第43話 夏の入り口
入道雲が青い空に高く伸びる。
そんな夏の風物詩と呼ばれる景色が毎日のように見られるようになった頃、同ように夏には欠かせないクマゼミの声が私たちの周囲を賑やかに彩り始めた。
私たちボランティア部は夏休みに入ってすぐに上演する人形劇のリハーサルを繰り返し、それは日に日に完成度を増していた。
そして、上演まであと一週間に迫った七月の土曜日、私は唄子からある誘いを受けた。
「ねえ、海に行ってみない?」
唄子の家に勉強に来るや否や、いきなりそう言われて私は少し面食らってしまった。
「え? 勉強は?」
持参したリュックの中には勉強道具しか入っていない。
確かに今日は酷く暑い。まだ夏休みには入っていないが海で泳ぐには丁度いいかも知れない。
「水着ないけど」
「ちょっと足を浸けて気晴らしするだけ。ね、いいでしょ」
そういう訳で、私は唄子と二人で海へとやって来た。
唄子の家から坂を下り、そのまま県道を渡って行ける砂浜。
体育大会の前に走り込みをさせられ、毎日「バカヤロー」と叫んだ海は、今日も貸し切りだった。
「誰もいないね」
「うん。ここ砂浜だけど海水浴場じゃないし」
いつも夕日に照らされていた砂浜は、午前中の白い陽光に照らし出され、目に痛いくらい眩しかった。
私は目を細めて相棒がサンダルを脱ぐのを見ている。
「彩夏も脱ぎなよ」
「まさか走るんじゃないでしょうね」
「やーね、今日は走んないよ」
勉強に飽きて気晴らしに走る気かと、ちょっとだけ頭の中にあった私は、その返答にホッとする。
「なら私も足浸けようっと」
靴を脱いで素足になった私は、透明度の高い穏やかな海に一歩足を踏み入れた。
「ひゃっ、冷たい」
「気持ちいいー」
焼けた砂浜と水温の差が、私たちに黄色い声を上げさせる。
「ねえ、あっちまで行ってみようよ」
唄子の指さしたずっと遠い波打ち際を目指して、私たちは手を繋いだまま歩いて行く。
足首まで水に浸けた私たちは、そこいらに落ちている綺麗な貝殻やシーグラスを拾いながら、ささやかな散策をする。
やがて拾った綺麗なものでポケットが膨らんできた頃合いで、唄子は唐突に足を止めた。
「ごめんね」
唄子の口をついて出たその短いイントネーションには、何か深刻なものが感じ取れた。
「どうしたの、あらたまって」
私はわざといつもの感じで振る舞い、今ここにある空気を変えようとした。
そんな私に、唄子は小さく首を横に振る。
「もう私のことで悩むのはやめて。この前お母さんが言ったこと、気にしてるんでしょ」
「えっと、まあ少し……」
見透かされているのは分かっていた。
私が控えめに肯定すると、遠くの白波に目を向けたまま、胸の中にあったものを唄子は静かに吐き出した。
「彩夏とは一緒にいたい。でも、彩夏とは対等な関係でいたい。どちらかが我慢して寄り添うなんて、そんなの友達じゃない」
強い口調ではなかった。けれど、その中にある彼女の激しさに、私はハッとさせられた。
そして、唄子は気持ちを落ち着けるかのように小さく息を吐いてから再び口を開いた。
「私、スゥエーデンの高校に進学する」
夏の陽光に照らし出された白い砂浜が、一瞬完全に真っ白になる。
それでも、波打ち際に佇み、潮風に長い髪をなびかせる少女の横顔はとても穏やかだった。
「勿論音楽の学校じゃなくて普通の高校。そこには福祉課があって、専門の勉強ができるみたいなの」
「そう……」
それだけの言葉しか今の私には返すことができなかった。
別々の道を歩む選択肢を唄子は選ぶのではないか。それはずっと私の頭の中にあった。
でも、そうならないことを私は望み、考えない様にしてきた。
だがそれは、結末を先延ばしにしていたに過ぎなかった。
「風ノ巻ボランティア部のメンバーとして、私は福祉先進国で専門知識を学び、自分を鍛えようと思う」
唄子は今日私に何をどう伝えるのか、きっと頭の中で何度も練習してきたのだろう。
少し微笑みを浮かべたままの穏やかな口調は、心の揺動を隠すための手段だと私は感じ取っていた。
「だから彩夏」
唄子の手が私の手を握りしめる。
それは少し痛いと感じてしまうほどだった。
「ここは任せた」
微笑みを浮かべたままの唄子の頬に一筋の涙が伝い落ちていった。
そして、足元の水面にも、私の眼からあふれ出たものが落ちていった。
「ズルいよ……そんなの先輩のパクリじゃない……」
「そうだね……」
何となくお互いの顔を見ることができずに、私たちは手を繋いだまま、遠い水平線へと目を向ける。
夏の入り口に立つ二人の前には、胸をすくような青い空がただ美しく広がっていた。




