西南戦役の賊軍ってマジキチですか?
はじめに
西南戦争ってなによ? っ言うとマジキチなサムライが中央に逆らって反乱起こし、天皇陛下が鹿児島征討の勅を下された。軍事史として見ると、日本陸軍が新兵制を初めて実地に運用した大戦争である。賊徒は熊本城を囲み官軍と木葉高瀬山鹿間に戦い、警視隊が活躍。八代では後背を突いて賊軍を撃破。熊本城に官軍が続々と入ると、賊軍は鹿児島城攻撃。賊軍、城山に滅亡し鎮定されて涙目飯ウマと言う風に捉えられている。
1.西郷どんの決断
明治6年、征韓論を主張するが行われないのに逆ギレして陸軍大将と参議のお仕事辞めて田舎に帰った西郷どん。静かに暮らすつもりでも周りが動いてしまった。
「天下革命的血漢」とか言われる我らが西郷どんの有能なプレーンは「天下は大久保さんや木戸さんの物じゃねえよ。西郷さんと俺らの物にするんだよ。やるからには勝つんだよ」と勝手に暴れるわ、色々と動いて「政府に問う所あり」と言って西郷どんを巻き込んだ。明治10年1月30日の事である。
『人身穏やかのあらず』と言う事で国も暴徒化した事態を鎮圧すべく綿貫少警視(麾下、巡査200人)を長崎、かんたる一等大警部(麾下、巡査200人)を熊本、三等大警部(麾下、巡査100人)を佐賀県に送り込んだ。
ともかく賊徒と呼ばれていたが、彼らはへこたれずにマイペースで大胆な作戦を立案した。
2.熊本城、落とそうぜ!
西郷どんと仲間たち(薩軍、賊など色々と呼ばれ方はある)
(1)元サムライとかとか15,000人
(2)賊軍は増殖して4万まで拡大。「童話の戦争史」によると縣令(知事)の大山綱良は『官費を出して軍費にあて隆盛の便をはかった』とある。
官軍関係部隊
(1)熊本鎮台 熊本城 2,500人(1個聯隊+)
(2)たくさんの味方が戦闘を支援してくれ、陸軍52,000人、臨時徴募兵3,700人、海軍22,000人(軍艦11隻、運送船44隻)まで拡大
構想
(1)方針
プランA
フェイズ1 熊本城は3,000で包囲したままで、長崎に行ってお船を奪うよ。
フェイズ2 大坂に向かうよ。神戸取って、策源地にするよ。
フェイズ3 東京に行くよ。横浜落とすよ!
プランB
フェイズ1 熊本城包囲したままで、豊後に行って、博多、小倉を策源地にいただきます。
フェイズ2 高知で暴れるよ。ごめんね。
フェイズ3 大坂攻めて驚かせてやんよ!
プランC
フェイズ1 全軍で熊本城囲むよ。爆弾(地雷火)で石垣ぶっ潰すよ。
フェイズ2 城落ちたら根拠地にするよ。潰れてるのに。
フェイズ3 九州制圧するよ。
(2)指導要領
ともかく西郷どんが立ち上がれば、内閣に不満を持つ九州、四国、東北のお祭り野郎どもが便乗すると言う考えもあった。「農民、商人出の傭兵なんか怖かねえよ。かかってこいよ」と鎧袖一触で葬り東上するつもりだった。
3.彼我の動き
明治10年2月10日、寒くて大雪が積もる中を別府新助を先鋒とし陸軍少将篠原國幹(第二軍)、村田新八(第三軍)、西郷隆盛(第四軍)、池上四郎(第五軍)、陸軍少将桐野利秋(第六軍)、桂四郎(第七軍)、蒲生彦四郎(第八軍)の総軍13,000人(各1,600人)鹿児島に侵攻した。「西郷どん」によると2月14日には鹿児島から熊本に入っている。※「西郷南洲」では大隊「南洲公逸話」では二番大隊、三番大隊と記載されている。
「西郷どんが? んなわけねえよ」
谷干城少将は西郷どんを信じていた。だが予想は裏切られた。『2月18日開戦を公告』し2月14日、谷少将は米やら炭やら弾薬やら溜め込んで、地雷を作り熊本城に籠り、東上を阻止しようとした。
「火薬庫って一ヶ所だと危険じゃないか?」
「そうですね。分けましょうか」
と言うことで15日に火薬庫が二ヶ所となった。
あれこれやって準備が終わりほっとするが、火事が起きた。
「ああ、せっかく準備したご飯が」
「そんな事より武器を!」
幸いにして弾薬は無事だったが、30日分の糧食が消し炭になった。その為、周辺から買い漁る事となった。
19日、鹿児島の賊徒征討の令が下り陸軍大将有栖川二品親王が征討総督に任じられた。つまり天皇陛下もマジになったのだ。総督本営は大阪東本願寺別院に置かれた。
同日、小倉に居た乃木少佐の分營第14聯隊は熊本に入らんとしたが途中で賊軍に遮られた。
20日、第1旅団(旅団長野津鎮雄少将、参謀長岡本中佐。東京鎮台第1大隊、第1連隊第3大隊(長谷川聯隊長が直率)、大阪鎮台第8聯隊第2大隊、東京鎮台予備砲兵第1大隊第1中隊、輜重兵第1小隊、伝令騎兵半分隊)、第2旅団(旅団長三好重臣少将、参謀長野津大佐。近衛歩兵第1聯隊、東京鎮台予備砲兵第1大隊第2小隊、輜重兵第2小隊、伝令騎兵半分隊)編成。※「西南記伝」によると明治の兵制は歩、騎、砲、工、輜重兵より成る。歩兵は小隊、中隊、聯隊に区分され、旅団、師団、軍団は常設されていなかった。旅団は2個歩兵聯隊(各2個大隊)に砲兵、工兵1個小隊を加えて約3,000人。騎兵は数が少なく近衛と東京鎮台にしか存在しなかった。この当時は旅団司令長官と呼称した。旅団の兵站を支えた軍夫は最大25,000人であった。
同日、賊軍は熊本に入り熊本城を攻撃開始。桐野曰く「百姓兵が百万居たって怖かねえ!」と力攻めしたが遂に抜くことはできなかった。内地から官軍増援の到着を知った薩軍は、池上四郎(麾下3,000人)を熊本城の抑えとして残し桐野利秋が山鹿方面、篠原國幹が田原方面、村田新八と別府晋介が木留方面に向かった。
博多に上陸した官軍の正面軍は福岡城を本営に南下する。
22日正午、乃木少佐の第14聯隊は山鹿到着。夕刻、迎坂で村田三介率いる薩軍(+熊本の協同隊)の斬り込みを受け午後10時に退却、聯隊旗を失う。※「大山元帥」では植木木葉「乃木将軍」では植木町と記載されている。
「うわ、俺もうダメだ。死んだ……」と乃木少佐切腹しようとする。が「落ち着けよ、死ぬには早い」と止められた。
「うわ、なにするだ。刀を返してくれ」
協同隊によって奪われた聯隊旗は花岡山の薩軍陣地に翻った。
後日、日露戦役で死傷者を出しまくった事を考えれば、ここで死んでいた方が本人と周りの為にも正解だったかもしれない。
23日も薩軍は官軍を撃破するが、高瀬に官軍が進出しつつあった。
2月25日~27日、高瀬の戦い:乃木少佐の第14聯隊が苦戦、第1聯隊第3大隊の前衛(第1中隊)は玉谷、船隅で敵を迎撃。26日、長谷川聯隊長は第8聯隊の2個中隊を指揮下入れ(第3大隊長は第2、第3中隊(内藤正明大尉)を指揮)て植木に前進、寺田の敵を撃破。27日9時、高瀬攻撃を企図した薩軍は、木葉街道を正面に篠原國幹、別府晋介が前進。その右翼を桐野利秋が固め、左翼として吉次峠から村田新八が攻撃開始した。この攻撃は官軍の砲兵を前に破れ、ラストサムライかよと言うオチだった。
3月3日~20日、田原坂の戦い:高瀬で破れた敵は田原、吉次、木留、山鹿の要所を占領した。桐野利秋は山鹿から官軍の側面を圧迫すると言う目的があった。「西郷南洲」では4日となっているが3月3日、木葉、吉次から官軍は分進した。本街道より第1、第2旅団が主攻で、野津道貫大佐の右翼支隊が吉次峠に進軍した。
「明治大帝の偉業」によると『皇軍の向ふところ敵なく』とあるが、そんな訳もなかった。地形は天然の要害で急な坂、断崖絶壁、樹木鬱蒼と生い茂り暗い中で薩軍の抜刀隊突撃を繰り返し官軍に死傷者が続出した。
3月14日午前6時、山縣からの指示で警察から選抜された100人で編成された抜刀隊が右翼と左翼に当たり、その後に第1聯隊第2中隊が続きながら三方向から分進した。確かに戦果をあげて前進したが、篠原の逆襲を受けて撃退される事になった。15日、官軍は攻撃準備中に薩軍300人の攻撃を受けて横平山を奪われた。濃霧に乗じての攻撃で「歩兵第1聯隊史」によると樹幹を利用した伏射や上から石を落としてくるので900人が死傷したとある。最後は抜刀隊が奪還した。
16日間で官軍の死傷者は3,000人、1日に消費した弾丸は210,000発。地獄峠呼ばれマジで半端ない戦闘で『旅順口の白兵戦も、これ程ではなかったと云われる位な接戦』であったが、暴風雨の吹き荒れる中で20日午前9時に植木を制圧、敵の弾薬を焼却し植木以北を掌握する。
※「西郷隆盛伝」によると「お前、朝敵な」と手紙が着て西郷どんは自分が国を敵に回した事を初めて知ったそうだ。え、今さら? って感じだが3月12日に軍人時代の制服とか身分を表す物を焼くように命じた。
3月21日~4月6日、植木の戦い。後退した薩軍主力は向坂、右翼が鳥巣、左翼が木留、三嶽に展開していた。3月25日、別軍(別働第1、第2、第3旅団)は八代湾日奈久地区に上陸した。上陸は26日に完了、未明に進撃開始する。別軍(背面軍)の目的は北上して賊軍の後方連絡を遮断、正面軍と共に挟撃し包囲を解く事にあった。
27日に高瀬を奪取、28日に松橋での掃討を開始、31日には薩軍を追撃して一橋村まで前進した。賊軍は豊後、日向方面に退却する事となった。
※歩兵第3聯隊第1大隊(-)は別働第2旅団に配属、第4中隊は別働第3旅団に分派されていた。
4月12日、別働第5旅団を解き別働第1旅団(旅団長佐高大佐、独立歩兵2大隊、砲兵、工兵)に編入される。
4月15日、別働第2旅団が熊本城到着。敵を撃破し16日に入城した。官軍は本隊の4個旅団、別働隊の5個旅団、熊本鎮台兵を加えて30,000以上に達した。そしてどうでも良いが、熊本城と言うとガンパレ思い出してしまう。
一方、薩軍は宮崎、高鍋、左土原で破れ、肥後で失った兵力の回復は不可能であったが、薩軍は延岡を拠点に豊後方面への逆襲を企図していた。だが7月24日、都城、延岡も官軍の手に落ちた。
8月1日、西郷どんは大隅の城山の洞窟にビンラディンのように逃げ込んだ。残る賊軍は372人。9月14日、官軍は包囲して24日に総攻撃を行った。
西郷どんは鉄砲の弾に射たれて「うえぇ、俺死んだああああ」って事で、別府新介が介錯をすると首を持って岩崎谷に逃れた。この首は後に埋められた物が発見され首実検で本人と確認されている。明治大帝は西郷どんの死をなげき、明治22年に賊名を除き正三位を送った。賊軍の首領にそこまでやるなら、薩軍の発行した軍票の補償をしてくれと言うのが庶民の心情だろう。
残党はヤケクソになったのか、最後まで抵抗した。カルトはマジで怖いと言う事だ。池上四郎は竿の先に白いきれを結んで官軍の前に現れた。降伏の偽装だ。山縣有朋陸軍卿は策略を見抜き攻撃命令を下した。
9月27日、有栖川大将は鹿児島に入ると、各旅団の解散と帰還を命じた。
百姓兵を以て庶民皆兵主義を可能にして頗る有力なることを証明したが、薩軍の猛烈なる抜刀隊の突撃には少なからず苦しめられたのも事実である。




