戦場の一例:東部戦線の危機
1.8月攻勢に於ける浦項の戦い
後退する国連軍は不退転の決意で洛東江を基点とした抵抗線を構築する(米軍公刊戦史ではTHE PUSAN PERIMETER)。1ヶ月と少しの間、この狭い地域を巡って戦いが始まった。日本で釜山橋頭堡の戦いと言えば白准将のROK第1師団が注目を浴びており「多富洞の戦い」の出版等で知られているが、他の戦線でも危機はあった。いわゆる8月攻勢でROKの守るY線右翼の崩壊。その危機がやってきた。
8月5日、ROK最右翼の東部沿岸部でNKA第5師団はROK第3師団に攻勢開始。丸山を包囲。
6日、第3師団は師団指揮所が襲撃され指揮機能が麻痺する危機的状況だった。これを失態と捉え師団長の交代が行われた。8日に金准将が第3師団長に就任。
首がすげ代わったとは言え第3師団を取り巻く状況は好転するどころか危機的状況だった。隣接する第8師団はNKA第8師団に拘束されて応援に来れない。対する敵は第3師団を拘束する事で行動の自由を得て、NKA第12師団と第766連隊が浦項に迫っていた。
9日、五十川の江口洞橋を第22連隊は北岸に兵を残したまま爆破した。
第8軍司令部では山地の踏破はゲリラ程度でROKには十分対処できると考えていた節がある。開戦時のNKAに対する見積同様、今回も甘く考えていた。第3師団は退路を断たれ長沙洞に包囲された。
10日、ウォーカー中将は第8軍の予備兵力を全てここに投入した。韓国戦争の帰趨を決めた戦いとも言え、浦頂を指向するNKAの攻勢に対して、旅団規模の任務部隊である浦項地区戦闘司令部(浦項支隊:ROK第17・25・26連隊、第1ゲリラ大隊、海兵大隊、米第18砲兵大隊C中隊)と増強大隊戦闘団であるブラッドレー支隊(米第9連隊第3大隊、野砲・高射・工兵中隊)が編成された。これらの増援を受けて金准将は戦線の崩壊を食い止めた。
8月11日、NKAの一部が浦項市内に突入、ほとんど無防備の浦項は陥落した。浦項南部の迎日飛行場に危機があった。
8月13日、馬山と晋州地区でキーン作戦が始まった頃、首都師団が火消しに到着。NKAを包囲せんと攻撃開始。
8月15日、首都師団、浦項支隊が安康里でNKA第12師団を攻撃。この状況下で16日、第3師団は海上機動で包囲より脱出した。
一方、西部戦線を構成する第1師団では8月22日、356高地の北1.2kmに位置する無名高地を第11連隊第2大隊を攻撃。NKAの砲撃に混乱しパニックが発生した。米第27連隊左翼に危機が訪れた。白師団長は混乱を建て直すべく師団長と言う要職にあるにかかわらず、大隊の先頭に立って突撃した。
2.9月攻勢に於ける浦項の戦い
9月、ROKの正面に展開するNKA第2軍団は7個歩兵師団+、米軍の正面に展開するNKA第1軍団は6個歩兵師団+。ROK右翼、浦項正面にはNKA第5師団が展開していた。
9月1日、ROK第1軍団長に金白一准将、首都師団長宋大佐、第3師団長李大佐と指揮官交代が行われた。ROK司令部は敗因を現場指揮官に押し付けたわけだが、兵員の補充でサポートする事も忘れなかった。
ROK第1軍団を指揮官に金白一准将に、司令部要員1,275名。麾下の部隊として首都師団:宋大佐指揮(第1、第17、第18連隊)16,376名、第3師団:李大佐指揮(第10、第22、第23連隊)7,154名、第8師団9,106名が存在した。
第8軍司令官ウォーカー中将は朝鮮人の戦意を信用して居なかった。不信感からテコ入れをすべくコールター少将指揮でジャクソン支隊(第21連隊)を編成し、増援として投入した。韓国側も首都師団へ第26連隊が追加戦力として投入した。
9月2日、NKAの攻勢開始。圧迫により第3師団は後退。
迂回した一部が戦線を突破に成功した。この浸透によって首都師団左翼に脅威を受けた。
ROK第1軍団は首都師団、第3、第8師団を以って9月攻勢最大の激戦に耐え、仁川上陸まで戦線を堅持した。この英雄的、献身的戦いは「韓国戦争第2巻」、「朝鮮戦争第2巻」で詳しい。
この戦いで国連軍が持ちこたえられたのは北にはない空海軍の支援、日本と言う後方基地での補充兵教育等環境が整っていた事も上げられる。




