ゴラン高原の戦い 第四次中東戦争
1.状況
1967年シナイ半島における攻勢は1959年のおさらいに近く、例によって北部沿岸は攻めやすい地形だった。
Six Day Warで知られる第三次中東戦争はイスラエルの攻撃で始まった。イスラエル空軍――IAF(Israeli Air Force)は6月5日、スエズ運河西岸部、シナイ半島とシリア、ヨルダンの航空基地を襲撃。航空優勢を獲得、地上軍の進撃を支えた。
ヨルダン領のヨルダン川西岸部はイスラエル領内に打ち込まれた楔の様な物で、国防上の観点から放置は出来なかった。IDFは三方向から侵攻し8日までに同地を制圧した。シリア領のゴラン高原に対しては9日、10日に侵攻が始まり、第三次中東戦争はイスラエルの完全勝利で終わった。
イスラエルがシリアから奪ったゴラン高原は戦略上の要所で、ここからイスラエルの首都機能を持つテルアビブまで障害になるのはヨルダン川だけ。イスラエルへの入口とも言える。
失地回復に燃えるシリア軍とヨルダン川を越えられれば後の無いIDF。どちらも譲れない。
いくつかの小競り合いを繰り返した結果、1973年10月にシリア軍、エジプト軍の先制攻撃で第4次中東戦争(Yom Kippur War)が発生する。10月6日、IDF北部軍は第1歩兵旅団(Amir Drori大佐)、第188機甲旅団(Yitzhak Ben Shoham大佐)、第7機甲旅団(Avigdor Ben Gal大佐)を以てシリア軍と対峙した。※他にElisha Shelem大佐麾下、第31落下傘旅団が存在した様だが、具体的展開位置は不明。
シナイ方面のIDFは準備不足だった。スエズ運河東岸沿いにバーレブラインと呼ばれる陣地群が構築されたが配備する戦力が不足していた。シリアと接する北部軍は第1歩兵旅団、第188機甲旅団で構成されており、9月中旬から第7機甲旅団が送り込まれ、10月6日の開戦時にはゴラン高原北側に展開完了していた。
一方、停戦ラインを挟み対峙するシリア軍の第7、第9、第5歩兵師団はそれぞれ歩兵2個旅団、機械化歩兵1個旅団、戦車1個旅団で構成されており、各歩兵師団は戦車約200輌を保有していた。さらに後方には第1、第3戦車師団が控えており、戦車だけで見ればIDFの10倍を初戦に投入していた。
※文献によっては1969年3月から1970年8月7日までの戦闘を第四次中東戦争とし、Yom Kippur Warを第五次中東戦争と表記する物もあるが、日本では一般的ではない。
※シリア軍の支援としてモロッコ1個混成旅団、サウジアラビア1個戦車旅団、パレスチ(PLA)2個コマンド旅団、イラク1個戦車師団、ヨルダン1個戦車旅団が参加した。
2.経過
ゴラン高原で第188機甲旅団の正面にはシリア第9歩兵師団(Hassan Tourkmani大佐)と第5歩兵師団(Ali Aslan准将)が展開していた。シリア軍第一梯隊は第52、第33、第12、第61歩兵旅団。空爆と砲撃と言うセオリー通りの掃除が済むと堆土、対戦車壕に守られたIDF陣地に向かって地上部隊が前進開始する。それぞれの歩兵旅団にはT-34戦車1個大隊が付いていた。歩兵はサガー対戦車ミサイル、RPG-7で対機甲戦能力が付与されていた。
第53機械化歩兵旅団、第51戦車旅団、第47戦車旅団、第132機械化歩兵旅団による第2梯隊は第1梯隊の構築した突破口を拡大し戦果拡張を行った。
第188機甲旅団は2個師団の攻撃を受けて半日で保有戦車90輛から12輛へと戦力を低下させた。旅団としての継戦能力は失われており南部の戦線が抜かれるのも遠くないとIDFは判断、ヨルダン川にかかる橋梁の爆破が検討され始めていた。
※シリア軍の攻撃計画によるとヨルダン川にかかるArik橋、Benot ya'akov橋に空挺部隊を投入し確保、第7、第9歩兵師団の到着を待つ予定だった。なお1973年当時、シリア軍が保有した空挺技能をもつ部隊は第82落下傘大隊と第1コマンド群で、開戦時にヘルモン山にヘリボン攻撃を実施している。
※シリア第5歩兵師団は助攻であり、第9歩兵師団の一部はNafkekhを目指しており第188機甲旅団が実際に対峙した兵力は更に減っている。
圧倒的兵力のシリア軍はパープルライン(停戦ライン)に沿って構築されたIDFの防衛線の突破を試みるが、その企図は失敗する。IDFも無傷とは行かず、文字通り限界まで消耗された。
崩壊寸前の戦線を建て直そうとIDFは奮戦し泥沼の消耗戦が始まる。
10月7日午前、第240機甲師団(第79、第17、第19予備機甲旅団)がヨルダン川西岸から来援し南部戦線を引き継いだ。午後にはガリラヤ湖南方から第146機甲師団が到着する。第240予備機甲師団の到着で第188機甲旅団は任を解かれたわけではない。味方増援の到着でゴラン高原南部の戦線は持ち直し、第188機甲旅団は北部の第7機甲旅団応援に振り分けられた。
9日、ヨシ・ペン・シャネン中佐指揮の戦車11輛を加えても第7機甲旅団の担当する20㎞の戦線で稼働する戦車は18輛とシリア軍に比べて圧倒的に劣勢であった。
この状況でIDFはダマスカス方面に侵攻する事で、敵軍の後背を脅かし戦線への圧力を反らそうとした。
10日、Rafael Raful Eitan准将麾下、Ugda Raful(第36機甲師団)、Dan Laner准将麾下、Ugda Laner(第240予備機甲師団)が前進しMoshe Musa Peled准将麾下、Ugda Musa(第146予備機甲師団)が突破口形成部を保持すると言う流れだった。尖兵となる第36機甲師団はこの時、第7機甲旅団の稼働戦車は第77大隊9輛と第188機甲旅団残余戦力の11輛。精鋭とは言い難い寄せ集めであった。
この攻勢に対してシリア第3戦車師団と第7機械化歩兵師団が立ち塞がり、応援のイラク第3戦車師団(Lafta准将)、ヨルダン第40戦車旅団(Heled Hajhouj al Majali准将)がIDF突出部の右側面を叩いた。
※第36師団は「ゴランの激戦」では機械化師団と記載されており、「The Israeli Army in the Middle East Wars 1948-73」でも36 th Mechanised Ugdaと記載されていた。「中東戦争全史」(原書房、1981年)ではエイタン師団と記載されており「Never-Ending Conflict: Israeli Military History」でもEitan's divisionとなっている。便宜上、手持ちの発行年度の新しい物を参考にUgda Rafulとした。
3.所感
第188機甲旅団は敵2個歩兵師団(+)を拘束し、味方主力による反撃準備の時間を稼いだ事は指命達成と言える。




