第46話 誰かの道具
コンサートのことで両親の思惑と真正面からぶつかった唄子は、散々拗ねた挙句、神戸で行われるコンサートの出演を受け容れた。
あれだけ怒り散らかしていた唄子が最終的に両親の願いを聞き入れたのは、恐らく私がなだめたからとかではなく、表現者としての彼女がそうすることを望んだからなのだろう。
八月に入り、私は毎日のように唄子の家に通い、受験勉強とささやかな歌のレッスンに明け暮れた。
歌のレッスンは毎日三十分程度。
気晴らしに丁度いいくらいの時間だったが、勉強時間を削って申し訳ないと、唄子の母は家政婦の美津江さんを私と唄子の家庭教師につけてくれた。
そして、美津江さんはお金を払ってでも習いたいくらいの優秀な家庭教師だった。
「美津江さんって、ほんっと何でもできるんですね」
「ホホホ、買い被り過ぎですよ。若い頃、教師の様な事もしておりましたので、人よりも少し慣れているだけですわ」
唄子の話では、美津江さんは若かりし頃、とある名門女子大に客員教授として在籍していたらしい。
専攻は微生物学だそうだが、高校受験程度で出題される問題なら、恐らく満点を取るだろうと言っていた。
そんな才女が何故家政婦に?
噛めば噛むほど味が出る、謎多き女性だった。
そんな賢者レベルの美津江さんに、私はある時、こんな質問をしたのだった。
「私たちに起こっているこのハンデを克服できる現象について、美津江さんならどういった解釈をしますか?」
小休止の終わり掛け、アイスティーを飲み終えた後に、最近は身近になり過ぎてあまり深堀りしなくなったテーマをぶつけてみると、いきなりだったからか、美津江さんは流石に少し首を捻ってしばらく黙り込んだ。
「そうですね……」
解答を導き出すのが困難なのか、美津江さんはまた黙り込む。
そして、ゆっくりと思考の海から彼女は戻って来た。
「……ひと言で言えば奇跡。視点を変えるとするならば運命とも言えるのではないでしょうか」
美津江さんの口から出てきたのは、科学的分析による見解ではなく、どこか哲学的なものだった。
「一人では無しえない現象を、二人は奇跡的に成し遂げた。それは運命的な出会いがあったから……同じ学校に通っていても肌同士が接触することはきっと稀でしょう。お二人が触れ合ったのは、転んで怪我をした彩夏さんにお嬢様がハンカチを差し伸べたからでしたね」
「はい。そうでした」
「恐らくそれが、繊細な思春期の少女の歯車をかみ合わせた瞬間だったのでしょう。それからは奇跡的に同じ波長を持つ二人が絶妙で完璧なバランスを保ち、今も日常的に奇跡を起こし続けている。推測できるのはそのくらいですね。実際のところ、お二人に起こっているこの事象を説明することは誰も出来ないと思います」
彼女の言うとおり、この不可思議に科学的な証明を示せる人はこの現代では存在しないだろう。
そもそも、それを解明するための実験材料にされたくはない。
「私は奇跡のメカニズムより、こうしてお二人が出会ったこと自体に特別なものを感じます。私の本心としては、このままお二人にはこれからも共に歩んで欲しいと思っていますが、この世界は特別な存在についてあまり寛容ではないみたいですね」
とても穏やかな口調のまま、美津江さんは言葉の最後に僅かな愁いを覗かせた。
「実はお二人を見ていると、女学生時代のことを思い出してしまうんです。私には上京して離れ離れになった幼馴染がおりましてね、中等部時代に自然科学研究部という誰も寄り付かない様な部活をその子と立ち上げて、今思えば馬鹿馬鹿しい実験を毎日のように真剣にやったものです」
懐かしい記憶の面影が甦ったのか、美津江さんの表情が柔らかくなる。
「あの頃は本当に毎日が輝いていた。二人でいるだけでこの世界がとても美しく見えた。都内の高等学校に進学して上京した私は研究者を目指し邁進しましたが、彼女のことを一日たりとも忘れたことはありませんでした」
私は彼女の言葉に今目の前にあるカラフルな世界を重ね合わせる。
そして、ふと私の口から短い質問がついて出た。
「その方は今?」
その問いかけに、美津江さんは小さく首を横に振って応えた。
「もう二十年ほど前に亡くなりました。若年性の癌で」
美津江さんは窓の外に広がる夏景色に静かな目を向ける。
その横顔に、私はどこか後悔の様なものを感じ取った。
「お二人を見ていると年甲斐もなくこう、胸のあたりがドキドキしてしまうんです。遠い昔に手放してしまったものの続きを見ているようで……」
そこまで話すと、美津江さんは少し照れ笑いの様なものを口元に浮かべ席を立った。
「ごめんなさい。少し感傷的になってしまいましたね」
美しいともいえるほどの慣れた所作で、空になったグラスを美津江さんは片付け始める。
私と唄子は、彼女に倣うようにして机の上を綺麗に片づけた。
「ではまた明日ですね。お二人ともお疲れさまでした」
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
最後に美津江さんは机の上を綺麗な布巾で拭いてから部屋を出て行った。
「美津江さんて、やっぱり不思議な人だね」
二人きりになった部屋で、私はあらためて感心してしまう。
そんな私に唄子は素直に共感を示した。
「うん。本当に」
やはり唄子にとって美津江さんは家族よりも近しい存在なのかも知れない。
海外に進学してしまったら、唄子は美津江さんとも別れなければならないのだろう。
せめてあの人が唄子と一緒にいてくれたなら……
私はそう遠くない未来に旅立つ親友のことを思い、また胸が痛くなった。
お盆を過ぎても暑さが和らぐ様子もない海岸通りを、今日も唄子の家へと向かうべく、私は自転車で疾走する。
右手には見慣れたモノトーンの海。
澄み切ったコバルトブルーの海が見られるのは唄子と一緒の時だけだ。
早いもので、ボランティア部を引退してもう半月が経った。
部活のことが気になっているだろうと思っているのか、ミャー子はしゅっちゅう写真を送って来る。
最近は園芸部と合同で、アドプトロードの整備をしている写真と、打ち上げで盛り上がっている写真を送って来た。
なんだか楽しくやっていそうな感じに、私はちょっと羨ましい気持ちになる。
とはいえ、こちらはこちらで家庭教師を引き受けてくれた美津江さんのお陰で、受験勉強は順調に進んでいた。
そう、あの話を聞くまでは。
「ねえ唄子、ちょっとここ教えてくれない?」
「ごめん、今制限時間つきの問題解いてるの。美津江さんに聞いて」
テキストを解いている時、難題にぶち当たった私は、唄子の部屋を出て、いつも美津江さんのいる一階のリビングへと向かった。
そしてノックしようとした扉ごしに、話声が聴こえて来たのだった。
「考え直して頂けませんか?」
美津江さんの声だった。しかしその声は明らかにいつもの穏やかな感じではなかった。
「差し出がましいとは存じてます。でも、このやり方はよくありません」
何か揉めている感じだった。それにしてもいったい誰と話しているのだろう。
「何度も言わせないで。もう決まったことなの」
苛立ちを含んだ声。
唄子の母の声だった。
「いいえ、引き下がれません」
毅然とした声で美津江さんは、さらに続ける。
「旦那様のパートと志藤さんのパートを同じにするのは、いくらなんでも酷過ぎます」
どうやら私のことで揉めているみたいだ。
私はいけないと思いつつ、扉に耳を近づける。
「何が言いたいの」
「お判りでしょう。あの広いコンサートホールでアカペラを行えば、旦那様の声量に志藤さんの声はかき消されてしまう。彼女をお嬢様の声を出すための道具の様に使うのはやめて下さいと申し上げているのです」
そこで会話がは途切れた。
その緊張を孕んだ沈黙の中で、私はここへ何をしに来たのかを忘れてしまっていた。
それからしばらくして、やっと唄子の母の声が聴こえて来た。
「じゃあどうしろって言うの。あの子はずぶの素人よ。今度のコンサートは前みたいな小さな舞台じゃない。アカペラで声がかき消されればあの子も恥をかかなくて済むでしょう」
それからも二人の話は続いていたのだと思う。
私は静かにその場を去り、階段を上がって唄子の部屋へと戻った。
「どう? ちゃんと説明してもらえた?」
部屋へ戻った私に、唄子はそう訊いて来た。
「うん。色々と分かった……」
平静を装いながらそう返事した私に、唄子は少し眉をひそめる。
「どうかした?」
「ううん、何でもないよ」
それから、私は午後から用事があるからと嘘をついて、家に帰った。




