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ミリオタ雑記あれこれ  作者: きらと
日本の戦いあれこれ
8/16

Boshin Warでの賊軍はマジキチですか?

はじめに


 明治の御代になった時、天皇陛下のありがたさをわからないナンセンスな者たちがいた。左翼や売国奴とは違う。賊徒、賊軍と呼ばれるマジキチだ。「会津戊辰戦史」では『幕府忠義の士』と表現されている。造反有利と言う言葉もあるが、鎮圧する側とされる側の立場による見解の相違で水掛け論にしかならない。

 例えばマジキチとマヨチキは似ている。マヨネーズをどんぶり飯にかけるのはマヨラーではなくマヨキチで良いと思うが、賛否両論だろうと言う感じだ。

 ということで今回は徳川幕府の残党、函館に散った土方歳三とかのお話。



1.新撰組


 それは幕末、軍事政権であった徳川幕府の傘下で運用された特別警察で京の治安維持に当たり、当時はまだアングラな活動であった勤皇の志士(活動家)を逮捕していた。同時期に江戸の治安維持に当たった新徴組と言う浪士組織が存在した。こちらは3人扶持25両の給金を貰っていた。

 新撰組は当初から結束していた訳ではない。と言うかセクトだった。

 芹澤鴨(木村繼次)が新撰組の評判を落としているとして芹澤一派を総括している。芹澤の腕は確かだったらしく、寝ている所を沖田に斬られても逆襲し一太刀浴びせている。近藤も加わり二人がかりで卑怯にも殺害している。内ゲバ怖い。

※小沢仁志主演の「実録新選組」では白竜演じる芹沢が良い人で、小沢演じる近藤と仲良しだった。演出としては面白い。

 近藤勇が京から来て御所守衛の衛士募集した時、伊藤武明(甲子太郎)は同志89人と共に加わった。しかし付き合ってみると「こいつらってヤバい?」と言うことで、新撰組を離れ五條橋の東長圓寺に引き揚げたが、邪悪な新撰組はこれを襲撃し「お前ら皆死んでね!」と抹殺した。

「局中法度書」と言う破れば切腹と言うおっそろしい代物も有名だ。「近代日本国民史」によると決まり事は4つ。1.士道に背く間敷事。2.局を脱するを不許。3.勝手に金策致不可。4.私の闘争を不許。退職許さないとかブラック企業ですね!

 薩摩が徳川を裏切り長州と手を組むと状況は変わった。「新撰組」によると鳥羽伏見の戦い(伏見戦争)では、陸軍奉行並大久保主膳正の麾下に京都見廻組(佐々木只三郎)と共に配属された。この時、動員された新撰組は150人。近藤勇は城に残り、土方歳三が指揮を執った。軍主力を陸軍奉行竹内丹後守が率いて伏見街道を進軍した。この戦いで敵は高所を押さえており苦戦した。歩兵頭窪田備前守は1個大隊を率いて突撃、新撰組と協同で墨染まで進出する。

 兵力で勝っていた幕府側だが、錦旗が翻ると朝敵となり賊軍の名を負う事になる。完璧な理論武装だ。形式を重んじた当時の日本人の士気を打ち砕くには十分だった。新撰組は淀川堤を陣地占領し、後衛を勤めた後に大坂城に撤退した。この戦いで新撰組は70名を失った。

※中井貴一主演の「壬生義士伝」では官軍の装飾で時代考証に致命的な間違いがあった。

 文久3年8月18日の京都政変で會津藩別動隊として勤めて以来会津藩に附属し、鳥羽伏見の大敗後、幕府軍艦順動丸で大阪を脱出、江戸に到着してからは甲府の防御に参加した。甲府は江戸に至る主要戦闘地域の前縁であった。

「会津戊辰戦史」によると金5,000両、大砲2門、小銃500挺を受領し鎭撫隊(89人)として動いた。新撰組の系譜に列なる組織と言える。組織の中枢である近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と称しているが大局的にはどうでも良い。

 近藤、土方は地元なので募集して人員の補充を行ったが、一足遅く甲府は3月4日に官軍(土佐、高遠、因州)の手に落ちていた。勝沼で官軍を食い止めようとしたが、ノンポリで日和り見主義な藩は薩長に与し、幕藩体制の結束崩壊が始まった。3月6日、砲兵の支援で6個小隊の官軍と交戦する。官軍は本道の正面を谷守部(因州1個小隊、砲兵)、右翼──日川より片岡健吉の3番隊(因州2個小隊、高島1個小隊)、左翼より谷重喜の4番隊が前進した。稜線に登った左翼は賊軍右翼に射撃を浴びせた。3月7日、前衛(2個小隊、砲兵)は勝沼を抜き、賊軍を追撃し戦果拡張を目指す。フルボッコで退却した近藤さんとその仲間たちだが、4月『賊魁大久保大和本名近藤勇捕らえ──』そう、近ちゃんは捕らえられたのである! 新撰組局長は4月25日、官軍に逆らった大逆の罪状で北豊橋郡板橋で首を斬られ、京の三條河原に送られた。

 副長土方歳三は残兵を率いて市川に後退した。その後、大鳥圭介と合流し東北を転戦し明治2年5月1日に戦死した。最期は陸軍奉行、函館市中取締裁判局頭取の肩書きを持っていた。底辺から賊軍の頭目とは言え大出世である。




2.幕府残党の反乱:明治元年4月11日、江戸は兵火の災をまぬがれ無血開城された。21日には大総督宮が入られ大総督府に定められた。「日本の物は皆天皇陛下の物」であるから返しただけだが、徳川家の家臣は慶喜公が水戸に引退せられた後も納得しない。前将軍の恭順に不満を持つ幕臣抗戦派──海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介等は8月19日子の刻、2,000の同士と「開陽」「回天」「幡龍」「千代田」「長鯨」「美賀保」「咸臨」「神速」に分乗し品川を脱出した。


(1)宇都宮の戦い


 賊将大鳥圭介は新撰組残党土方歳三等(2,000人)と合流した。「通俗日本史」では敗残兵の賊軍と記載されているが、大鳥は優れた野戦指揮官で部下もフランス人の教練を受けた精鋭だった。賊軍と記載するのは構わないが、相手を過小評価するのはよろしくない。

 先鋒は江上太郎率いる伝習第1大隊、桑名藩士(200名)、大砲2門。中軍は本多幸七郎日切る伝習第2大隊、後軍は第7聯隊(350人)。

 4月16日、武井村で防御陣地を構築した結城の官軍を撃破、死傷者780損害を与えた。賊軍の損害は死傷者20。抵抗を排除しつつ飯塚に前進する。

 土方歳三はこの時、先鋒の一員として転戦した。19日に宇都宮を攻略するが、官軍の到着で明神八幡と宇都宮城防御陣地を構えて抵抗。宇都宮は奪還され日光に転進、戦闘損耗の激しさから会津方面に退却する。



(2)上野戦争


 池田大隅守、澁澤誠一郎を指揮官とする幕臣旗本の彰義隊(1,500人)は上野山に籠って総督府からの解散命令に従わなかった。武装勢力の不法占拠だが、寛永寺の僧侶まで協力していた。「幕末快挙録」によると澁澤が武州飯能に振武軍を組織すると、彰義隊の指揮官は本田邦之助となった。彰義隊は府下で巡警を行っていたが官軍と衝突し死傷者を出すこともあった。自警団気取りだ。

 彰義隊の言い分としては「徳川家の知行が決まるまでどこにも行かないよ。ここには徳川家のお墓もあるし、それを守るために駐屯してるんだ。わかってね!」そう言いながら3,000人を越える勢力となった。徳川家の知行問題は「駿遠70万石」と寛大な処置を取ることに決まっていた(5月14日に発表)が、はっきりと言って主君の心情を察せず、この動きは迷惑だった。

 5月15日、上野賊徒追討の命令が下り、軍務局判事大村益次郎を指揮官とする官軍は13藩を動員し上野山を囲んで殲滅した。

 上野に山門は9つあり、その内の南側にある正門と言えるのが黒門と御成門であった。黒門口では西郷どんの率いる薩摩兵と彰義隊本隊、萬字隊がガチでぶつかり合った。結果として砲兵の火力支援で戦況は動いた。「西郷隆盛」によると官軍の展開速度が早く、上野山の敵兵力は2,000人程で、市内に出かけている者も居たとのこと。

 彰義隊の残党は東北へと落ち延びて行った。



(3)東北戦争


 奥羽諸藩が立ち上がると幕府海軍総裁であった榎本は、とりあえず手元の船を纏めてかっさらうと松平正親、荒井郁之助等と共に仙台に向かった。

 途中、暴風雨に遭って「咸臨丸」は清水港に寄港した。乗員が上陸している所、官軍3隻の襲撃を受けて沈没。榎本の暴挙に対して「何しとるんじゃ、ゴラァ!」と朝廷は怒った。「榎本等は賊徒だから飯やんなよ」と布告した。広域指定の凶悪犯だ。

「薩長2藩は朝廷の命としょうして己の野心を遂げようとしている。この奸賊は除かねばならない!」ってことで茹で上がっている奥羽列藩に対して、政府は九條道孝を奥羽鎭撫総督に任命し、奥州の数万の官軍討手を送り賊徒蜂起に対処させた。東北の諸国は数度の戦で白旗をあげ「チキン野郎」と嘲笑されるが仕方ない。ちなみにドネルケバブにチキンもある。

「戊辰北越戦争記」によると幕府の歩兵隊長古屋作左衛門は兵600を率いて暴れまわった。会津から北越経由で信州に進出する計画だった。

 途中にあった城では金や米を要求し、信州飯山城では官軍に敗退するがその時、市中に火を放っている。(千曲川を挟んで対陣するも砲撃を受け、上流を渡河した官軍に腰巻で攻撃を受け、さらに飯山から挟撃された)

「近代太平記」によると朝廷が会津征討の号令をかけて諸藩の兵が動員された。尾州、加州、薩州、長州、越前、松代、松本等の兵が越後口より進撃(北越戦争でいわゆる長岡城周辺の戦闘がメイン)。薩州、長州の別軍、大垣の兵が白川口より進撃した。

 征討に加わった加賀藩の「加賀藩北越戦史」によると加賀藩から派兵された兵力は7,200人(戦闘に加わる士、卒1,744人。監軍、監察、軍使等953人、役夫等4,600人で後方支援の要員が多かった)で、一例をあげると家老津田玄蕃の指揮する部隊は士73、卒33で構成されていた。今回の派兵で加賀藩に支給されたのが金10万両、米1万石、弾薬・雷管30万発、草履20万足、味噌、漬物、梅干し他。

「徳川十五代記」によると徳川の残党数千が長岡小千谷に集結しつつあった。これに対して庄内藩攻撃における官軍の行動計画は(1)加州、高田、薩摩、長州の部隊が柏崎より青海川に前進する。(2)尾州、松城、飯山、薩摩、長州の支隊は千曲川を渡河し、六田町から小出島に前進する、となっている。

 庄内藩は4月23日までの戦いで薩長兵を撃退し、逆に越境して村山郡の各村を制圧した。「秋田戊辰勤王史談」によると秋田藩は勤王、佐幕の間で揺れていたが、27日の第二次征庄軍に参加している。小場小傳治(兵600)は新屋口から由利郡へ、梅津小太郎(兵300)は仙北郡を越えて雄勝郡大澤口から矢島に進出したが、この頃、秋田藩の火器充足率は低く槍や弓が主要装備であった。その為、庄内兵の火力に圧されて敗退する。「近代戦は数ではなく火力」と証明した。

 会津藩、庄内藩は戦闘民族として歴史に名を残したが、いざ戦いが始まってみると奥羽越列藩は一枚岩ではなかった。「荘内の歴史」によると亀田藩、本庄藩は裏切り島津、鍋島、小笠原の兵を引き入れた。

 さらに発生した新庄の裏切りに対して「ゆっくりできない裏切り者は制裁だ!」と、庄内藩は1番、2番大隊を投入した。

 7月13日、舟形川を隔てて官軍と交戦。軍旗をゲットした。「庄内戦争録」に地図等記載されているので参考になる。

 新庄藩は積極的に攻撃参加していたようで「新庄藩戊辰戦史」によると8月5日、1番、2番、3番隊より抽出した兵10、教導1のコマンドーによる夜襲を計画した。だが放火の時期を逸して引き揚げている。8月8日の増田田口の戦いには1番、3番、5番、7番、9番隊をやる気満々で投入している。

 8月21日、首謀者である会津藩主松平容保の籠る若松城の防衛に朱雀隊、白虎隊(少年兵)、玄武隊(高齢者)、青龍隊が組織された。これらの部隊は士中、寄合、足軽の3隊で構成される。この他に大砲隊、遊撃隊、新遊撃隊、結義隊、奇勝隊、草風隊、順風隊、別盾隊、純義隊、誠志隊、士官隊、新練隊、衝鋒隊等色々存在した。防御計画は南方の下野、西方の越後口、東方の白川口に於いて防御戦闘を行うと言う物だった。

 8月22日、官軍が会津領内に進出。戸口原に阻止線を張った。白虎隊この時、左翼に展開している。この戦いは23日に雨が降ったことで会津側の鉄砲が使えなくなり、官軍の突撃を受けて敗走した。白虎隊の最後は「お城が燃えてる、もう終わりだ!」って事で、敵に斬り込んで玉砕しようと言う意見と、皆で自決しようと言う意見が出て自決を選択した。同じ死ぬなら敵に損害を与えてから死ねと言う事で、「こいつらアホか?」と言う意見もある。

 9月22日、「ごめん、悪かった」と容保が降伏し若松城は陥落した。

 この戦は「賊のくせに逆恨みしてんじゃねえよ、糞虫が」と言う事だが遺恨を残しまくった。

※山下智久主演の「白虎隊」を見ると、死に急いだなと再認識してしまう。小林稔侍の演じた家老西郷頼母は反戦派であったが、家族が自決した後は五稜郭まで転戦しており複雑な心情を感じさせた。



3.北海道キャンペーン


 東北諸藩が官軍に降伏すると榎本達の立場は困った事になった。

「どこ行けって言うんだよ」

 榎本は松平越中守、板倉伊賀守等と彰義隊の残兵を乗せた艦隊を率いて蝦夷(北海道)に逃れ、10月10日に鷲木港に入った。その中には賊将として名高い土方歳三の姿もあった。土方は近藤勇と同郷で竹馬の友であった。近藤が捕縛され時、土方は「俺はまだ死ぬわけにはいかん」と言う事で、榎本と会談した。徳川の恩を忘れなかったと言う意味では立派だが、忠義を尽くすべき方向を間違っていた。

 函館府知事清水谷公考は賊の襲来に対して迎撃の兵を向けた。

「いっちょやったるか!」

 叛徒(※銀河英雄伝説ではない)は官軍を打ち破り大野村、文目村を制圧下に置いた。続けて七重を取ると五稜郭に迫った。「やっべえ!」知事は船に乗ると青森にとんずらした。結果、10月26日には五稜郭が無血で賊の手に落ちた。「幕末物語」等でも知事は逃げたと記載されている。

 江差、松前を12月中旬までに攻略し蝦夷を制圧下に置いた。

 これに対して政府は、官軍を派遣するが寒いし雪解けの来年に攻撃しようなんて話になった。そして明治2年4月8日、25,000の兵を乗せた輸送船団は青森を出港、9日早朝に乙部浜に投錨した。江差の賊軍は敵橋頭堡が拡大する前に海に追い落とそうと逆襲に向かうが、頑強な抵抗に遭い目的を達成できなかった。

 11日夜半、官軍は内陸部への進撃を開始したが先鋒の松前藩兵は、松前から増援を受けた賊軍の逆襲を受けて後退する。賊軍の死傷者は約20、官軍の死傷者は約120。

 17日、副山城陥落。

 なんやかんやあって土方歳三が死に、榎本は降伏し日本は統一された。



おわりに


 明治政府から見れば徳川の旧幕臣なんて国家に反逆する賊徒でしかなかった。日本人は判官贔で義勇奉公と言う面から旧幕府軍に感情移入をするが、統治者にとって旧体制の武装集団は政権転覆を起こしかねない火種であり根絶すべき物だった。なぜなら自分達は武力で討幕を成し遂げたからだ。


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