしても、簡単に解決できることではない。
仕方ないと分かっていても、ため息が出てしまう。
「そう深刻な顔しないで。あくまで私個人の見解よ」
言葉を失ってしまった私に、律子先生は優しく声を掛けてくれた。
「ただの勉強疲れかも知れないし、あまり深刻に考えないで様子を見た方がいいわ。私で良ければいつでも相談に乗るから」
「はい……ありがとうございます」
それからグラスに残ったアイスコーヒーを飲み切ると、保健室の戸が開いて、のぼせ上ったようなミャー子と節子が入って来た。
「あちー、せんせー、ちょっと涼ませて……あっ、先輩!」
パッと笑顔を咲かせて、ミャー子は私に駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? あ、ミャー子に会いに来てくれたんですね」
「うん。まあ、そんな感じ。それより二人とも、水やりご苦労様」
「そうなんですよ。まったくあの園芸部の二人ときたら、旅行かなんかで植物の世話を押し付けて来て、おかげで私たちはこの有様ですよ」
それから差し入れのアイスを皆で食べながら、私は汗だくの二人の愚痴を聞いてやった。
久しぶりの後輩とのお喋りを楽しみながら、私はふと唄子のことを考えていた。




