第47話 傷とほころび
唄子の家を出た私は、逃げるように家に帰った。
自転車で帰る途中、何度も唄子の母が言っていたことを思い出し、それを必死に振り払おうとしたけれど、鮮明に焼き付いた記憶は家までついて来た。
「声を出すための道具か……」
モノトーンの自分の部屋で、ベッドにうつ伏せになったまま、私はまた反芻してしまう。
稀有な才能を持つ唄子と平凡を絵に描いたような私。
大勢の観客が集まる大きな舞台で、唄子が輝くための道具として私は呼ばれただけ。
これまで誰もはっきりと言わなかったけれど、それは私も感じていたことだった。
「それはそうだよね……」
胸につかえるような憤りをこらえるようにして、ベッドの上で目を閉じていた私は、いつの間にかそのまま眠りに落ちていた。
「彩夏、彩夏」
揺り動かされて目を開けた私は、目をこすりながら母の顔をぼんやりと見上げる。
「お帰り。早かったんだね」
「寝ぼけてるの? もう夕方だよ」
時計を見ると、いつも母がパートを終えて帰宅する時間になっていた。
カーテンを引いていない西向きの窓からは、眩しい光が射し込んでいる。
多分部屋はオレンジ色に染まっているのだろうが、私のモノトーンの視界ではそれを認識することはできない。
どうやら思っていたより長い間眠っていたようだ。
「あんた鳴瀬さんの家に行ったんじゃなかったの?」
「うん、ちょっと今日は早く帰って……」
あまりされたくなかった質問に言葉を濁しつつ返事すると、母はやや首を傾げた。
「じゃあ、忘れものでもしたのかしら、あの子、いま家の前に来てるんだけど」
「えっ!」
一瞬で寝起きのぼんやりから脱却した私はベッドから飛び起きた。
すぐに部屋を出てバタバタと階段を降り、玄関の扉を開ける。
「どうしたの唄子?」
声は聞こえていないが、私に気付いた唄子は顔を上げてすぐに駆け寄ってきて、私の手を取った。
「なんとなく気になって。メッセ入れても既読つかないし、どうしたのかなって」
「ごめん。ちょっと寝ちゃってたから」
いつも一緒にいるせいか、私と唄子はお互いに相手の感情の変化に敏感だった。
表に出さないように気を付けていたが、唄子は私の心の変化を感じ取っていたに違いない。
そして唄子は私の心の中を覗き込むように、顔を近づけて来た。
「なんだか元気ないね。どうかした?」
「えっと、なんだか少し体がだるくってさ。夏バテかな」
「ふーん」
真意を探ろうとするかのように、唄子はじっと私の顔を凝視してくる。
その視線に耐えられなくなった私は、そのまま唄子の手を引いて歩き出した。
「どこへ行くの?」
「ちょっと涼しくなって来たし、ブラブラしようよ」
「まあいいけど」
蝉の声が落ち着いた坂道を下って私たちは県道に出た。
特に行くあての無かった私は、そのまま道路を渡って海に向かう一本道へと入った。
「昔よくここを通って、この先の砂浜で遊んだんだ」
潮の匂いが濃くなった狭い路地を抜けると、視界が開け夕焼けの砂浜が一望できる埠頭に出た。
「唄子のとこよりはこじんまりしてるけど、ここもけっこう遠浅でいい感じなんだよ」
砂浜に出た私たちは、海鳥の飛ぶ穏やかな海に向き合うように、適当な場所で腰を下ろした。
「なんだか久しぶり。昔はよくコータとここで遊んだんだけどね」
「へー、山田君と、二人で?」
何だか勘ぐってる?
何か言いたそうな唄子に、私は先にくぎを刺しておく。
「まあそうだけど、近所に遊び友達がいなかったから自然とそうなっただけ」
「思い出の場所ってわけね」
人の話聞いてないな。
色々と自分の面白い方向に解釈してそうな唄子を、私は言わせておくことにした。
「山田君は松ノ浜だったよね」
唐突に唄子は康太の進路の話をしてきた。
「そうだけど、この辺はだいたいみんな松ノ浜だよ。一番近いし」
少しは野球の強い高校に進学するのかと思っていたが、康太はあっさりと手近な高校に進学することを決めた。
順調に進学すれば、私たちは幼稚園から小中高まで一緒ということになる。
「山田君、また兼部してくれないかな」
ポツリと言ったそのひと言で、唄子が何を考えていたのかを私は知った。
高校で先輩たちのボランティアサークルを引き継ぐと言った私を、唄子は一人にならないかと気に掛けてくれていたのだ。
私が唄子のことを考えていたように、唄子も私のことを考えていた。そのことについては素直に嬉しく思った。
「高校の運動部は流石に兼部はきついんじゃないかな。コータは野球馬鹿だし、野球一本で行くと思うけど」
「そっか。やっぱ中学の部活みたいにはいかないよね」
唄子は夕日の美しい海に遠い目を向ける。
それからしばらく私たちは、言葉を交わすことなく緩やかな潮風に吹かれていた。
やがて少し風が強くなり、乱れた髪を唄子は気にしてかき上げた。
「ねえ、ここで歌わない?」
「えっ?」
「今日は練習できなかったでしょう。誰もいないし、ここで二人で歌おうよ」
そして唄子はスッと息を吸い込んだ。
「空にひかる星を 君とかぞえた夜 あの日も今日のような風が吹いていた」
砂浜に広がる伸びやかな歌声。
それは自分を解放した彼女の喜びそのものの様だった。
つい見入ってしまった私に、唄子は少し恥ずかし気な顔を向ける。
「もう、彩夏も歌ってよ」
私は唄子につられるように歌い出す。
そして隣で奏でられる美しい歌声を聴きながら、自分の歌声が酷くお粗末なことを痛感してしまうのだ。
唄子のお母さんが言ってたとおりだ……
あの時聞いた二人の会話が甦って来る。
声を出せば出すほど、私の胸は苦しくなっていった。
もう、やめたい……
そう思った時に異変は起こった。
「あっ!」
唄子と接触しているのに、私の視界から突然色が喪失した。
朗々と声を響かせていた唄子も、大きく目を見開いたまま呆然としている。
「あ、あ……」
言葉にならない声が唄子の口から漏れ出る。
私が色覚を喪失したように、唄子も聴覚を喪失したのが見て取れた。
「どうなってるの……」
焦りと動揺の中で、私と唄子は必死でお互いの手を握り合った。
「お願い、戻って……」
願うようにしばらくお互いの手を握っていると、突然、私の視界は鮮やかな色を取り戻した。
「唄子、聴こえる?」
「うん……今聴こえるようになった」
夕日の中でも分かるくらい、唄子の顔は蒼白だった。
動揺が顔色に表れているのは、彼女だけではないだろう。
「きっと疲れてるからだよ。今日はもう帰ろう」
砂浜から腰を上げて砂を払うと、私は唄子と再び手を繋いだ。
鮮やかな夕日の砂浜が視界にあることに私は安堵しつつ、唄子とその場を後にした。




