第三章 昆虫採集
いよいよ夏休みが始まった。みゆき姉ちゃんは、毎日午前中から机に向かっている。夏休みの宿題をしているのだ。小学生とは違い、中学生は学校から出される夏休みの宿題の量が減る。それは、やらなくても良くなるのではなく、自主的に勉強する必要が出てくるからだ。もちろんみゆき姉ちゃんも、宿題以外に自分で選んで購入した問題集を進めている。勉強の途中で、息抜きのためにピアノを弾くのがいつもの習慣だ。その音色に誘われるかのように、おいらはみゆき姉ちゃんの部屋に遊びに行った。
「あら、ちゃすけ、いらっしゃい」
そう言って、みゆき姉ちゃんはいつも笑顔で迎えてくれる。そしておいらは、そのままそこで寝させてもらう。至福のひとときだ。このまま寝続けたいのだが、双子のお姉ちゃん達のせいで、そうは行かないのもいつものことだ。
「ちゃすけ、まきとみきが出掛けるみたいだから、ついてってあげて」
お母さんの声だ。
「はーい。みゆき姉ちゃんまたね」
おいらは、挨拶をして部屋を出て行こうとした。するとちょっと嬉しいことを聞かされた。
「いつでも遊びにいらっしゃいね。ちゃすけのために扉は開けてあるんだから」
みゆき姉ちゃんは、そう言うと笑顔で机に戻って行った。いつもなんで扉が開いているんだろう?って疑問に思っていたが、それがおいらのためだったなんて。
みゆき姉ちゃんは、普段の日も夜遅くまで勉強している。やさしいし、しっかりしているし、本当に偉いなあ。大体、勉強の息抜きにピアノを弾くなんて、一体誰に似たんだろう?お父さんもお母さんも、そんなおしゃれなタイプじゃないもんなあ。
それに比べて、息抜きが服着て歩いているようなあっちの二人は、去年夏休みが終わる間際に、まとめて絵日記とかを描いていた。適当に思い出しながら描いたものだから、二人で一緒に出かけた行事の日付が、お互いに違っていた。クラスが違えば、ばれなかったかもしれないが、子供が少ないこの地域では、二人の学年は一クラスしか無い。担任の先生に、かなり不思議がられたみたいだ。きっと今年も同じだろうなあ。
「ちゃっくん、虫捕りに行くよ」
玄関から、まき姉ちゃんの声が聞こえてきた。
よく近所の人達が、まき姉ちゃんと、みき姉ちゃんはそっくりだから、どっちがどっちかわからないって話をしている。でも、おいらには、それが信じられなかった。見なくても声や足音だけで、二人の違いがわかる。もちろん、お父さん、お母さん、みゆき姉ちゃんもこの二人を間違えたことはない。双子を持つ家族なら当たり前のことだ。
おいらが玄関に向かうと、二人は既に虫捕り網を持ち、肩から虫かごを下げていた。頭にはお揃いの麦わら帽子を被って、もう靴を履いて意気揚々と待ち構えていた。
「いくぞー」
みき姉ちゃんがそう言うと、二人は外に飛び出して行ってしまった。
「待ってよー」
とは言ったものの、おいらは足が速いから、すぐに追い付いた。
「お姉ちゃん達、むやみに走ったりしたら危ないよ」
まあ、そんなこと言っても素直に聞くタイプじゃないけどね。二人は「わーい」と声をあげながら走り続けた。
澄み切った夏の青空には、雲ひとつ無かった。降り注ぐ太陽の光は、草木の緑を反射し、よりいっそう生い立たせて見せる。絶好の昆虫採集日和だ。
この付近で遊べる場所と言ったら、鶴亀神社の境内くらいだ。境内の敷地は広いが、人が歩く場所だけ舗装されており、それ以外は砂利道になっている。そのため、あまり昆虫採集には向かない。だが、神社には墓地や山が隣接している。特に山には果てしない森が広がっている。どんな危険が潜んでいるかわからないが、お姉ちゃん達は迷うことなく鶴亀神社に向かっているみたいだ。
この季節、最も気を付けないといけないのはスズメバチだ。こちらから攻撃しなければ襲われることはない、というのは間違いだ。スズメバチの巣の近くに足を踏み入れると、何もしなくても攻撃をしてくる。大体どこに巣があるかなんて、普通の人にはわからない。だがそれ以前に、双子のお姉ちゃん達なら間違い無く攻撃を加えてしまうだろう。
鶴亀神社の境内に着くと、早速二人は虫を探し出した。しかし、だだっ広い平坦な敷地に虫などいない。まさか、この境内で昆虫を捕まえるつもりだったとは、さすがにその計画性の無さには驚かされた。
二人はキョロキョロし始めた。
「畑の方が良かったかなあ」
まき姉ちゃんの顔が曇り出した。
「森に入れば、カブトムシがいるかもしれないよ」
みき姉ちゃんはそう言うと、無造作に森へ向かって行った。境内を挟んで左右に森が隣接している。みき姉ちゃんは左の森に入ろうとしていた。そこで早速おいらの出番が来たみたいだ。
「こっちはダメ。奥にスズメバチの巣があるよ」
慌ててお姉ちゃん達の前に立ちはだかり、向きを変えさせた。この森の奥からスズメバチの羽の音が聞こえるからだ。
「ちゃっくんには、何かわかるみたいだね。じゃああっちに行こう」
そう言うと二人は、右の方の森に向かい出した。右の森には、スズメバチはいない。だが何か別の異様な空気が漂っている。それが何なのか、この時はわからなかった。だが、おいらが一緒なら、どんな危険に見舞われても心配には及ばないだろう。
二人は森で「大きくて白いアゲハチョウ捕まえた。わあ綺麗。新種かなあ」と、はしゃいでいるが、あれは『オオミズアオ』というヤママユガ科に属するガだ。全国どこにでも生息している。幼虫は桜の葉などを食べるため、都内でもよく目にする。夜、明るいところに集まるガの中で、ひときわ目立つ巨大な白いガだ。無毒だし、それほど気にすることはない。このガは動きが鈍いため、捕まえるのは容易い。
みき姉ちゃんは、虫取り網でそれを捕まえ、その後右手に持って、自慢気に高々と上に掲げた。まき姉ちゃんは羨ましそうだ。でもそれ持って帰ると、お母さんに怒られちゃうかもよ。
さらに「うわ、気持ち悪い。オレンジ色に黒の斑点があるガがいる。きっと毒持ってるよ」と言って逃げ回っていたが、こっちは『ツマグロヒョウモン』というチョウだ。タテハチョウ科ドクチョウ亜科と、毒の字が入るが実際には毒は持っていない。本来は本州南西部の温かい地方に生息している。温暖化の影響で、最近ではここ新潟県でも生息が確認され始めた。これ捕まえて行けば、この地方ではとっても珍しいのに。ヒョウ柄で綺麗だと思うんだけどなあ。
だが、二人の直感はある程度正しい。このチョウは、有毒のチョウ『カバマダラ』にそっくりなのだ。有毒のチョウを食べて苦しんだ小鳥は、二度とそのチョウを襲わなくなる。よってチョウやガの天敵である小鳥達にとって、このヒョウ柄模様は危険な存在、として記憶付けられているのだ。ツマグロヒョウモンは、種の保存を確保する必要があるメスだけが、それの擬態という形で身を守っている。
チョウにもガにも、毒を持ったものは存在する。分類学上、チョウ(蝶)とガ(蛾)には区別がない。呼び名が違うだけで全く同じ種類なのだ。
しかし次に「クワガタのメス見つけた」と、まき姉ちゃんが追いかけ出したものは、絶対に家に持って帰ってはいけない。モリチャバネゴキブリの幼虫だ。チャバネという名前が付くため、成虫は茶色い。しかし、幼虫は黒いのだ。これを持ち帰ったら、お母さんの逆鱗に触れてしまう。だがまき姉ちゃんは既にみき姉ちゃんが、ガを一頭捕まえているため、ちょっと悔しいらしく必死の形相で追いかけた。「えいっ、やー、なんだこのクワガタすばしっこいぞ」としばらく奮闘した末、ついに捕まえてしまった。
「わーい、クワガタ捕まえた」
ゴキブリを手に、とっても喜んでいるところ申し訳ないが、お母さんに怒られるのはごめんだ。おいらはまき姉ちゃんの隙をついて、横から口を出させてもらった。
「ぱくっ、もぐもぐもぐ、ごっくん」
ゴキブリは家に出るものと思われがちだが、実際は山に住むゴキブリの方が、遥かに種類も数も多い。だが、山に住む方は生態系がクワガタなどと同じため、清潔で異臭を放ったりはしない。とはいえ、ゴキブリを虫かごに入れて帰らせるわけにはいかない。
「あー、ちゃっくんがクワガタ食べちゃったあ」
「違うよ、あれはゴキブリだよ」
いつものことだがまき姉ちゃんは、こっちの言い分なんて聞いてくれない。両手でおいらの口を開き、中を覗き込んでいる。しかしもう遅い。こうされるんじゃないかと思って、急いで飲み込んでしまったのだ。おいらの大きい口に、まき姉ちゃんの顔が入るんじゃないかと思えるほど、近付いて凝視されたが見つからなかったため、あきらめてくれたようだ。
それでも二人は、恐らく怒られるであろう巨大な白いガを虫かごに入れて、得意気に帰ろうとしていた。
神社の境内まで、戻って来ると、来た時には目に入らなかった張り紙が貼られてあることに気付いた。それを読んでいたまき姉ちゃんに、おいらは尋ねた。
「ねー、なんて書いてあるの?」
「七月二十七日だから、今度の土曜日だ。夜ここでお祭りがあるんだね」
二人は大喜びしている。お祭り大好き姉妹なのだ。
「楽しみだね」
そう話しながら境内を後にした。
すると、あんなに晴れ渡っていた空が突然暗くなってきて、雷が鳴り出した。急がないと夕立が降ってくる。おいらだけなら雨が降る前に家に着けただろうけど、お姉ちゃん達の走る遅いペースに併せていたため、どしゃ降りに見舞われてしまった。
ようやく家に着いた時には、もうみんなシャワーを浴びたみたいになっていた。
「ただいま、お母さん見て見て、白いアゲハチョウ捕まえてきたよ。綺麗でしょう」
ずぶ濡れのみき姉ちゃんは、虫かごを掲げ、中からそれを出そうとしていた。
「きゃーーー」
「きゃーーー」
この悲鳴は、お母さんとみゆき姉ちゃんの実に美しいデュエットだった。ひょっとするとみゆき姉ちゃんの音楽的な才能は、お母さん譲りなのかもしれないと思えるほど見事にハモっていた。
体中びしょ濡れで、巨大なガを捕まえて来た二人は「それを捨てて来なさい」と、お母さんに怒鳴られて、再び玄関から大雨の降る外に追い出されてしまった。
みゆき姉ちゃんは「鳥肌が立った」と言って震えている。お母さんも寒そうに腕を前に組んで、玄関に仁王立ちしている。そしてガを捨てて戻って来た二人に対して、お母さんは再び大声を張り上げた。
「何よ、あれ。眉毛ぶっといじゃないの」
「眉毛じゃないよ。触角だよ」
「わかってるわよ、そんなこと。誰がどう見ても不気味でしょう、って言ってるのよ」
「そんなことないよ。もっと不気味なガもいたんだよ」
「あんなのが綺麗だなんて見えるあんた達の目に、不気味に映るのはゴキブリくらいでしょう」
いや、それは違う。それにしても、お母さんパニックだ。おいらは恐ろしくなって、お母さんの怒りが収まるまで、見て見ぬふりをするしかなかった。だけど、ここでゴキブリ出したら、きっともっと修羅場となっていただろう。少しは感謝してもらいたいところだ。
おいらは怒られている二人を横目に「あのゴキブリおいしかったなあ」と、ぺろっと舌を出した。だがそれを目ざとく見ていたまき姉ちゃんは、即座に反論した。
「本当はね、まきがクワガタ捕まえたんだけど、ちゃっくんが食べちゃったんだよ」
ありゃ、告げ口されてしまった。
「ちょっと、ちゃすけに変なもの食べさせないでよ。お腹壊しちゃうでしょう」
さらに怒りが増したように思える。でも心配そうに、お母さんはおいらのお腹をさすってくれた。お母さんの手のぬくもりがとっても心地良い。「別においらにとって、虫食べるの普通なんだけど」そう言いたかったが、お腹をさすられると眠くなってしまうのだ。そのまま横になって目を閉じた。
「もういいから、そんな濡れた格好していないで、夕食の前にみんなでお風呂に入ってきなさい」
え、ちょっと待って。みんなってことは、おいらも?お風呂は嫌だよ。だが激怒しているお母さんの右手で、お腹を押さえられている絶対絶命の状態の中、逆らうほどの勇気はなかった。
「ほら、早く行きなさい」
お母さんの左手の指差す方は、もちろんお風呂場だ。仕方なく一応立ち上がり、ゆっくりと歩き出してみた。可能性はゼロに近いが、とりあえず言い訳をしてみよう。おいらは途中で振り返り、お母さんに対して小声で言ってみた。
「お、おいらだけなら、雨に濡れなかったんだけど、お姉ちゃん達のことを心配して一緒のペースに併せて・・・」
「ブツブツ言わない」
「はーい」
あえなく撃沈だった。




