エピローグ
◇ 新しい春へ捧ぐ
双翼宮の正門に紺色の馬車が着く。儀仗兵によって恭しく開門された道へ、馬車は揚々と進んだ。緋布に飾られた六頭白馬がひく貴賓の馬車だ。
馬車は正面の車回しへと乗りつけた。段取りのとおりに降りてきたのは、東国の正装に身を包んだ貴公子。後ろ手にぱたりと閉じた使い古しの書付綴りを、従者が急いで受け取り、抱えた。
従者が口元に手を添えてひそひそと耳打ちする。
「大公閣下、椅子にお座りの女のかたが皇帝陛下で、その左隣にお座りの年若い方が皇太子殿下ですからね!」
「わかってるよ!」
段取りのとおりにすたすたと緋絨毯を歩く。
階段を上がったところで、青年大公はすかさず跪いた。
目ざとい者がよく見たならば、彼の手のひらにびっしりと刻まれたインク文字に苦笑するだろう。
「よくぞ参られたえ。パンノニア公サポヤイ・イシュトバーン。気船の旅のお疲れはないかえ」
鷹揚に歓迎の微笑みを見せるクラーラ・デリ・サヴァッタリ。
「はやる気持ちが船速にまさり、心楽しく過ごした旅でした。再びお目にかかることができ、恐悦至極に存じます」
許されてイシュトバーンは皇帝の元に近づき、ふくよかな手を拝する。
「お父上の具合は如何?」
「お陰様をもちまして、小康を保っております」
エステルライヒ帝国皇帝によるパンノニア併合が決定されてすぐ、パンノニア大公は第二公子を次代と定め、自ら退位を決めた。建前上、病がその理由となっている。実際のところは、併合をめぐるパンノニア内の意見対立を新体制へ引きずらないためになされた、世代交代の決断だった。
パンノニア大公位を継いだイシュトバーンが最初に行なった仕事は、併合条約への調印という大きな役目だ。署名はパンノニアの城館で使者を迎えて行なわれた。そして三月後のいま、パンノニア大公イシュトバーンは、友好的併合を演出する数々の公式行事が待ち構える帝都へと、堂々やってきた。
すでにイシュトバーンは帝国皇帝から有名無実な称号を幾つも与えられている。
これからは一年の大部分を、帝国帝都で過ごすことになる。
「アイナ・デリ姫はご健勝であらせられましょうか?」
すると。
皇帝クラーラ・デリが悲しげな顔をした。
イシュトバーンはひどく戸惑った。
「貴公の立場で、よくもそのように心ない物言いができるな、イシュトバーン」
皇帝の横から皇太子ソーヴァが恐ろしい形相でイシュトバーンを睨みつけた。
「え……」
「よくよく考えて思い出してみよ! そもそも貴様が姉上をっ……」
ソーヴァ皇太子はだいぶ大人びたように見える顔を真っ赤にして悔しげに唇を噛んだ。
「よい、ソーヴァ。致し方ないことです。公爵、どうぞわたくしの可愛そうなあの子に、会ってやってくれないかえ」
クラーラ・デリの残念そうな眼差しを受け止める。イシュトバーンは胸騒ぎを覚えた。親の仇を前にするごときソーヴァ皇子の睥睨がびしびしと刺さる。もごもごと口の中で組み立てかけた言葉はけっきょく飲み込み、急いで御前を辞する挨拶の体勢に入った。
皇帝の指図によって、案内の者がすでにイシュトバーンを招いている。
後をついて宮殿を通り抜けていく。
双翼宮の右翼──その道のりはイシュトバーンの記憶を徐々にひらいてゆく。
取り次ぎの女官はイシュトバーンを皇女の私室に通した。
最後にこの部屋を訪れた日から、一年近い月日が経っていた。
天窓の下には、もぬけの殻の寝台。
明るい日の光が、清潔な白い敷布をしらじらと照らす。
イシュトは床に窓枠の図形を描く日なたを踏んで、露台に出る硝子扉を開け放った。
があがあがあ。
腹を空かせたガチョウたちの合唱が、小さな細い指を取り巻いていた。
「つつかないで、つっつかないで頂戴。ほら!」
寝台に乗りあがろうとする腹減り軍団をあさってに押しやらんとして、餌を握った手が頭の後ろへ向けてえいやっと伸ばされる。
干しぶどうの礫がぱらぱらとイシュトめがけて降ってきた。
ついで、ガチョウの大行進が突進してくる。
「わあ」
「あら」
真っ白な鳥たちを踏み潰さぬよう、よろけながら歩いた彼を、小さな寝台から首をよじらせてアイナ・デリが見上げた。
「あなた、どなた?」
イシュトは肩をすくめ、仕草で返した。
──それは君っていう探偵がどうせ、当てるだろ?
「ええ、ちょっと待って、そうね。あらでも、わからないわ。だってあなた、すっかり帝都の貴族の流行に染まってしまっているもの」
困ったようにアイナ・デリが笑う。
「支度の者が勝手に張り切ったんだよ。まったく、こんな洒落た正装、肩が凝って余計に頭が回らなくなる」
「忙しさで目は回りっぱなしだって、さんざん手紙に書いてきたじゃない? まだ慣れない?」
「手の抜き方は掴めてきたかな。でも俺、根が真面目なんでね」
「本当かしら」
「ふふ。それは兄のわたくしが証言しますわ。この子は生来、真面目な良い子チャンですの。どこで道をそれたのだか、ずいぶん残念な大人になりましたけれど」
「あんたが言うかよ!」
小寝台の端へ突然すがたを現した女装の発掘家に全力でつっこもうとして、
「またあんたは妙なめかしこみ方を……」
イシュトは呆れて気力を失った。
「だって、祝い事があるとうかがったのですもの」
相変わらず長ったらしい緋色の髪を今日は凝ったかたちに結い上げ、女物の正装を着こなしている兄であった。煙管の紫煙が〝祝い事〟という言葉を場違いに燻す。
突如として、庭園から交響楽団の大音量が響く。
腕を組んだ男女と、白布をかけた荷物を抱える大男と、げっそりとやつれた無精ひげの若者が、露台へ現れた。
「お、主役二人が先にお揃いだったな!」
グストーが久々のイシュトに向かって破顔した。
「皆! 良かった、また会えた……って、そっちはブルーノ? それに、ココシュとバリー夫人、復縁したのか?」
げっそりと頬のこけた、別人みたいなブルーノが、腹に力の入らない声で挨拶を返す。グストーが親指で指して、
「こいつを雇ってた新聞社があの事件の誤報で潰れてな。腕がいいからけっこう再就職口はあったんだが、けっきょく芸術の道に戻ってきたんだよ。今日はたらふく食わせてやろうと思って、無理やり連れてきたよ」
「諦めずんば、きっと夢は叶いけり。僕ちゃんのように」
横からしたり顔で歌うココシュ。
「べつに、叶ってないわよ、ココシュ?」
傍らには、にこにこと真紅の唇をつりあげて男の心を殺してみせるマリー・バリー。イシュトにとっては初めて会うマリー・バリー本人である。あくまでも楽しい催しが目的という顔をして、魔性のマリー・バリーは人差し指の爪でココシュの顎をくすぐった。
「明日からはまたお人形と仲良くしていなさいな。──今日のよき日にご招待いただきましたこと、ありがたく光栄に存じますわ。皇女殿下」
「いらしてくださって嬉しいわ、マリー。楽団をありがとう」
次々と運ばれてくる料理や飾り花でだんだんと周囲が賑やかに華やぎはじめる。
「祝い事って?」
と、イシュトは首を傾げた。
「おい、お前さん、まさか……」
囲む人々が様々に心配の表情をみせた。
「イシュト──?」
アイナ・デリにいたっては、恐ろしい羞恥に備えるように絹の掛けものを鼻先まで引き上げる。
「なんてね」
イシュトは弾けるように笑い転げた。
「俺の頭の仕組みはよっぽど頼りなく思われてるみたいだ。さっき、皇帝陛下と皇太子殿下にも盛大に誤解されてたよ。まさか、忘れるわけないだろ。〈書付綴り〉を開かなくったって、自分の──」
そこでイシュトは少し照れた。
イシュトが被る毛布はないので、女官たちが忙しく立ち働く周囲に視線を逃がす。
ふと、ここに集まる面々の頭数が足りないことへ意識が向いた。
「何だか、少しさみしいな」
二つの面影が脳裏をよぎって、イシュトは眼を細める。
「エイナとハインリヒはずっと旅行中よ。心配もしたけれど、わりと楽しくやってるみたい。リッヒが手紙に書いてきたわ」
イシュトの腕を小さな手が引っ張った。
傾いたイシュトを強引にもっと屈ませて、アイナが耳打ちした。
〝僕がアイナに選ばれないことで、アイナとエイナが別々のものだってことを君がやっと理解できたのなら僕はとても嬉しいよ……〟
「あなたも言っていたわね。アイナとエイナは全然べつのものだって」
そのままイシュトは寝台の傍らに膝をつく。
「心配性のハインリヒじゃ、君の無茶は手に負えないからな」
アイナ・デリは今では、ヴェル・サクルムに引きこもるだけの人生を卒業していた。
体調を第一に考えながらではあるが、人の前に姿を見せ、公務をこなすようになっていた。
何よりも重要な変化は、その知識と洞察力が、ヴェル・サクルムの中に隠されたものではなくなったことだ。
「ハインリヒが空けた場所をやっと占められるようになって、弟君が喜んだって?」
「それはどうかわからないけれど、ソビーもなかなか、物事がわかるようになってきたわよ」
アイナ・デリの薫陶のおかげだろう。
「それで、本当に憶えてるの? 今から何が始まるか」
話を逸らされて焦れたアイナが、掛けものの端から顔を出した。横たわる首元からパンノニア独特なアラベスク模様の刺繍が覗く。
「内輪祝い、だったっけな」
「何の?」
うーん、とイシュトは考えるふりで腕を組んだ。
「たしか……誰かと誰かが結婚するって」
アイナが大きな瞳を小さく細める。
「誰と誰が?」
「それは、えっと――」
イシュトは空色の瞳を覗くために屈み、彼を迎えにきた小さな白い指を片手に握った。
「やっぱり忘れた」
数日後にはパンノニア大公夫人となるアイナ・デリ・サヴァッタリの額に、イシュトはそっと口づけを落とした。
グストーが三脚に立てかけたカンバスから白布を取り払う。
断崖に立つ男女。
狂おしい抱擁が、接吻にのぼりつめた瞬間の。
黄金の時間。
真の芸術家だけが、世界の本質を捉えることができる。その一瞬を伝えることができる。生命の画家が描く愛のひとときは、けして夢幻のものではなくて。
「あなたはその絵を描いたのね」
美しく聖なる春の庭、ヴェル・サクルムに、祝福のそよ風が吹き渡った。チャルダッシュの踊りの輪が小寝台をめぐりめぐる。いまこのとき最も幸福な恋人たちが笑いあう。ほかの誰でもなく、誰のものでもない、誰に強いられたわけではない、アイナとイシュトの新しい人生がここからはじまる。
〈了〉




