第42話 憂鬱に染まる
梅雨が明けたと同時に夏の匂いが潮風と共にやって来た。
私たちの通う風ノ巻中学は不便な所に建っていたが、見晴らしだけは誰にも自慢できるくらいに良好だった。
教室の窓からは、今日も海から吹く風の向こうに広がるコバルトブルーの海が一望でき、私は授業を半分聞き流しながらその鮮やかなまどろみを唄子の隣で享受していた。
そんな私の頭をポンポンと誰かが叩く。
「どした、受験勉強のし過ぎか?」
何時の間にか浅い眠りに入ってしまっていたようだ。
気が付けば薄っぺらい教科書を手にした先生が、私のすぐ傍に来ていた。
「へへへ、すみません」
「なんだかお疲れだな。まあ授業中は目を開けておけ」
特に叱られることもなく先生は授業を再開した。
先生の眼から見て、私はよっぽど疲れているように映ったのだろう。
確かに最近はそれなりに受験勉強に勤しんでいる。だが、この疲労感の原因は別にあった。
私は唄子の様子をチラと窺う。
すると唄子も私と同じタイミングでこちらに目を向けた。
「へへへへ」
何となくやり辛い。
きっと唄子も私と同じものを感じているだろう。
唄子の母から進路の話を提示されてから、私はいま先の見えないトンネルで思い悩んでいる最中だ。
海外の音楽学校に唄子と共に来て欲しいと言われたが、そもそも自分の身の丈くらい分かっているので、音楽の道へ進むのなど論外だ。
食費も学費も住む所も、何もかもこちらで面倒を見させてもらうとあとで言われたが、そういう問題ですらない。
そうは言いつつも、唄子の力になってやりたいと思っている自分もいて、取り敢えず今は他に良い選択肢がないかと思案している最中だ。
相談できるのはあの人しかいない。
私は悶々としつつ、放課後が来るのを待つのだった。
放課後の保健室で向かい合った律子先生は、いつもと違い何だか疲れた様子だった。
「アイスコーヒーでいい?」
七月に入ってやたらと暑くなってきたせいか、冷たい飲み物を律子先生は淹れてくれた。
私たちはシロップをいっぱい入れたアイスコーヒーをストローでチュウチュウ吸いつつ、本題へと入った。
「あの、松ノ浜駄目だったって、唄子のお母さんから聞いたんですけど」
敢えて私はそのことを訊いておいた。駄目だったと聞かされてはいたが、どうしてももう一度確認しておきたかった。
「ええ、残念ながら」
あっさりと律子先生から帰って来た返答は、私と唄子の表情を再び曇らせた。
「鳴瀬さんは友人の補助があれば風ノ巻で普通の学生生活を送れているという実績がある。それを資料として纏めて出向いたんだけど、普通科であるうちの高校では鳴瀬さんのケアを出来ないと、一刀両断されてしまったわ。まったく、あの石頭たちときたら……」
その時の様子を思い出したのか、律子先生は忌々し気に語気を強めた。
私は少し引っ掛かっていることをここで聞いておいた。
「どうして同じ県立の普通科でも中学は行けて高校は駄目なんですか?」
「ああ、それは校長の……」
律子先生が説明してくれたのは内容は、つまりこう言うことだった。
便利の悪い立地条件、つまり結構片田舎に位置する風ノ巻中学では、可能な限り学校側が地元の生徒の負担にならないよう生徒や保護者の事情に寄り添うよう配慮し対応しているらしい。
そして、その方針はこの学校が建立された頃から脈々と受け継がれ、今もなお徹底して貫いているらしい。
「学校の校訓にもそう記されてあるでしょ」
「えっと、そうでしたっけ」
そう言われてみると、校訓が良く思い出せない。
というより、最初から校訓なんてものを私は気に掛けていなかった。
「信念、助け合い、思いやり。この機会に憶えておきなさい。テストに出るかもよ」
「テストには出ないと思いますけど、憶えておきます」
唄子も知らなかったらしく、私たちは二人揃って感心してしまった。
「と言うわけで風ノ巻では当たり前だったことも、外に出てみれば事情が変わって来る。二人にはその辺りのことを分かって欲しいの」
「はい」
それからしばらく律子先生と話したあと、私たちは保健室を後にした。
仕方ないのだろうが、何だかモヤッとしたものが胸の中に居座っている。
私はそのモヤッとしたものを溜めておくことができず、少し吐き出した。
「松ノ浜だってここよりは少し便利だと言っても、生徒数の少ない不便な学校でしょ。ケチ臭いと思わない?」
私の不満に唄子は何も返さなかった。
それはきっと、言葉にすることのできない程の憤りを感じているからだ。
繋いだ手をとおして、そう私は感じていた。




