第十一章 老犬ちゃすけ
「まき、みき、ちゃすけをお散歩に連れてってあげて」
「はーい」
「はーい」
月日は流れ、さらにおいらの視力は落ちてしまったため、誰かに付き添ってもらわないと、外には出られない。でもお散歩は大好きだ。風が運んでくれる草木の香り、周りから聞こえる様々な音、そして降り注ぐ太陽の光が、わくわくさせてくれる。足の調子も良い感じだ。今まで地面に付くことすら出来なかった左後ろ足だけど、今はかろうじて付いて歩くことが出来るようになった。
二人に前後を挟まれるようにして歩くのが、お散歩の時のいつもの隊形だ。するとそこに、滅多に通らない車の音が聞こえてきた。
「ちゃっくん、危ないよ」
おいらはよろよろとしており、道の真ん中の方に向かって行こうとしたみたいだ。後ろにいたみき姉ちゃんが、押さえて守ってくれた。
道路に障害物があると、前にいるまき姉ちゃんが、そこにぶつからないように誘導してくれる。
「ちゃっくんはね、知らないと思うけど、あたし達この近所では『しっかり者姉妹』って呼ばれているのよ」
まき姉ちゃんが、自慢気に話した。『わんぱく姉妹』じゃなくなっていることに驚いた。都会生まれの都会育ちで変わっちゃったのかなあ?でも、全く変わっていないように見える。以前もお姉ちゃん達は、とっても優やさしかったよ。
そのままお姉ちゃん達に挟まれて、ゆっくりあぜ道を歩いていると、畑の脇にある草むらから「がさがさ」という物音が聞こえた。
「ちゃっくん、子猫ちゃんがいるよ」
前を歩いていた、まき姉ちゃんが教えてくれた。「どこにいるんだろう」おいらは、匂いを嗅ぎながら音のした方に顔を近付けた。すると突然「ふー」という声とともに、顔を引っかかれてしまった。
「痛い」
おいらは顔を前足で押さえながらうずくまった。鼻の後ろのあたりがヒリヒリする。
「こらー、うちのちゃっくんに何てことするんだ」
まき姉ちゃんの声で、子猫は逃げ出した。
「待てー」
みき姉ちゃんは追いかけ出したが、さすがに子猫の逃げ足は速く、逃げられてしまった。
「ちゃっくん、ごめんね。大丈夫?」
まき姉ちゃんの問い掛けに「うん、平気だよ」とは言ったものの、ちょっと怖くなってしまい、まき姉ちゃんの後ろに隠れた。おいらは猫のことが好きだけど、昔いじめちゃったことがあるために、この近所の猫達からは嫌われ者みたいだ。きっとあの子猫も、お母さん猫から聞いていたのかもしれない。自業自得だな。
いつものお散歩コースである鶴亀神社に着いた。この神社までを往復するのが日課だ。神社の境内まで来ると、お姉ちゃん達は左右に分かれて、かわるがわるおいらを呼んだ。
「ちゃっくん、こっちおいで」
あ、みき姉ちゃんの声だ。その声とみき姉ちゃんの匂いのする方に、必死で歩いて行く。
「えっほ、えっほ、ふう、到着。みき姉ちゃん捕まえた」
すると、おいらのことを抱きしめて「ちゃっくん、大好きだよ」って言ってくれた。
「ちゃっくん、今度はこっちだよ」
お、今度はまき姉ちゃんの声だ。
「えっほ、えっほ、おっと危ない、よろけてしまった。まき姉ちゃん捕まえた」
まき姉ちゃんも、おいらのことを抱きしめて「ちゃっくん、可愛い」って言ってくれた。
しばらく神社で遊んでいると、来る時に遠くにあった入道雲が、いつしか真上まで来てしまったらしく、突然空が暗くなり出した。被っていた麦わら帽子をとって、空を見上げたまき姉ちゃんは、心配そうな顔をした。
「夕立が来そうだね。急いで帰ろう」
まき姉ちゃんがそう言うと、二人は走り出した。
「待ってよ、お姉ちゃん達。置いて行かないで」
おいらは、極端に足が遅い。必死で付いて行こうと頑張ったが、お姉ちゃん達には全く追いつけない。すると、いきなり雨が降り出してきた。
「あ、雨。大変、ちゃっくんが濡れちゃう」
そう言って、二人は麦わら帽子を手にして、おいらに雨が当たらないよう、傘替わりにしてくれた。お姉ちゃん達に左右を挟まれて歩いている。帽子の隙間から覗くように右を見上げると、まき姉ちゃんと目が合った。ぼやけているけど、にこにこ笑っている顔が見える。今度は左を見上げると、みき姉ちゃんと目が合った。
「私達は大丈夫だよ」
雨脚が強まり、ずぶ濡れになっているにも関わらず、そう言って笑っている。昔と何も変わらない愛されているという実感がとっても嬉しい。
家に着くと、お母さんがバスタオルを持って待っていてくれた。まき姉ちゃん用、みき姉ちゃん用に加えて、ちゃんとおいら用のタオルもあった。お母さんは二枚のタオルをお姉ちゃん達に渡すと、残る一枚でおいらの体を拭いてくれた。すると、鼻の後ろに傷があることに気付いた。
「どうしたの?この傷は」
お母さんは、物凄い剣幕でお姉ちゃん達の方を見た。
「お散歩の途中に子猫ちゃんがいて、ちゃっくんいじめられちゃったんだ」
まき姉ちゃんは、申し訳なさそうに答えた。
「ちゃすけは弱いんだから、あんた達がちゃんと守ってあげないとダメでしょう」
お母さんは怒っている。この辺も変わらないなあ。
「まきが子猫ちゃんを追い払ったんだよ」
「みきが追いかけたけど、捕まえられなかった」
おいらが弱いばっかりに、二人には迷惑を掛けてしまったみたいだ。本当に申し訳ないなあ。
「まったくもう、明日は私も一緒にお散歩に行くことにするわ。私がいれば、例え怪獣が現れても平気だから、ちゃすけも安心してね」
や、やっぱり、お母さんは怪獣より強かったんだ。薄々そんな気がしていたんだよな。それにしてもお母さんも一緒に行ってくれるなんて明日が楽しみだなあ。
「とにかく先にお風呂に入っちゃいなさい」
おいらは、お姉ちゃん達と一緒にお風呂に入り、綺麗に洗ってもらった。お湯がとっても気持ちいい。十年間も野良犬生活を送っていたため、あんなに嫌いだったお風呂が、すっかり大好きになっていた。
お風呂から上がり、お母さんにドライヤーで乾かしてもらうのも気持ちが良い。お母さんは、乾かし終わったおいらを抱きしめると小声でささやいた。
「ちゃっくん」
何年ぶりだろう。お母さんからその名前で呼ばれるのは。
「そうだよ。おいらちゃっくんだよ」
短い夏はすぐに過ぎ去り、秋を迎えた。そしてその秋も深まり始め、寒さが一段と厳しくなり出したとある日、おいらは何も食べることが出来なくなった。何も口にすることなく数日間、寝続けている。もう食べる体力が残っていないのだ。
「ちゃっくん、明日は元気になってご飯モリモリ食べるかなあ」
まき姉ちゃんが心配してくれている。お母さんは何も返事をしない。
「明日は、みんなでお散歩に行けると良いねえ」
みき姉ちゃんの言葉に、お母さんは涙を流し出した。みゆき姉ちゃんも泣いている。ごめんね、みんなを悲しませたりして。何とか起き上がりたくても、もう体を動かす力が残っていなんだよ。
「おやすみ、ちゃっくん。みきが明日は元気になりますように、ってお祈りしてあげるからね」
ありがとう、みき姉ちゃん。
お母さんは、おいらの顔に自分の顔をくっつけて泣いていた。でももう既に、匂いも音もかすかにしかわからない。おやすみ、みんな。
その夜、みんなが寝静まった後、おいらは呼吸をする体力もなくなってきた。このまま眠ってしまったら呼吸が止まってしまいそうだ。そのせいでもう何日も眠ることが出来ない。辛い。でも眠い。次の呼吸で最後にしよう。そう思いながらも一呼吸、また一呼吸必死で続けていた。
もう呼吸をするのをあきらめようかと思った時、誰かがお腹をさすってくれた。誰だろう。おいらのことを心配してくれているみたいだ。辛くないようにしてくれている。ありがとう、とっても気持ちが良いよ。その心地良さに甘えさせてもらい、もう意識的に呼吸をすることを終わりにした。おいらはそのまま深い眠りについた。
「グー、グー」
誰だろう?まったくもう、うるさいいびきだなあ。誰かの大きないびき声で意識を取り戻した。ん?このいびきの主は、おいらだ。意識することなく呼吸が出来ている。しかも、音が聞こえるなんて。もう聴覚はすっかり麻痺していると思ったのに。一体どうしちゃったんだろう。
耳を澄ますと、いろいろな音が入ってきた。隣の部屋で寝ているみんなの寝息。そばにいる誰かの心臓の鼓動音。外を吹く木枯らしの音。何年ぶりだろう、こんな感覚。
「ずいぶん長い旅を続けてきたのね。あなたは、いつもやさしくて勇敢だったわ。とっても素敵よ。大好きなちゃすけちゃん、あなたは私が守ってみせる」
一体誰?戻ってきた感覚は、聴覚だけではなかった。十年ぶりにこの家に来た時、もうほとんど見えなかった。だが今ははっきりと見える。懐かしい。元気だった頃に見た光景そのものだ。
おいらは、自分のお腹を見た。お腹にくっついているのは、こゆきちゃんだ。以前、双子のお姉ちゃん達と拾って帰った時、おばあちゃんは「この猫ちゃん、とっても可愛らしいからお母さんの『ゆき』の名前をもらって『小ゆき』にしましょう」って、言っていた。でも「みんなには小雪が舞う天気だったから、ってことにしておいてね」と言って笑っていた。きっと今度も同じ名前を付けてもらえたに違いない。
「おばあちゃんの家から、わざわざ助けに来てくれたんだね」
おいらは、こゆきちゃんの体を舐めた。こゆきちゃんは、ゆっくりとやさしい眼差しで見返して来た。
「みんなのために、まだもうちょっと頑張ってあげてね」
嗅覚も戻って来た。いろんな匂いを感じる。こゆきちゃんの匂い。家の中を漂っている家族みんなの匂い。庭に咲いているコスモスの匂いまでも感じる。
五感の全てが冴え渡り始めた。と同時に、空腹感を覚えた。味覚までもが活発に動き出したみたいだ。
「ありがとう、こゆきちゃん。やさしいんだね」
こゆきちゃんにお礼を言った。
「うふふ、ちゃすけちゃんほどじゃないわよ」
こゆきちゃんは、明らかにこちらを見て微笑んだ。そしてゆっくりとした動作で身を起こし、立ち去って行った。
翌朝を待つことが出来ず、おいらは立ち上がった。のっそのっそと歩いて、お母さんの布団に向かった。
「ねえねえ、お母さん。お腹空いたよ。ご飯ちょうだい」
おいらはお母さんの顔を舐めた。お母さんは驚いて目を開け、そこにおいらがいたことで、さらに驚いた。
「ちゃすけ、歩けるの?元気になったのね?お腹空いたの?待っててね」
お母さんはおいらを抱きしめて早口でいろいろと言うと、急いで飛び起き、台所で老犬用の餌をお皿に出してくれた。今までの分を取り戻すかのように、それを一気に食べ干した。
「なんか、老犬用はあんまりおいしくないなあ」
味覚が冴え渡っているため、この餌はあまり美味しく感じない。
「あら、食欲も戻ったのね。もっと食べなさい」
再び老犬用の餌をお皿に出してくれた。
「だから、生肉がたっぷりと入った若者用の餌が欲しいのに」
とはいえ、空腹には勝てず再びお皿を綺麗にしてしまった。食べ終わった銀皿はキラキラに輝き、自分の顔が映っていた。なんか若返ったみたいに見える。
台所が騒がしかったため、まだ夜明け前にも関わらず、みんな起きてきた。
「わーい。きっとみきの祈りが通じたんだ。みきのおかげだよ」
うん、きっとみき姉ちゃんの祈りに、こゆきちゃんが応えてくれたんだね。
「ちゃっくん、良かったー」
まき姉ちゃんがおいらは抱きついたのをきっかけに、みんなも真似をして、のしかかって来た。もみくちゃにされてしまったけど嬉しい。
翌日、約束通りみんなでお散歩に行くことになった。もちろん先頭はおいらだ。みんなは結構そそっかしいから、しっかりもののおいらが、目を光らせていないといけない。
「ちゃっくん、待ってよ」
まき姉ちゃんが後ろから声を掛けてきた。おいらは立ち止まり振り返った。みんなにこにこ笑っている顔がはっきりと見える。幸せそうだ。
「みんな早くー」
おいらも、とっても幸せだよ。




