第十二章 加藤ゆき
私の名は、加藤ゆき。もう八十歳を越えてしばらくの年月が経っているはずだ。あまり歳を意識したことはなはい。私の中の時間は、三十五歳の夏で止まっている。
あの年の夏まで、私は愛する夫と三人の娘達に囲まれて幸せに満ち溢れて暮らしていた。だがこの夏、七歳になる双子の娘達を川で失った。不幸は重なるもので、十三歳になる娘を通り魔に殺害され、夏の終わりに三人を追うように、夫までもが他界してしまった。
幼い頃、両親を失った私は、夫の母親を本当の母のように慕っていた。彼女も私を実の娘のように可愛がってくれた。そんな優しかったお義母さんも、血の繋がった子供と孫全てを失ったショックで塞ぎこんでしまい、その後長くはなかった。
全てはその十年前に起こった、夫の交通事故が引き金になっているように思えた。正常に動いていた歯車の一片が欠けてしまった。欠けた歯車は不規則に回り始め、その狂った動きを隣へと伝えてしまう。隣の歯車はまたさらに隣へ。それが連鎖し始める。負の連鎖だ。やがては巨大な力となって全てを破壊してしまう。
途中でその不規則な動きを修復するためには、元々そこには存在しなかった別の歯車を持ってくる必要がある。だが往々にして、そのような都合の良い歯車など見つかりはしない。仮に見つかったとしても、それはほんの気休めにすぎない。欠けている歯車には、無理な力が加わり続け、さらに大きな損傷へと発展してしまう。新たな歯車の健闘虚しく、崩壊への道は避けられない。
やはり、欠けた歯車を修復するしか元に戻す方法はない。しかし、時間に支配されている人間では、既に欠けてしまった歯車を修復することは不可能だ。これが宿命というものなのだろう。
両親を亡くした時に感じた「自分は不幸の星の下に生まれたのだ」という気持ちが、再び蘇った。夫や娘達との生活で、そんなことはすっかり忘れていたというのに。運は全ての者にとって平等ではない。不公平で非情なものだ。
一人残された私は、ただこの命が尽きるまでの日々を、無駄に過ごすだけの人生となった。あれから笑った記憶は一度もない。人と話した記憶もほとんどない。日々行うことといえば畑仕事と、近くの鶴亀神社にお参りに行くだけだ。
この神社には、古くからの言い伝えがある。五十年間一日も欠かさず祈りを捧げると、その願いが叶うというものだった。織田信長による『人間五十年 下天の内をくらぶれば・・・』の謡にあるように、昔の人の寿命は五十歳程度だった。その時代に建てられたこの神社は、鶴や亀でなければ願いが成就出来ない、というところからこの名前で呼ばれるようになったという。もちろんそんな言い伝えを完全に信じているわけではない。しかし、他にすることがない私は、嵐の日も大雪の日も欠かさずお参りに行った。
毎日私は神社で、祈りとともに目を閉じる。すると私の気持ちを反映するかのような暗闇が訪れる。一体なぜ目を閉じるのだろう。恐らくそれは目を開けた時に、この世界が変わっていることを期待しているからかもしれない。だが目を開けると、いつもそれまで以上の暗黒な世界が待ち受けている。変わるはずがない現実という世界。もう何十年間、期待を裏切られて来たかわからない。しかしただ一度だけ、違う光景を目にしたことがあった。
あれは昨年の秋だった。いつものように私はひざまずき、手を併せ、目を閉じた。そしていつもと変わらない祈りを捧げた。その内容はただ一つ。「お願い。みんなを返して」これだけだ。その時、間違いなく辺りには誰もいなかった。私が歳のせいでうっかりしていたわけではない。それから十秒も経っていなかったはずだ。目を開けると、そこには一匹の犬がいた。それは生まれたばかりの茶色い日本犬で、まだよちよち歩きしか出来ない状態だった。この犬がこんな短時間にどこかから走って来て、私の目の前に座るはずはない。不思議に思いつつも、話し掛けてみた。
「あなた一体どこから来たの。私の子になる?」
そう言って両手を差し出すと、嬉しそうに私の胸の中に飛び込んで来た。この子は、こんな悲観的な私の子になってくれるみたいだ。何十年ぶりだろう、嬉しいと感じたのは。私が今まで体験した全ての不幸と引き換えに、手に入れたものがこの子か。それでも構わない。もし私に愛するという気持ちがまだ残っているならば、誠心誠意この子を愛そう。
こうして私は人生最後の時間を、この子と共に過ごすことにした。しかし、私にはもう残された時間は短い。この子は、その後どこかの誰かに可愛がってもらえることを切に願って、名前は付けなかった。自分をその名前だと思い込んでしまい、新しい里親の元で混乱しないように。ただ毛並みが茶色いため、私の心の中だけで「ちゃっくん」と呼ぶようにしていた。
最初は柴犬かと思っていた。しかし、みるみるうちに体が大きくなり、あっという間に体重が五十キログラム近くになった。
「あなた、秋田犬だったのね。私より大きくなったわね」
私も以前は同じくらい体重があった。でも今は痩せ細って三十キログラム程度しかなくなっていた。
我が家には、定期的に在宅介護の健一さんという方が見回りに来てくれる。その回数が最近めっきり増えてきた。私が危ないと察しているのかもしれない。もちろん自分もそれを感じている。日に日に痩せ衰えていくこの体では、もう次の冬を越すことは出来ないだろう。
この子と一年間過ごし、その年の冬を迎えた。そろそろ限界みたいだ。もう歩くことも、起き上がることも出来ない。長かった。辛く悲しい人生。ようやくみんなの元へ逝くことが出来そうだ。
最後の力を振り絞って、健一さんに連絡をした。
「犬をよろしくお願いします」
私の最後の希望は、この子の将来だけだった。
その後、眠るのとは違う意識の薄れを感じ出した。眠る時は、いつの間にか意識を失うが、この感覚は違う。徐々に、ゆっくりと視界がかすれ出した。音も段々と聞こえなくなり出した。そしてとにかく寒い。しかしその寒さも手足の感覚が失われ出して感じなくなってきた。
私は布団に横たわっていた。その布団の中には、ちゃっくんがいる。私が寒がっているのを察してか、必死で温めようとしてくれている。この子は、私がバランスを崩して転びそうになった時は、反対側から体を支えてくれたり、いつも先回りして助けてくれた。本当に不思議な子。まるで未来でも見えるのかもしれない。それでも私を愛してくれていることを存分に感じさせてくれた。この思いやりに溢れる素敵な犬を抱きしめながら、この世を去ることが出来るのだけが、私に与えられた唯一の幸せなのかもしれない。
「あの夏の日に、あなたがいてくれたら。お願い、みんなを守って」
やはり、あの夏に受けた私の心の傷は未だ癒えていない。とうに枯れ果てたと思っていた涙が、私の頬を伝って流れ落ちるのを感じた。まだ私には流す涙があったことに、自分でも驚いた。
手の感覚がなくなってきたのか、ちゃっくんの温かいぬくもりを感じなくなってしまった。
「ちゃっくん、ちゃっくん」
私は薄れ行く意識の中でそう叫んだ。
「ゆきお婆さん、健一です。大丈夫ですか?あ!しっかりして。ゆきお婆さん・・・。あれ、でもお婆さんの言っていた犬はどこだろう」




