第45話 今更の家族
朝の光の眩しい潮風の県道を、私は汗をいっぱいかきつつ自転車をこぎ、唄子の家を目指す。
ボランティア部を卒業した唄子と私は、夏休み中、お互いの家に行き来して受験勉強に勤しむこととなった。
別々の進路を選んだ私たちだったが、二人でいられる間は出来るだけ一緒にいようと決めたのだった。
ほぼ毎日の様に私が普通の受験勉強をする傍らで、唄子は主に語学を集中的に勉強していた。
スウェーデンの高校に進学することを決めた唄子は、向こうの人たちが日常的に使っている言語を学ばなければならない。
あちらの人の多くは英語を使って会話できるらしいが、唄子は日本にいる間にスウェーデン語をある程度習得しようと日々頑張っていた。
そういった勉強の傍ら、私と唄子は気晴らしも兼ねて、夏の陽射しが照り付けるあのバカヤローの砂浜に足を運んだ。
誰もいない砂浜で手を繋いで波打ち際を歩きながら、唄子は私以外には誰にも聞かれることの無い歌声を夏の海に広がらせる。
つられるようにして、私もあまり得意ではない歌を隣で一緒に口ずさむ。
そしてまた、私は思ってしまうのだ。
ああ、やっぱり唄子は音楽が大好きなんだな。
私はその美しい声を聴く度にそう感じてしまう。
そして、私たちの選んだ選択肢が正解であったのかを、また考えてしまうのだ。
もし私が唄子に寄り添うことを選んでいたなら……
「ねえ、ねえってば」
物思いに耽っていた私は、唄子の呼ぶ声に引き戻された。
「えっと……何か言った?」
「何か言ったじゃないよ、もう」
プッと膨れて見せたあと、唄子は手短に用件を伝えた。
「もう一度、コンサートの舞台に立ってみない?」
「は?」
いったい何を言い出すのやらと私が首を傾げると、唄子はいくぶん機嫌を窺うように顔を寄せてきた。
「八月の末に兵庫県の神戸市でお母さんのコンサートがあるの。前回ゲストで出演した私たちのことがファンの間で好評だったらしくて、出来ればもう一度サプライズ出演をお願いできないかって主催者側からオファーがあったんだって」
「ムリムリムリ! もうあんな胃の痛くなることは勘弁して」
きっぱりと拒絶した私の前で、唄子はキョトンとした顔をしている。
「え? 駄目なの? この間は彩夏も結構楽しんでた感じだったじゃない」
「それはあの場の雰囲気に流されただけ。帰ってからもう恥ずかしくって、思い出すたび羞恥に悶え苦しんでたのよ。気付かなかった?」
「まあそう言わずにさ」
絶対に嫌だと言い張った私に唄子は食い下がる。
天性の表現者である唄子はこういった機会に対して肯定的だろうが、どちらかと言えばあまり目立たない、ありふれた女子中学生の私は、積極的に人前に出ていくことに大いに否定的だった。
「もうそのことは忘れて、大人しく受験勉強しようよ」
「勿論勉強はするわよ。でもモチベーションって大事だよね」
駄目だ。この子、もうやる気になってる。
出会ってからずっと、唄子がこのモードに突入した時は、なんやかんやで丸め込まれ泥沼に引きずり込まれていた。
そしてそれは今回も例外ではなく、このままではこの頑固な相棒の勢いに私は飲み込まれてしまうだろう。
「何と言われようが今回は無理。頼むから勉強に集中して」
「じゃあ、ジャンケン。ジャンケンで決めようよ」
そして私の出した弱腰のチョキは、唄子の勢いのあるグーに敗けたのだった。
夏の終わりにある神戸でのコンサート。
それは前回の文化会館とは違う、本格的なコンサートホールで行われるコンサートだった。
その大きな舞台で、今回も前回と同様、コンサートの合間の余興として二人でアンサンブルを披露するのだと聞かされた。
練習時間に配慮してか、曲は前回弾いた合唱曲「大切なもの」のみ。
楽譜を見なくても弾けるようになった曲に、怖気づいていた私の心はいくらか楽にはなった。
それから私は仕方なしと腹を括り、音楽室のある唄子の家に夏休みの間は通うことになった。
快適な唄子の部屋でいつもの勉強を終えてから、私と唄子は一階にある音楽室でアンサンブルをする。
唄子は何度も歌った合唱曲を、大したことのない私の伴奏で、楽し気に伸びやかに今日も歌う。
その歌声は何度聞いても耳に心地良く、飽きることは無かった。
「なんだか楽しみー」
唄子はもう待ちきれないという感じで声を上げる。心はもう月末のコンサート会場にワープしている様子だ。
「そりゃあ、あんたはいいだろうけど……」
ちょっと不満を言ってやろうとした時に、音楽室の戸が音も無く開いて、唄子のお母さんが入って来た。
「あっ、お邪魔してます」
私は椅子から腰を上げて恭しく頭を下げる。何度も顔を合わせているけれど、有名なピアニストである唄子の母に、やはり緊張してしまう。
「いらっしゃい、志藤さん。申し出を受けてくれたと唄子から聞いたわ。本当にありがとう」
感謝の言葉の後、唄子の母は私の脇まで来て、その白くて細い指を鍵盤に掛ける。
そして合唱曲のフレーズを滑らかになぞった後、指を止めた。
「折角練習してくれているのに申し訳ないのだけれど……」
唄子の母は、何か言い出しにくそうにその先を続けた。
「今回の唄子とのアンサンブル、ピアノ伴奏は私にさせてもらえないかしら」
それを聞かされた私は、普通に戸惑ってしまった。
「え? じゃあ、私は?」
「お母さん、どういうこと?」
訊き返した私の声に被せるように、唄子はやや食って掛かる様に母に尋ねた。
どうやら唄子も足元を掬われた感じみたいだ。
「今回、志藤さんには唄子と一緒に歌ってもらおうと考えているの」
唄子からは前と同じだと聞かされていたので意外すぎて驚いたが、大勢の前でピアノを弾かなくてもいいということについてはホッとした。
「お母さんどうゆうこと? 前回と同じって言ってたじゃない」
やや安堵した私とは違い、唄子はやはり引っ掛かっているようで、さらに母親に食い下がった。
「そうね。二人にはきちんと説明しないとね……」
言い出しにくいことなのだろうか、母親の声のトーンが僅かに下がった気がした。
「実は今回のコンサート、主催者側の意向であの人も出演することになったのよ」
あの人と言った母親の表情を汲み取った唄子は、すぐにそれが誰であるのかを察したみたいだった。
「お父さんが? 一緒に?」
正解だったようで、母はあまり気乗りしていなさそうな表情で一つ頷いた。
「ええ、唄子の言うとおり、あの人、唄子と一緒に一度舞台に立ちたいって言い出してね……」
唄子の父は海外でも名の売れている声楽家だ。
母親がそうであったように、娘の唄子の歌声を聴いたことで、同じ舞台に立ってみたいと思ったのだろう。
「絶対に叶わないと思っていた夢が現実になる。私がそうであったようにあの人もその夢を叶えたいと思ったのね。私の知らない所で友情出演という形で娘と同じ舞台で歌えるよう、主催者に根回しをしていたみたいなの」
口調に苛立ちを覗かせながら母親は説明を終えると、私に向かって深く頭を下げた。
「志藤さん、家族のことに巻き込んでしまって本当にごめんなさい。こういったあの人の強引さは堪らなく嫌だけど、大きなコンサートで娘とアンサンブルをするのは私の夢でもあるの。多分この機会を逃せば私たちが家族として舞台に立つことはもうないと思う。だから……」
「そんなの勝手だわ!」
突然の唄子の激しさに、母親はその先言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
「耳が聴こえるようになって声が出せるようになったから娘とアンサンブルがしたい? 歌うどころか声も出せない娘をずっと見ようともしなかった二人が今さら何よ!」
唄子は顔を真っ赤にして、その憤りを一気に吐き出した。
それは唄子がずっと胸の奥に押さえつけていたものだと、私には感じられた。
「喧嘩ばかりしていた二人に、私がどんな気持ちだったか分からないでしょ。二人の喧嘩の原因が耳の聞こえない私だということがどれだけ辛いことか分かる? 私は二人の離婚を受け容れた。今更家族なんて言葉使って欲しくない!」
そして、溢れ出た涙を腕で拭うと、唄子はそのまま部屋を飛び出した。
「唄子!」
手を放した唄子には母親の声は届かない。
私は部屋を出て行った唄子を追うように部屋を出た。
階段を駆けあがっていった唄子に私も続いて階段を一段飛ばしで駆け上がる。
そして唄子は真っすぐに自分の部屋に駆け込んだ。
部屋の前で私は立ち止まり、一度大きく深呼吸してから扉を開けた。
「入るよ」
ベッドで膝を抱えている唄子の様子を伺いつつ、私は隣に腰を下ろした。
「えっと……」
掛ける言葉を用意していなかった私は、そこで沈黙してしまう。
言葉の出てこない私の隣で、唄子は膝を抱えたまま黙り込んでいる。
それから私たちは黙り込んだまましばらくの間そうしていた。
「なぐさめてよ……」
ポツリと先に口を開いたのは唄子の方だった。
「まあ、アレよ。家族のややこしいやつみたいだから、ちょっと遠慮しちゃうっていうか……」
「遠慮しないで、そこは入って来てよ……」
拗ねてはいるがいつもの唄子っぽかった。
しかし、どうにもやりにくい。
「まあ、こういう時はやっぱアレかな」
「アレって?」
「アレはアレよ。分かるでしょ」
私は拗ねっぱなしの唄子の手を取って部屋から連れ出した。
そしてそのまま家を出て、駆け足で坂を下り海へと向かった。
「アレってコレのこと?」
唄子が何だか残念そうに夕日の綺麗な海を指さす。
「そうよ。思う存分叫びなさい」
特訓で何度もお世話になった夕焼けの海。
唄子と私は息ぴったりに声を揃えて「バカヤロー」と叫んだ。




