第147話 リンの恫喝と役所の壁
「いえ、私共の知りたいのは個人の情報ではありません。その施設の予約状況に関することになります。ちなみに私は医師の資格を持っております……移植手術に携わる方のご苦労は十分承知しているつもりです。一回の手術で最長数十時間という大変な業務……当然疲労もたまりますし……労働環境として非常に問題になる可能性がある……ここは確かに国立の病院ですので、万が一にもそのようなことは無いと思うのですが、異常な超過勤務などが行われていた際には我々ではなく労働基準局の査察が入る可能性が……いや、我々は警察ですので、そちらでの強制捜査の権限はありませんからその点はご安心ください。ですが、もしそのような際には事前にご忠告申し上げた方が……後々この病院に大規模な労働局の調査が入る可能性が……そうなればあなたの立場は……どうなるか想像がつくような気がするのですが……」
リンは明らかに自分達の職権の及ばない範囲での労働基準局の名を出して遠回しに受付嬢を威嚇していた。
医療現場の労働基準法違反が日常茶飯事なのは誠の唯一の高校時代の友人と呼べる野球部ではバッテリーを組んでいた鶴橋と言う男から聞いていた。研修医で立場の弱い彼は都立医大を出てすぐにそれは非常識に24連勤や54時間労働などの異常なシフトを組まれて苦労したものだと誠も聞かされていた。
病院側としては命を守るという病院本来の目的の為だという主張はするが、役所の権限を行使することにしか関心のない労働基準局相手にそんな理屈が通用するわけがないことはこの半年の実際に公務員生活をしていれば社会常識に疎い誠にも自然と分かってくる。
青ざめた表情を浮かべた受付嬢はそのまま手元の内線に手を伸ばした。
「少々お待ちください……副事務長……いえ、事務長に確認を取りますので」
リンの脅しが効果的だったのは受付嬢の震える手を見ればすぐに分かった。かえではリンを見てねぎらうような笑みを浮かべる。
「はい、警察の方……いえ、厚生省のかたでも県の医療部の方でもありません……お話は分かる方だと思いますので……お時間は……」
そう言うと受付嬢は三人の中で一番階級が高そうなかえでの顔を覗き見た。
「いえ、さほどお時間は取らせませんよ。確認したいことは数点あるくらいですから」
明らかににこやかにかえではささやきかけた。
受付嬢は誠達から聞こえないように受話器を隠しつつ小声で相手である事務長と数分会話をしていた。
しばらく後、受話器を置いた受付嬢はそのまま大きくため息をついた後、そのまま奥の医事課の受付の先に続く暗い廊下を指さした。
「あの医事課の先に事務長室があります。行けば分かると思いますので……お話は通してあります」
「ありがとう、君の気遣いには感謝の言葉しかないよ」
青ざめた受付嬢を置いてかえでは受付嬢の指さした暗い廊下に向けて歩き始めた。誠とリンもまたその後に続いて医事課の前の人だかりを大回りして静まり返った暗い廊下に向けて歩き出した。




