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第25話 緊張と興奮と

 部活とピアノの稽古という忙しい毎日を送っているうちに、いつの間にか冬が終わり春休みがやって来た。

 休みに入って初日の土曜日、とうとう私はピアノの伴奏をするために、唄子と共に市内にある文化会館へ訪れたのだった。


「さあ、本番よ」


 緊張を見せつつもやる気をみなぎらせる唄子と、もう帰りたい私。

 どうしてこんなことになってしまったのだと、控室で後ろ向きな気分で待っていると、紫色のドレスを身にまとった唄子の母、鳴瀬清美が顔を出した。


「じゃあ唄子、志藤さん、予定通りお願いね。舞台に上がるタイミングはマネージャーが案内してくれるから」

「わかりました」


 コンサートはおおよそ二時間。

 丁度一時間経ったタイミングで、私と唄子は舞台に上がることになっている。

 演奏する曲は二曲。以前文化祭で歌った「大切なもの」と季節に合った曲「春よ来い」だ。

 今回は私は歌には参加せず、ピアノ伴奏だけになる。

 耳の肥えた観客に私のピアノが刺さることは無いけれど、唄子の美声に関しては何かしらの反響があると確信している。

 実は、本格的なホールで唄子の歌を聞けるのを、私自身も楽しみにしていた。

 それから二人で言葉少なく待っていると、マネージャーの女の人が出番を告げに来た。


「行くよ、彩夏」

「うん」


 案内されて舞台裏へと向かうと、ピアノの音が聴こえてきた。

 プロの演奏のあとに、余興とはいえピアノを弾く。その緊張感が私の頭の中を支配しようとした時、唄子が私の手を強く握った。


「最高の舞台にしようね。彩夏」


 私もそうだが、唄子の手汗も結構ひどい。

 やたらと熱いものをたぎらせている相棒に、私はほぼやけくそで啖呵を切った。


「ここまで来たらやってやるわよ」


 舞台上で唄子の母の演奏が終わり、盛大な拍手が沸き起こる。

 ここからは観客席は見えないが、その喝采は、そのまま観客の多さの表れだ。

 舞台上の唄子の母は、席を立ってからマイクを手に取った。


「皆さま、今日はお忙しい中コンサートにお越し下さりありがとうございます。これより、前もってご案内させて頂いておりました、私の娘、鳴瀬唄子と、その友人、志藤彩夏によるアンサンブルを行わせて頂きます」


 唄子の母が深々とお辞儀をしたのを合図に、私たちは舞台へと出ていった。

 中くらいの文化会館と聞いていたが、予想以上に広い。

 そして、二階まである観客席はほぼ満席だった。


「それでは現役中学生の若々しい歌声とピアノをどうかお楽しみ下さい」


 私と唄子は深々とお辞儀した後、所定の位置へ着く。

 大きなグランドピアノを前に、まず私は椅子の高さを調整する。

 唄子は私のすぐ傍で、静かに集中力を高める。

 一本の細い髪の毛で繋がった私たちは今、このホールの全ての色と音を感じている。

 静けさの中にある興奮や期待までも、今の私には鮮やかに感じとれた。


「いくよ」


 鍵盤の上にある指が最初の音を作り出す。

 最初の曲「春よ来い」の前奏は少し長い。

 とても滑らかとは言い難い前奏の終わりに、唄子はスッと息を吸い込んだ。


 淡き光立つ 俄雨

 いとし面影の沈丁花

 溢るる涙の蕾から

 ひとつ ひとつ香り始める


 観客の中で小さなどよめきが上がる。

 美しい唄子の歌声は、この広大な空間を一気に呑み込んだ。


 それは それは 空を越えて

 やがて やがて 迎えに来る

 春よ 遠き春よ

 瞼閉じればそこに

 愛をくれし君の

 なつかしき声がする


 やはり唄子は天性の表現者だ。

 ピアノに集中する私も、どこかで唄子の声に耳を傾け感動している。

 ホールに歌声が広がるのと同じく、この空間は高揚感のようなもので満たされていく。

 始まる前は、早く終わって欲しいと願っていたけれど、今私は、いつまでも続けばいいとさえ思っていた。

 そして曲はクライマックスへと向かっていく。


 春よ まだ見ぬ春 

 迷い立ち止まる時

 夢をくれし君の

 眼差しが肩を抱く


 春よ 遠き春よ

 瞼閉じればそこに……


 爽やかで儚い余韻を残して曲は終わった。

 そして観客席から拍手が沸き起こる。

 惜しみない喝采を浴びる唄子はとても幸せそうだ。

 鳴り続いた拍手が収まったタイミングで、私は小さく唄子に声を掛ける。


「続けていくよ」


 私は次の曲「大切なもの」を弾き始める。

 再び朗々とホールに広がった美声に、観客が酔いしれる。


 空にひかる星を 君とかぞえた夜

 あの日も 今日のような風が吹いていた

 

 あれから いくつもの季節こえて 時を過ごし

 それでも あの想いを ずっと忘れることはない


 大切なものに 気づかないぼくがいた

 今 胸の中にある あたたかい この気持ち


 あの日文化祭で歌った合唱曲。

 私が背中を押し、唄子が一歩踏み出したあの曲が、こんなたくさんの人を感動させている。

 いつの間にか私たちは、こんな所まで来てしまったんだね。


 演奏を終えて、ホールは再び拍手に包まれる。

 モノクロの世界にいた私を、こんなに鮮やかな世界へと連れ出してくれた少女。

 こうやって君とどこまでも行けたなら。

 私は唄子の背中を見つめながら、そんな願いを抱いてしまうのだった。

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