第35話 ラで始まるもの
気象庁が梅雨入りの宣言をした頃、私と唄子に予想外のことが起こった。
いや、正確に言えば、私はその場に居合わせただけで、唄子の身にあることが起こったのだ。
「これは、まさか……」
登校早々、靴箱の中に置かれていた一枚の手紙らしきものを手に取った唄子は、私の腕を掴んだまま言葉を失っていた。
「ら……」
その先を言いかけた唄子は、手にしていた物をおもむろに鞄のポケットへと突っ込んで上履きに履き替えると、再び私の腕をグイと掴みトイレへと直行した。
「ちょっと外で待ってて」
自分だけ個室に入った唄子は、早速中身を確認している様子だ。
いったいどれだけの長文なのだろうか。それから数分が経過した。
やきもきしつつ待っていると、やがて唄子はいそいそと個室から出てきた。
「お待たせ」
溜め息とは違う吐息を吐いて出てきた唄子に、私はすかさず質問を浴びせかけた。
「ねえ、やっぱりアレはアレだったの?」
「うん……アレはアレだった」
アレがアレだということはもうアレじゃない!
「つまり、アレは「ラ」で始まるやつだったってことでいいんすよね」
「はい……確認したところどうやら……」
靴箱の中に入っていた「ラ」から始まる代表格といえば恋文以外にない。
珍しく頬を紅くしつつ、唄子はそれが恋文であったことを肯定した。
「それで相手は誰? 誰なのよ」
「近い近い近い」
身を乗り出し肩を掴んで訊いた私を唄子は押し戻す。
「差出人は不明。でも打ち明けたいことがあるから放課後三階の一番奥の空き教室まで来て欲しいって」
「打ち明けたいって、つまり好きってことだよね。付き合いたいってことだよね」
「まあ、そうなのかな……」
唄子はほんのりと頬を紅くしたまま、ちょっとニヤついた。
「それで、どうするの? 付き合っちゃうの?」
「馬鹿、まだ相手が誰だか分らないのに、なんでそうなるのよ」
「あ、そうか」
私はすぐに納得した。
動揺し過ぎて相手が誰だか分らないうちに先走ってしまった感じだ。
「どうしよう……読唇術で相手が何を言っているのかはだいたい分かるけど、私一人じゃ何も伝えられないし」
「あ、そう言えばそうだよね」
「彩夏も一緒に来てもらうか……」
真面目に同伴を口にした唄子を、私は即座に拒絶した。
「いや、それはやめようよ。確かに多少無神経な所はあると自分でも自覚してるけど、流石にそこに居合わせる度胸ないわー、どう考えても邪魔者じゃない」
「え? 私は構わないけど」
キョトンとした顔で唄子はサラリと返して来た。
何だか告って来る相手が気の毒に思えてきた。
「あんたは良くても、相手が困るでしょ。それに私はどんな顔で全く自分とは関係ない告白を聴いてればいいのよ」
「うーん、難しい問題ね」
それからすぐに予鈴が鳴り、私と唄子は急いでトイレを出て教室へと向かったのだった。
お昼休み、私と唄子は部室で昼食を摂りながら、来たるべき放課後に備えて、それはもう真剣に議論を重ね作戦を練った。
まず私がその場に居合わせるのはNGだ。
だが、それでは唄子は相手の話が聞けないし返事もできない。
今日は補聴器をしていないからと先送りにすることはできるかもだが、そうするとまた同じ問題で悩まなければならないし相手も気の毒だ。そして何より、私は早くその先の展開を知りたかった。
「うーん、いったいどうすれば……」
私が頭を抱えていると、唄子はふと何かを思いついたように部室の一点を指さした。
「ねえ、教室ってみんなアレを置いてあるのかな」
「え? アレって?」
私は唄子の指さした先に目を向けた。
そこには細長い掃除用具入れがあった。
「なに? もしかして……」
とっても嫌な予感に顔を歪めた私の前で、唄子はにこやかに解説を始めた。
「放課後ダッシュで先回りしてアレに入っておけば問題解決じゃない?」
「なに? 私にアレに入れって?」
「丁度私の背丈くらいの場所に通気口みたいな小さな穴がいっぱい空いてるでしょ。予めそこから髪の毛を一本入れといて彩夏と繋がっておけば普通に会話できるじゃない」
とんでもないことを言い出した唄子に、私は考え直せと説得を試みる。
「嫌だって。もし見つかったらどうすんのよ。チョー変な奴だと思われるじゃない」
「大丈夫、大人しくしてたら見つかんないって。ね、お願い」
「いやいやいや、流石に駄目だって。落ち着いて客観的に考えてみようよ。どう見たって画的におかしいでしょ」
それから約三時間後。
「どうしてこうなった……」
私は暗くて狭い掃除用具入れの中で息をひそめていた。
掃除用具は先に出しておいたので、狭いけれど身動きが取れない程ではない。
そして、ロッカーには小さな通気口が幾つか空いており、そこからはそわそわしっぱなしの唄子の後頭部が見えている状態だ。
「音、立てないでね」
「分かってるって」
初めての告白を待つ唄子の緊張とは別の緊張を味わいつつ、私はその時が訪れるのを待った。
「来た」
突然短く呟いた唄子の声に、私は通気口の穴に目を凝らす。
しかし、唄子の後頭部が邪魔で、まるで様子が分からない。
「ごめん、呼び出したりして」
どこか聞き覚えのある声だ。
その声の感じから、同じ学年の男子であると推測できた。
私は声をヒントに記憶を辿ろうとしたが、普段からあまり男子のことを気に掛けていない私には、相手を特定することは難しかった。
「えっと、今日は聴こえているのかな?」
「うん、聴こえてるよ……」
男子が確認を取ると、ようやく唄子は声を発した。
そのいつもと違う声の感じで、相当緊張している感じがビンビン伝わって来る。
「あの……実は前から少し気になっていて、野外ステージのお披露目の時にステージに立った鳴瀬さんを見て、あらためてって言うか、その……」
短い沈黙。
いたたまれない二人の空気と、用具入れに潜むいたたまれない私。
「その……呼び出した理由……もうだいたい分かっているとは思うけど」
来た。とうとうその瞬間が来た。
邪魔な後頭部のせいで全く男子の顔は見えないが、相手も相当緊張している様子が声の感じから伝わってきた。
「鳴瀬さん!」
「ハイッ!」
突然勢いづいた男子に、唄子は反射的にビクッとなる。
そして私も一緒になってビクッとなってしまった。
ギシッ
その瞬間、私は頭から血の気がスーッと音を立てて退いて行くのを感じた。
よく見ようと顔を通気口にくっつけていたせいで、用具入れの扉が軋んだ音を立てたのだった。
「いま、何か音がしなかった?」
「そ、そう? 私には何も……」
マズいことになった。
ここで私がここにいることが露見すれば、告白どころではなくなる。
正体不明の男子は掃除用具入れに入っていた私を間違いなく変人だと思うだろう。
そして、能力のことを明るみに出来ない唄子は、こうなった経緯を説明することができない。
ここは自ら用具入れを出て、盗み聞きしようとしていたと謝るしかない。
ここに呼び出されたことを知っていたから興味本位で勝手に潜んでいた。そう言えば少なくとも唄子は共犯ではなく被害者になる。
このピンチを乗り切るにはこれしかない。そう覚悟を決めた時だった。
「ごめんなさい」
いきなり声を発した唄子に、私は静かに動揺してしまった。
「手紙くれたの嬉しかった。でも私、あなたの気持ちには応えられません」
告白のクライマックスを聞く前にいきなりフッた唄子に、私は吃驚しすぎて思わず声を上げそうになった。
「え? ダメってこと……?」
男子生徒の声には明らかな動揺が感じられた。
「うん。ごめんなさい」
それからしばらく沈黙が続いたあと、用具入れの扉が開いた。
「もう、出てきていいわよ」
男子生徒はもう教室を出ていったようだ。
結局、声以外何の様子も分からないまま、一枚の恋文から始まったこの物語は結末を迎えた。
「あれで良かったの?」
窮屈だった体を伸ばしつつ、私は唄子に問いかける。
「うん。相手が誰だったとしても、そうしようって思ってたし」
「私のこと、バレそうになったからとかじゃないよね?」
「うん。そうじゃないよ」
そのまま唄子は、さっき出しておいた掃除用具を隣の空き教室まで取りに行き、元の状態へと戻した。
「さあ、部活行きますか」
いつもと変わらない様子で手を取った唄子に、私はどうしても気になっていたことを投げかけた。
「あのさ、相手が誰だったのか聞いていい?」
「ないしょ」
唄子はサラリとそう言って笑って見せた。
その笑顔に、どこか名残惜しさを感じたのはきっと気のせいだ。そう思っておくことにした私は、唄子に手を引かれるように教室を後にした。




