第41話 二人の未来
唄子の母から聞かされたのは、思わず聞き返してしまった程の内容だった。
「志藤さん、あなた音楽をやってみない?」
「はい?」
何の才能も無い、凡人を絵に描いたような自分に投げかけられた提案に、ただ私は呆気に取られてしまった。
「突然でごめんなさい。実は夫と、いえ、元夫と唄子の将来について話し合ってね……」
母親は少し言葉を濁した。すると私より先に唄子の方から口を開いた。
「彩夏に音楽をしないかって、どういう意味?」
戸惑いを含んだ声色で、唄子はその真意を母親に問いかけた。
「そうね、順序だててちゃんと説明しないとね」
質問を受け止めた母は、静かな溜め息を一つつく。
「唄子、あなたは音楽をやりたいんでしょ」
肩に置かれた掌が、唄子の心の動きと連動するように、ぴくっと動いた。
「あなたは歌で自分を表現したい。そうなんでしょう」
核心をついた母親の言葉に、唄子は少し唇を開いたまま返す術を失っていた。
「もしそうなら音楽の専門知識を学べる学校へ進学して欲しい。私はそう願ってるの」
本心を娘に打ち明けた母親は、その手を額に当てて軽く目を閉じた。
「こんな話を娘とするなんて……」
動揺する娘の前で、唄子の母は同じ様に動揺している私に視線を向けた。
「はっきり言うわね。志藤さん、娘の未来はあなた次第なの」
「私次第って……」
唐突に投げかけられた言葉に、ただオウム返ししかできない私に、唄子の母はきちんとした説明をする。
「そのままの意味よ。あなたがいなければ唄子は歌うどころか、会話もできない。志藤さんだって唄子がいなければ、色彩感覚を失ってしまう。あなたたちはお互いに離れることのできない。いえ、離れてはならない存在だと思うの。想像してみて、この先お互いがいない未来を思い浮かべられる?」
それは私にとって特別な重さを持った言葉だった。
唄子と私は二人で一つ。
お互いに欠けてはならない唯一無二の存在だった。
二人一緒だからこそ、私はこの世界の美しさを享受し、唄子はこの世界に溢れる音を聴くことができる。
いつも二人でいることでその奇跡は日常化してしまっているが、唄子と私は特別を超えた存在だった。
「志藤さん、あなたは地元の高校に進学希望だったわね」
「はい。出来れば唄子と一緒に松ノ浜高校に進学したいです」
「それは無理よ」
唄子の母はバッサリと私の希望を否定した。
私はすかさず聞き返す。
「それは、どうしてですか?」
「それは松ノ浜が県立の普通の高校だからよ」
「つまり音楽の専門校ではない普通の高校だからですか?」
そう返した私は、彼女の言った意味を完全に取り違えていた。
そして、自分達の進路を単純に想像していた私は、次の彼女のひと言で思い切り頭を打つことになった。
「唄子は重度の聴覚障害者よ。普通の高校は受け容れてはくれないの。松ノ浜高校にはもう確認を取ったわ」
「そんな……」
言葉を失ってしまった私に、唄子の母は淡々とした声でその続きを聞かせた。
「日本で唄子の様なハンデのある子を受け容れてくれるのは特別支援学校だけ。つまり二人は同じ高校へ通うことはできない」
私は動揺したまま唄子に目を向ける。
すると、唄子は私の視線をスッと逸らして俯いた。
「唄子……知ってたの……?」
「うん。昨日の夜、お母さんから聞かされた……」
本当に同じ高校に通うのは無理なのだろうか。
何も思いつかない私の頭の中に、パッと律子先生の顔が浮かんだ。
「そうだ。律子先生は私たちを同じ高校へ進学できるよう応援してくれてました。きっと先生なら……」
「無駄よ」
唄子の母は落ち着いた声で、その先を続けた。
「実は松ノ浜高校にはその大江先生と行って来たの。先生は唄子のために頑張ってくれたわ。補助さえあれば日常的な高校生活を問題なく送ることができると、高校の担当者と掛け合ってくれた。でも、過去の聴力検査の結果を見せるよう言われてね」
唄子の母は一度言葉を区切った。落ち着いているように見えたが、その表情には諦めや悔しさといったものが見て取れた。
「この数値では、我が校で受け容れることは出来ませんとはっきりと言われてしまったわ。つまり、この国では唄子はろう学校以外に進学できる選択肢は無いの」
一連の話を聞いたあと、私は自分の浅はかさを知り、唄子の胸の中にある痛みを感じ取った。
「話を最初に戻すわね。唄子、志藤さん。私と元夫で話しあった結果、唄子はこの国で進学すべきではないという結論を出した。そしてあなたたち二人は同じ未来を進むべきだと考えて、私は志藤さんに唄子が希望しているであろう音楽の道を提案した。幸いスゥエーデンの音楽専門のハイスクールに親交のある学長がいてね、補聴器で声が出せるのなら受け容れましょうと言ってくれているの」
そして唄子の母は、その場で深く腰を折り頭を下げた。
「志藤さん、勿論あなたの希望する進路も唄子と同じ重さを持っている。今話したのは娘を思う母親のエゴ。身勝手な言い分だとは重々承知で、あなたにはそれを踏まえた上で娘と一緒に海外の音楽学校に来て欲しいんです」
「……お話は理解しました」
動揺はしているけれど、頭の中は少し整理できた。
つまり唄子が進む方向に私が寄り添う。
それは唄子の母にとって合理的で、私にとって不平等な提案だった。
「しばらく考える時間をください」
それだけしか言えずに、それから私は席を立った。
いきなり突き付けられた重い選択肢。
それは未成熟な少女が受け止めるには重すぎるものだった。
地元の高校へ唄子と進学し、二人でまたボランティア部を作る。
私が描いていた未来図は、本当におめでたいくらい単純だった。
それなりに勉強していれば進学できそうな偏差値の高校で、ただ楽しくやろうと思っていただけの私に比べ、唄子は環境に翻弄され、またその胸の中に複雑な思いを抱えていた。
今思えば、特別な才能に恵まれた唄子は、その音楽に対する思いを打ち明けられずに、私に付き合ってくれていたのかも知れない。
勿論彼女のボランティアに対する情熱に偽りはない。それは分かっている。
だが、天性の表現者としての唄子が同時に存在することも事実だった。
「唄子は音楽の道を進みたい……私は先輩の後を引き継いでボランティアがしたい……」
帰宅後、すぐにお風呂に直行した私は熱い湯船に浸かりつつ独り言を呟く。
いくら考えてもさっぱり解決策は浮かんでこなかった。
それでも私は今日勉強した内容をすっかり忘れてしまうくらい、就寝するまで延々と二人の未来のことを考え続けた。




