第二章 加藤まき
もうすぐ夏休み。この時期の日差しは強い。冬は一面雪に覆われるこの地方でも、夏はさすがに暑い。おいらは暑いのが苦手だ。でも夏の太陽は高い位置を通るため、家の奥までは日差しが届かない。それを良いことに、台所の板の間で寝ていた。木の冷たさが心地良い。
しばらく寝ていると、その部分が体温で温まってしまうため、ちょっと場所を移動してまた寝る。それを繰り返していた。すると畑で農作業をしていたお母さんの声が耳に届いた。
「ちゃすけ、まきとみきを迎えに行く時間よ」
おいらは慌てて飛び起きた。どんなに遠くからの声でも、聞き逃しはしない。もう小学生が下校の時間か。寝ていたために気付かなかった。おてんばのお姉ちゃん達を迎えに行くのが日課なのだ。
開きっ放しのサッシから庭に出た。降り注ぐ太陽の日差しが眩しくて、一瞬視界が奪われてしまった。徐々に焦点が合うようになってくると、麦わら帽子を被って、畑で働いているお母さんの姿が見えた。こんな暑い中でも、元気に作業している。凄いなあ。そのお母さんがこっちに向かって、笑顔で手を振ってくれた。
「行ってらっしゃーい」
「行ってきまーす」
お母さんにそう言って、お姉ちゃん達の小学校の方へ向かった。
家の前の道は、舗装はされているが車一台通るのが精一杯程度の狭い道幅だ。だが、ほとんど車なんて通らない。道路を少し行くと、野菜が並べてある机が置かれている。人は誰もいない。近所の人達が代金を箱に入れて、野菜を持っていく無人販売所だ。
目印であるこの机を右に見ながら通過すると、いつものように畑のあぜ道へと入って行く。ここがお姉ちゃん達のいつもの通学路なのだ。このあぜ道は、畑と畑の間にある一メートル程度の幅しか無い未舗装路だ。車は通ることは出来ない。たまに郵便配達の人が自転車で通ったりすることがある。
舗装路より、こっちのあぜ道を歩く方が楽しい。田畑から漂う土や草の香り。すぐ目の前を飛び回るチョウ。カエルの鳴き声。毎日違う趣を味あわせてくれる。
小さい農村なので、近所の人達は全員知り合いだ。あぜ道の途中で、お散歩中のお婆さんに出会った。この人はうちの二軒隣に住んでいる、ウメお婆さんと呼ばれている人だ。二軒隣といっても、家と家の間には大きな畑があるため、かなり離れている。
「お婆さん、こんにちは」
おいらは、ウメお婆さんに挨拶をした。
「おや、ちゃすけちゃん、今日もお姉ちゃん達のお迎えかい?毎日偉いねえ。あの二人ならさっき川で遊んでいたよ。昨日の雨で水かさが増しているけど大丈夫かねえ」
またか。正直あきれてしまう。まっすぐ家に帰るように、いつもお母さんに言われているのに、寄り道せずに帰って来る方が少ない。だがいつもとは違い、今日に限ってなぜか胸騒ぎがしてきた。
「お婆さん、ありがとう」
そう言って、足を速めた。この付近には信濃川がある。日本で一番長い大きな川だ。ただでさえ危険な川なのに、昨日は夕方から雨が降り始め、夜中まで続いた。お婆さんの言うように、水かさも増しているだろう。そう考えていると不安で、いつしかもう全速力に変わっていた。
いつもの通学路から外れないと川へは行けないはずだ。一体どこにいるんだろう?あぜ道を抜け、土手の上に立って、川岸を見回した。だが見つからない。おいらは目がそれほど良くない。するとその時、みき姉ちゃんの声が聞こえた。
「誰か助けて。まきちゃんが」
あとは「うえっ、うえっ」という泣き声だった。こっちだ。土手の上を、みき姉ちゃんの泣き声のする方に一目散に走り出した。徐々に見えてきたのは、みき姉ちゃんが川岸に座り込んでいる姿だ。だが、まき姉ちゃんの姿が見つからない。
急いで土手を駆け下り、みき姉ちゃんに近付くにつれて、その先にまき姉ちゃんの姿も見えてきた。姿というより、見えるのは首から上だけだ。川に流されて顔だけが出ている状態だ。
「まきちゃん、今みきが助けてあげる」
周りに誰もおらず、助けが来ないことで、みき姉ちゃんが自分で助けに行こうとして、川に入ろうとしている。
「みき姉ちゃん、ダメだ。おいらに任せとけ」
みき姉ちゃんは、おいらの声に気付いたらしく、こちらを振り返り、川に入るのを止めた。
「あ、ちゃっくんが助けに来てくれた。まきちゃんもう大丈夫だよ」
おいらは、みき姉ちゃんの横を止まることなく駆け抜け、そのままの勢いで川へ飛び込んだ。みき姉ちゃんは泣き止み、川岸から声援を送り始めた。泳ぎには自信がある。急いでまき姉ちゃんのところまで泳いで行った。
「まき姉ちゃん、おいらの首に掴まって」
まき姉ちゃんも泳ぎは得意なのだが、服を着たままでは、そうはいかない。濡れた服やスカートが大きな抵抗になってしまい、思うように動けない上に、普段以上の力が必要となり体力だけを消耗してしまう。どんなに泳ぎが得意な人でも、過信して服のまま水に入っては絶対にいけないのだ。
まき姉ちゃんは、話す余力も残っていないらしく、何も喋らない。必死でおいらの首に回して来た腕の力が弱まっているのがわかる。
「大丈夫、もう少しの辛抱だから頑張って」
まき姉ちゃんを励ましながら、みき姉ちゃんが待つ川岸に泳いで向かった。途中で、おいらより背が高いまき姉ちゃんは、先に足が川底に付くようになり、首にかかる重さが軽くなった。なんとか自力でも歩けるみたいだ。良かった。その後おいらも足が付くようになり、ようやく川岸にたどり着いた。
「ダメじゃない。こんなところで寄り道して」
おいらは、二人に怒って言ったが、どうやらそれどころではないみたいだ。みき姉ちゃんは、単純に喜んでいるが、まき姉ちゃんはだいぶ水を飲んでしまったらしく「げえげえ」と吐き出している。さらに体力の消耗が激しかったらしく、肩で「はあはあ」と息をしているが、それでも川の中にいた時よりは元気が出て来たみたいだ。
「ありがとう、ちゃっくん」
そう言って、まき姉ちゃんはおいらに抱き着いて来た。洋服のまま川に入ったため、びしょびしょに濡れていたが、こっちももずぶ濡れだったので、気にならなかった。
「お母さんに怒られちゃうね」
みき姉ちゃんは、のんきにそんなことばかり気にしていた。
まき姉ちゃんは、死ぬんじゃないか、と思った恐怖と疲労でしばらく立ち上がれず、座り込んでいた。二十分ほど経つと、かなり落ち着きを取り戻し、ようやく立ち上がることが出来るようになった。だがまだ相当足が震えている。おいら達は、まき姉ちゃんのゆっくりとした歩くペースに合わせて、家路についた。
普段より帰りが遅いことで、心配して家の前にお母さんが立って待っていた。洋服まで濡れているまき姉ちゃんの姿が見えてくると、驚いて目が丸くなるのがわかった。すると並んで歩いていたところから、みき姉ちゃんが一歩前に飛び出した。
「ただいまお母さん。あのね、まきちゃんが川で溺れちゃったの」
自分は濡れていないため、怒られる心配がないと思ったのか、お母さんにいち早く報告した。でも、お母さんは怒らなかった。心配そうな顔をしてまき姉ちゃんに話し掛けた。
「まき、大丈夫なの?一体何があったの?」
「うえーん」
まき姉ちゃんは泣き出してしまった。それをお母さんはやさしく抱き寄せて、びしょびしょの髪を撫でた。
「早く中に入って、着替えなさい。風邪ひいちゃう」
お母さんは、自分が濡れてしまうことなんて全く気にせず、まき姉ちゃんを抱いたまま、やさしくそう言った。おいらの方は、夏の強い日差しで、すっかり乾いてしまったみたいだ。
みんなで家に入り、まき姉ちゃんは濡れた服を洗濯機に入れた。バスタオルで体を拭いて、乾いた洋服に着替えると、食卓のテーブルに座って、何があったのかをお母さんに説明することになった。
「あのね、まきちゃんと一緒に川で遊んでいたら、なんかアヒルのおもちゃが流れて来たの」
早速口火を切ったのは、先程と同じように服を濡らしていないため、怒られない自信があるみき姉ちゃんの方だ。
「学校の帰りに川で遊んでちゃダメでしょう。いつもまっすぐ家に帰って来なさいってあれほど言っているでしょう」
あ、怒られた。
「そしたらみきちゃんが、あれ取って、って言うからまきが取りに行ってあげたんだよ」
元気を取り戻したまき姉ちゃんの反撃だ。
「で、それを取りにまきが行って溺れたの?」
お母さんは、同じような顔をした二人を、かわるがわる見ながらそう言った。
「だって、思うように泳げなかったんだもん」
まき姉ちゃんは、そう言うと溺れた時の恐怖を思い出してしまったのか、また泣き出してしまった。
「でね、ちゃっくんが泳いで、まきちゃんを助けてくれたの」
みき姉ちゃんがそう言うと、お母さんの顔色が突然変わった。
「え?ちゃすけもそこで遊んでいたの?あんたはお迎えに行ったんでしょう。あんたまで一緒に遊んでどうするの!」
あ、おいらが一番怒られちゃった。なんか納得がいかないぞ。みき姉ちゃんの言い方が悪いんだよ。
「ち、違うよ。ウメお婆さんに聞いて、おいらは急いで助けに行ったんだよ」
必死で言い訳をしたけど、まき姉ちゃんは泣いていて、かばってくれない。みき姉ちゃんは、おいらが怒られていることはあまり気にならないらしく、ちゃんと説明してくれない。
「まったくもう。いい?あの川は危険だから絶対に二人だけで行ってはダメよ」
お母さんは、そう言うと夕食の支度をするために席を立った。まき姉ちゃんの元気そうな姿を見て安心したらしく、いつものお母さんに戻ったみたいだ。しかし、追い打ちをかけるように、みき姉ちゃんが余計なことを言い出した。
「でも、ちゃっくんが一緒なら行っても良いんでしょう?」
「それでもダメ。あんた達と一緒に遊んじゃうだけでしょう」
みき姉ちゃん、頼むからもう何も言わないでくれ。これ以上何か言うと、おいらの晩ご飯が抜きになってしまう。
「夕食の時に、お父さんにもちゃんと報告するのよ」
お母さんは台所からそう言った。お父さんにはちゃんと理解してもらわないとなあ。晩ご飯がピンチだ。でもおかしいなあ。おいら結構頑張ったと思うんだけどなあ。でも、そんなことはどうでもいい。まき姉ちゃんが無事なだけで満足だ。
それから間もなくして、みゆき姉ちゃんが帰って来た。いつも中学校の帰りに、ピアノ教室に通っているため、ちょっと遅いのだ。そして、その一時間後くらいにお父さんの車の音が聞こえてきた。お父さんは車でお仕事に行っている。この近所で車を持っているのは、うちくらいなので、家の前の道を通る車の音は大抵お父さんの車だ。
「ただいま。ん?どうした、まき。何か変なものでも食べたのか?」
さすがはお父さんだ。まき姉ちゃんの異変に気付いたみたいだ。まき姉ちゃんは元気が無さそうにうつむいて、目をうるませていた。でも、お父さんが帰って来るまでは普段通り大声で騒いで元気だったのになあ。なんかちょっと演技くさいぞ。
「とりあえず夕食にしましょう」
お母さんの声でみんな席に着いた。
いつものようにみんなで夕食の時間だ。普段ならとっても幸せなひとときのはずなのに、おいらは気が気ではなかった。
「いただきま~す」
みんなが食卓に揃って、食事前のあいさつをした。良かった、おいらのご飯もちゃんと出てきた。でもなんかちょっと少ない気がする。気のせいかなあ。とりあえず、話の進み具合によっては、取り上げられる可能性も残っているため、急いで食べることにした。
「お父さん、今日ね、まきが学校の帰りに川で溺れたらしいのよ」
お母さんからその話が始ると、あとはまき姉ちゃんとみき姉ちゃんは、お互いに責任をなすりつけ合っていた。その間、こっちはそれどころではない。雲行きが怪しくなる前に、ご飯を胃袋に流し込まなくては。だがその心配は要らなかったみたいだ。お父さんはやさしくまき姉ちゃんのおでこに手を当てながら、心配そうに話し掛けた。
「風邪ひかなかったかい?水を吸い込んじゃったりとかしなかったかい?」
お父さんはいつもやさしいのだ。なんか、やさしくされているまき姉ちゃんの姿が面白く無いのか、みき姉ちゃんは口を尖らかせていた。
「大丈夫だよ。すぐにちゃっくんがどこからともなくやって来て、凄い速さで泳いで、まきを助けてくれたの」
きたー。そうだ、まき姉ちゃん。おいらはその場に駆け付けたんだよ。一緒になんか遊んでいなかったのだ。
「おぅ、ちゃすけ。お手柄だったなあ。偉いぞ。じゃあご褒美にヨーグルトをあげよう」
え、本当。やったー、おいらの大好きなヨーグルトだ。お父さんは席を立って冷蔵庫からプレーンヨーグルトを持って来てくれた。まさかこういう展開になるなんて予想もしていなかったために、ご飯を食べ終わってしまっていたが、食後でもこれだけは別腹だ。
「ちゃすけったら、いつまで経っても乳製品が大好きね。あかちゃんみたい」
みゆき姉ちゃんが、おいらのこと見て、笑って言っているけど、そんなことは気にならない。好きなものに理由なんて要らない。今はとにかく目の前のヨーグルトに夢中だ。
「まきもみきも、ちゃすけに助けてもらいたい時は大声を出すんだよ。この子は耳が良いからね」
お父さんは二人にそう言うと、待ってましたとばかりにみき姉ちゃんが話し出した。
「みきが助けてーって大声で叫んだんだよ。みきのおかげだよ」
「そうか、みきも頑張ったね」
お父さんはそう言うと、みき姉ちゃんの頭も撫でてあげた。なんかお姉ちゃん達二人共嬉しそうだ。おいらも、ヨーグルトがもらえて嬉しい。
だが、その後のお母さんの言葉で、気分が一転した。
「ちゃすけも川に入ったんだから、まきが責任持って、お風呂で洗ってあげなさいね」
危うく大好きなヨーグルトを吐き出しそうになってしまった。おいらは泳ぐのは得意だけど、お風呂は大嫌いだ。
「あのー、出来ればおいら、お風呂は入りたくないんだけど」
「あ、ずるい。みきも一緒に入る」
げっ、全然こっちの言い分が聞いてもらえない上に、みき姉ちゃんまでも。この二人と一緒にお風呂に入るなんて、かなり憂うつな気分だ。
「ちゃんと綺麗にシャンプーしてあげるのよ」
お母さんのやさしい笑顔が、なぜか鬼に見える。そうだ、ご飯の後に寝たふりをしてしまおう。そしてそのまま本当に寝てしまい、明日の朝を迎えることにしよう。
その後、みんなでテレビを見たり、お茶を飲んだりして、家族団らんの和やかな時間を過ごしている間、おいらは隅の方で必死に寝たふりをした。もう何があっても目を開けないぞ。みんなの笑い声や話し声が気になり、その輪の中に入って行きたいが、ここで目を開けてしまっては、せっかくの計画が水の泡だ。
そしてついに「早くお風呂に入りなさい」というお母さんの声が耳に届いた。その後「どす、どす、どす」と、まき姉ちゃんの歩く大きな足音が近づいて来て、おいらの目の前で止まった。歩く音だけで誰だか判別出来る。寝たふり、寝たふり、っと。ん?顔が近い。まき姉ちゃんの鼻息が当たるが、それでも目を開けるわけにはいかない。
「ちゃっくん、お風呂入るよ」
ただでさえ耳が良いおいらの耳元で、大声でそう言われたため、驚いて一瞬目が開きそうになってしまった。危ない、危ない。すると、今度は目を指でこじ開けようとしている。負けないぞ。必死で抵抗していると、続いて無理矢理引きずろうとしている。てこでも動かないぞ。まき姉ちゃんの波状攻撃は続き、次に持ち上げようとし出した。だが、まき姉ちゃんの二倍以上も体重があるこの体を持ち上げることは出来ない。ふふふ、勝ったな。どうやら、これでお風呂から逃れられそうだ。このままここで本当に寝てしまおう。と思った矢先に、ふわっと体が持ち上がった。
「あれ?ちょっと待って」
慌てて目を開けると、お父さんに抱きかかえられていた。
「ほら、ちゃすけ、体がかゆくなっちゃうぞ」
そう言うと、お父さんはおいらを抱いたまま歩き出した。
「お父さん凄い、ちゃっくん抱っこ出来るんだ」
まき姉ちゃんはそう言うと、目を開けたおいらの方を見て「えへへ、ざまあみろ」と小さな声で言ってきた。悔しい。
「この重さは、ちょうどお母さんと同じくらいだな」
お父さんはそう言って笑いながらお風呂場に向かった。ああ、大嫌いなお風呂場が近づいて来る。まき姉ちゃんとみき姉ちゃんが服を脱いでお風呂に入り、おいらも中に降ろされると、お父さんは出て行き、お風呂場の扉が「バタン」と閉められてしまった。
「助けてー」
必死にそう訴えて、狭いお風呂場の中を逃げ回ったが、その健闘むなしく二人のお姉ちゃん達に、シャンプーを掛けられてゴシゴシ洗われてしまった。
「ちょっとお、まき姉ちゃん、もっと丁寧に洗ってよ。耳に泡が入っているよ」
「ちゃっくん、きれいきれいしようね」
全然聞いてくれない。別に洗われるのは、それほど嫌いじゃない。その後のお湯をかけられる方が嫌いなのだ。ふと見ると、みき姉ちゃんがお風呂のお湯を洗面器に汲んでいる姿が目に入った。
「みき姉ちゃん、お湯じゃなくて水にしてよ。お風呂のお湯は熱すぎるんだよ」
「ちゃっくん、行くよー。じゃー」
そう言うと、みき姉ちゃんは洗面器に汲んだお湯をおいらの頭から掛け始めた。もう何を言っても無駄だった。
お風呂から出た後、おいらはお母さんにドライヤーで乾かしてもらった。散々だったなあ。もうお風呂はこりごりだよ。
夜も遅くなり、みんなが寝静まった後、寝顔を見て回るのが一日の締めくくりだ。
みゆき姉ちゃんは、自分の部屋で一人で寝ている。部屋の扉はなぜかいつも開いたままだ。部屋には勉強机の他に、ベッドと電子ピアノが置いてある。この家は、お隣までかなり離れているため、夜練習しても大丈夫だ。というより、あのお隣さんなら家が隣接していても全く問題無いだろう。
以前お母さんがお菓子を持って、数十メートル離れた隣のキクお婆さんの家に行き、その話をしたことがある。
「ピアノの音とかうるさくありませんか?」
「は?何だって?あたしゃ耳が遠くてよく聞こえないんだけど、そのお菓子をくれるのかい?」
「あ、はい。どうぞ」
「それはそれはいつもすまないねえ」
話がかみ合わなかったらしい。この近所で、子供といえば加藤家の三人だけだ。「細かいことは気にせず、伸び伸び過ごせる」とお母さんはいつも言っている。
それにしても、さすがにみゆき姉ちゃんの寝相は良い。布団をかけてあげる必要は無さそうだ。おいらは、みゆき姉ちゃんの部屋を後にした。
あとの四人は、大きな部屋で一緒に寝ている。まき姉ちゃんとみき姉ちゃんも、二人で一つの部屋を持っているが、寝る時はお父さんとお母さんと同じ部屋だ。
お父さん
まき姉ちゃん
みき姉ちゃん
お母さん
という形で寝ている。
みき姉ちゃんの寝相は悪い。お母さんのお腹を蹴飛ばさんばかりに、器用に足を乗せている。双子である以上、当然のようにまき姉ちゃんも寝相が悪い。布団からはみ出して、上の方で九十度回転した形で寝ている。お父さんの方が頭で、お母さんの方が足だ。全く布団などかけていない状態だが、この二人に布団をかける意味は無い。即座に蹴ってしまうからだ。よっておいらは毎晩、みんなに布団をかけてあげる意志はあっても、結局何もしないのだ。
今日は、大変な一日だったけど、夜みんなが寝ているこの姿を見ると安心する。この光景は、今後もおいらが絶対に守る。そう思いながら、空いているまき姉ちゃんの布団に潜り込んだ。今日はここで寝ることにしよう。とっても広いスペースを確保出来た。
これから夏休みを迎えるとなると、一段と目が離せなくなるなあ。そう不安を抱きながら、眠りについた。




