南朝鮮の動乱
1.はじめに
韓国では戦争映画もたくさん作られているが、韓流ファンでもない一般的な日本人にしてみれば「朝鮮戦争って何? 美味しいの」って話で、歴史的には朝鮮半島で「消費活動」をしてくれたお陰で「朝鮮特需」と言われる好景気が訪れて日本の戦後復興を助けてくれた。また自衛隊の元となった警察予備隊の発足、冷戦時代の直面している敵の戦訓提供と言う意味でも大きい。この点から関連書籍も多数出版されており、それなりには知られている。
流石に60年以上過去の話なので知らない世代が居てもおかしくはない。一般的に流れている情報を箇条書きをしてみる。中にはガセネタもある。
北の攻撃に対して韓国ぼろ負け。九州で脱走兵が大暴れ。日本は掃海活動で支援。上陸作戦で反攻、中国国境まで迫るが中国義勇兵の参戦でぼろ負け(これは正規軍だった)。戦艦が艦砲射撃をした。B-29をジェット機が撃ち落とした。避難民に紛れたゲリラの浸透。韓国側による内ゲバ、自国民虐殺。いけいけどんどんと戦場を拡げそうなマッカーサー元帥解任。戦争の長期化確定。韓国戦争(朝鮮戦争)で韓国の女性がなんと「日本軍」に慰安婦として強制連行されたetc。
――と言う事で今回は海を挟んだ隣国に注目してみた。
2.攻めてくるよ!
実戦経験の無い自衛隊なんか目じゃないと言える大韓民国国防部の陸軍。言うだけの経験を積んできていた。国土を戦場に変えた朝鮮戦争、ベトナム戦争への参戦等だ。
韓国軍の母体になったのは1946年1月14日に創設された南朝鮮警察予備隊(South Korea Constabulary Reserve)で当時、南朝鮮は米第24軍団の軍政下にあった。
1946年6月に朝鮮警備隊(Korea Constabulary)へ、1948年8月15日に大韓民国が設立し9月5日に警備隊から陸軍へ名称の変換、組織の改編を受けて国軍へと拡大する。その要因となったのは1948年から始まった北の侵略行為にある。
1948年2月、1946年に設立した南朝鮮労働党が非合法化されゲリラ活動へと移行した。共産ゲリラに呼応する形で4月3日に済州島、10月19日順天、麗水の第14連隊が反乱を起こし、この過程で軍の改編が行われ続けた。
※「若き将軍の朝鮮戦争」では麗水・順天の反乱の結果、「4」の数字が忌避され韓国軍では欠番とされたとある。
1950年、開戦時の韓国軍(ROK)は以下の通り。
第1師団:師団長白善燁大佐(第11連隊、第12連隊、第13連隊+砲兵、工兵大隊)
第2師団:師団長李亨根准将(第5連隊、第16連隊、第25連隊+砲兵、工兵大隊)
第3師団:師団長劉升烈大佐(第22連隊、第23連隊)
第5師団:師団長李応俊少将(第15連隊、第20連隊、独立第1大隊)
第6師団:師団長金鐘五大佐(第7連隊、第8連隊、第19連隊+砲兵、工兵大隊)
第7師団:師団長劉載興准将(第1連隊、第3連隊、第9連隊+砲兵、工兵大隊)
第8師団:師団長李成佳大佐(第10連隊、第21連隊+砲兵、工兵大隊)
首都師団(第17連隊、第2連隊、第18連隊)
当時のROKには旧日本軍、満州国軍出身者(韓国系軍官)が受け入れられていた。第1師団長の白大佐は満州の軍官学校を9期で卒業、終戦時は満州軍中尉。1950年4月には第1師団長に就任。第2師団長の李准将は陸軍士官学校56期。第3師団長劉大佐は陸軍士官学校36期卒で第7師団長劉載興の実父。
もっとも日本軍関係者だからと親日派とは限らない。陸軍士官学校49期、終戦時少佐だった蔡秉徳は反日思想を買われて陸軍参謀長に抜擢されたと言う。後に締結された日韓基本条約締結の反対派も多かった。
建軍4年で開戦を迎えたROKは対ゲリラの治安維持を主任務とした警察軍的な組織で、師団に対する砲迫装備は少なく北朝鮮軍(NKA)に比べて火力は劣っていた。ROKは105mm榴弾砲、57mm対戦車砲、81mm、60mm迫撃砲を与えられていた。対するNKAは122mm、76mm榴弾砲、76mm自走砲、76mm対戦車砲、120mm、82mm、61mm迫撃砲を装備。数と質、奇襲効果の面で勝っていた。
開戦に到る要因は韓国軍が先に手を出したと言う説もある。確かに北を仮想敵として軍を整備していたが準備不足であり、日本で入手できる文献を読む限りでは北の奇襲であったと考えられる。
6月25日、北朝鮮は韓半島の赤化統一を目指し「暴風」を発動。NKAは火砲600門、迫撃砲1000門の火力支援で正面248㎞の戦線を9個師団が突破した。この時、国境付近に展開していたROKは西岸に第1師団、第7師団、京城に首都師団、中央の春川に第6師団、東部に第8師団で合計11個大隊と十分な数ではなかった。攻撃の予兆はあったが、第4次中東戦争のイスラエルの様に戦争の危機を認識していなかった。
さらにT-34戦車を正面に前進するNKA対して、当時のROKは国内治安維持が限界の軽装備。山間部で機甲部隊は活躍できないと言う前提で、機甲戦力は僅かにM8装甲車27輛と言う状態だった。その為にゲリラ程度の侵攻なら撃退できると認識していた節がある。
対戦車壕や地雷原もない。NKA5個歩兵師団、1個戦車師団が京城を指向、2個歩兵師団が春川、1個歩兵師団が東部沿岸を南進した。さらに後方攪乱を平行して行いROKの後背を脅かしていた。兵力の集中から見ても京城でROK野戦軍の包囲を目指していたと考えられる。
いわゆる三単位編成であったROKの師団は前方に2個連隊、後方に1個連隊と、1/3を予備隊とする運用をした。師団には10榴15門の砲兵大隊と工兵大隊が配属されていた。骨幹となる歩兵連隊には対戦車中隊(57mm対戦車砲6門)が、歩兵大隊には迫撃砲小隊(81mm迫撃砲4門)、中隊には軽迫撃砲小隊(60mm迫撃砲3門)と対戦車班(2.36インチバズーカ2門)が与えられていた。
ROKの士気は崩壊し逃げ出したイメージが付いているが各師団は敵に抵抗していた。
ソウルの西翼となる臨津江北岸で第1師団の初戦は惨敗だった。臨津江北岸に配置していた左翼第12連隊(開城)はNKA第6師団、右翼第13連隊(高浪浦)はNKA第1師団の攻撃を受け後退。南岸に至る臨津江鉄橋付近に第11連隊が展開、その右翼に後退した第13連隊が展開し抵抗線を構築した。師団工兵は第12連隊の後退後、橋を爆破する計画であったが不発。橋は爆破できなかったが第1師団は坡州を確保していた。
第1師団の悲劇は自隊ではなく、他部隊によって引き起こされた。議政府の陥落である。
開戦時、議政府正面の防備は第7師団が受け持っており第1、第9連隊が並列配置で警戒に当たっていた。これに対してNKAは第3、第4師団を投入して来た。それぞれの師団は第105戦車旅団から戦車1個連隊の増強を受けていた。砲撃、戦車の突破、歩兵による側背遮断による包囲と言う定石通りの攻撃で第7師団を後退させた。
議政府から京城まで32kmしかない。ROKは元から第7師団隷下であった第3連隊を首都司令部隷下に配属させて代わりに第2師団第25連隊を編入する計画であった。戦力の低下した状況で開戦を迎え、第3連隊を復帰させると同時に第2、第3、第5師団を応援として送り込もうとした。
25日午後、第7師団に第18連隊、陸軍士官学校生徒大隊を配属。
6月26日、議政府東に到着した第2師団の戦力は師団司令部、第5連隊(2個大隊)のみ。これでは攻勢に移るには戦力不足は明らかだった。
だが反撃は強行され第2、第7師団によって実施された反撃作戦が失敗。ソウル東北の議政府は26日13時に陥落し、第1師団の右翼ががら空きになった。
※韓国国防軍史研究所「韓国戦争」に首都圏の作戦として図版が掲載されているが一部、途切れている。陸戦史研究普及会「朝鮮戦争」に掲載されている韓国第一師団の防御略図が補完してくれる。児島襄「朝鮮戦争」では数行の記述のみだが、三野正洋「わかりやすい朝鮮戦争」では局地的な戦場と言う事もあり省略されている。
参謀総長は李准将の反対を無視して反撃を強行させた。敗北の責任を負わされて李准将は解任され、劉准将が第7師団と合わせて第2師団の指揮権を与えられた。2個師団と言えばそれなりの戦力になりそうだが、残存戦力は6個大隊規模でしかなかった。
ソウルの東翼となる春川の第6歩兵師団は隘路と水量豊かな河と言う地形を活かしてNKA第2師団を相手に27日まで耐え凌いだ。第6師団が後退したのは両翼の友軍が崩れた為である。東海岸の第8師団は背後に敵が上陸し挟撃されながらも内陸部に後退した。なお韓国語で退陣、退却、退軍を回軍と呼ぶそうで、漢字を使っていても日本語とは表記が異なる。
国連では北朝鮮への制裁決議が行われていた。
27日、首都攻防戦が激化する。京城を守備するROKは第2、第3、第5、第7、首都師団とそれなりに揃っていたが、雑多な部隊で指揮統制に問題があった。
ROKは果敢に抵抗するが無秩序な遅滞作戦で28日には漢江橋が爆破され自滅した。開戦から3日目、28日に京城は陥落した。第1師団は漢江を渡河準備中、米軍機の誤爆を受けた。
渡河点を爆破し、外縁部で抵抗を続けていた部隊を置き去りにしたROKだが、第2、第7、首都師団を中核とした混成部隊で新たに漢江防御線を構築しNKAの進撃を阻止しようとした。
3.米軍の来援
6月30日、米統合参謀本部は1個連隊戦闘団の投入を許可。その後、2個師団の派遣と海上封鎖を承認した。
7月1日、日本に駐留する第24歩兵師団から先遣隊として第21連隊第1大隊長のチャールズ・B・スミス中佐(Charles Braford Smith)指揮下のスミス支隊(A、D中隊を除き、75㎜無反動砲×4、4.2インチ迫撃砲×4の増強を含む)が釜山に上陸。
戦場では友軍誤爆があり鳥山ではROKは米・豪軍の攻撃で200名の損害を受けた。遂には米軍機を撃墜し搭乗員を捕虜にしたとある。
7月2日、第6師団は後背を脅かされ弾薬欠乏により原州から忠州に後退した。
米第24師団はソウル南、平沢~安城の線でNKAの南下を阻止しようとした。南下するNKA第4師団及び第107戦車連隊に対してスミス支隊が立ち塞がった。
7月4日、スミス支隊は第52野砲大隊を指揮下に加え平沢の北18㎞、鳥山に展開。右限界である92高地にC中隊、その左に位置する117高地にB中隊がそれぞれ陣地占領をした。
翌日、7月5日0816時、鳥山の北5kmの京釜国道を南下する敵に対する阻止攻撃が始まった。これに対してNKA第105戦車師団第107戦車連隊、第4師団第16、第18連隊は両翼から迂回し後背を遮断すべく動いた。結果、スミス支隊は安城へと後退する事となった。
※「韓国戦争」ではスミス支隊の指揮下に加わっていた砲兵中隊の陣地右側88高地にROK第17連隊第2大隊が配備されていたとある。陸戦史普及会「朝鮮戦争」では触れられておらず、鳥山の戦闘を描いた付図第4にも記載は無い。約30年経って補完された情報と言える。
ROK第17連隊は竜仁でNKA第1師団、第2師団は利川でNKA第2師団に遅滞戦闘で損害を与えている最中、既存の部隊を再建する為に、首都師団、第1師団、第2師団に第3師団、第5師団の兵力を吸収し3個師団に再編成を計画。この3個師団で第1軍団を創設。金弘壹少将が軍団長に就任。
鳥山を制圧したNKA第4師団は引き続き南下、平沢へと向かった。ここには米第24師団第34連隊が展開していた。
7月6日、首都師団は鎮川に移動。予備役の金錫源准将が李准将と交代して首都師団長に就任。
一方の米軍も、ドン引きするほど修羅場だった。平沢に展開していた第34連隊第1大隊が天安に後退した。
7月7日、マッカーサー元帥(Douglas Macarther)の指揮下で国連軍編成。ROKは第3、第5、第7師団の再編成と第9師団の新設を決定。
ROK第1軍団は京城~竜仁~鎮川~清州道で遅滞行動を実施したと言えば聞こえは良いが、NKA第2師団に押されていた。
第1師団は陰城においてNKA第15師団に対し遅滞する。
7月8日、NKA第9師団が天安に襲来。前日に埋設した対戦車地雷は機能せず、米第34連隊は後退する。米第24師団は綿江南岸に防御線を張る。
首都師団はNKA第2師団との戦闘でチャ峠に後退する。
7月9日、首都師団はNKA第2師団に逆襲。高地の一部を回復、引き続き鎮川の奪還を目指すが10日、後退命令を受けて国連空軍の支援下、清州に撤退した。
7月12日、第6、第8師団を以ってROK第2軍団を創設。金白一准将が軍団長に就任。NKA第3師団の攻撃により清州を放棄。
7月14日、ROKはマッカーサーの指揮下に入る。
7月15日、ROK第2軍団設置。
7月20日、大田陥落。
8月1日、第8軍ウォーカー中将(Walton H.Walker)の命令で国連軍、ROKは戦線を後退させ、韓半島南東部に追い込まれた国連軍は南北に流れる洛東江を天然の要害として米4個師団が西のX線、ROK5個師団が北のY線を担当した。ROKの配置は西から第2軍団第1師団、第6師団、第1軍団第8師団、首都師団、第3師団となっている。
洛東江防御線(釜山橋頭堡)の攻防戦と呼ばれる戦いで、映画「戦火の中へ」「アベンコ特殊空挺部隊 奇襲大作戦」等でも触れられている。
この頃、ROKは16~19歳青少年の学徒兵を現地徴用していた。他にも民間人の協力が多数あった。




